樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

靖国神社について(Y-56)

はじめに

先月半ばにこんな夢を見ました。

自分はまだ現役で、仕事を終えて家に帰ると5,6人の若者が私を待ち構えていました。

訳を聞くと、“「靖国神社」について意見を聞きたい”というのです。彼らの中では、意

見が分かれてまとまらないので教えてほしいというわけです。

「まあ上がれ」と言って、随分長い話し合いをしたような気がしますが、具体的な内容

はあまり思い出せません。ただ、しばしば返答に窮したことだけが重々しい感覚として

残りました。その後2,3日、なんだかモヤモヤした気分でしたが、スッキリさせるため

には、やはりきちんと自分の頭を整理するしかありません。そこで、いろいろと調べな

おしているうちに2週間が過ぎてしまいました。長い物語になりそうですが、なんとか

自分だけでもスッキリさせたいと願いながら話を進めてゆきたいと思います。

<神社と神道

靖国神社の話に入る前に、まず神社とは何かについて考えてみましょう。

広辞苑には、神社とは “神道の神を祀るところ” とあります。

また、神社庁のホームページには、「日本人の暮らしの中から生まれた神々への信仰が

祭りという形となって表現され、その祭祀の場所として神社が作られ、6世紀に伝来し

た仏教に対する日本固有の信仰を神道と表現するようになった」といった趣旨の説明が

あります。

神道には経典や戒律がありません。”唱えことば“もありません。”他の神を信じてはなら

ない”という戒律もありません。そこが一神教と根本的に異なっているために、外国か

ら誤解されやすい一因となっていると思われます。

かつて、小渕総理の急死を受けてその後を継いだ森喜朗首相が、“日本は神の国”と発言

してメディアなどから糾弾されたことが在りました。(於「神道政治連盟国会議員懇談

会」2000.5.15) 問題とされた発言は、一部が切り取られたものであり、全体を読め

ば、元総理は、「信教の自由とはどの神も仏も大事にしようということ、排他主義を止

め命の大切さを子供たちに教えなければならない」という趣旨の発言であったことが分

かります。それを国粋主義者と決めつけるのは、”誤解”ではなくて”イデオロギー”とい

うべきかもしれません。だから両者には、冷静な議論はおろか分かりあおうとする努力

さえも生まれないのです。その根底には、”世界の神は共通ではない“という問題が横た

わっています。

<Godと神とカミ>

“世界の神は別物”という問題について、

“Godを日本語では「神」と訳しカミと発音する。これが間違いかも知れない”

という言葉で切り出した東工大橋爪大三郎名誉教授はこのように続けます。

“Godは一神教の神のこと。世界で一つしかないものだから英語の習慣で大文字で書く。

小文字でgodと書くと、あっちこっちにいる多神教の神という意味になってしまう。

漢字で書くと中国語の「神」の意味になる。精神、神経という場合は、人間の精神現象

という意味、神のような存在も表すが、決してランクの高い存在ではない。いちばんラ

ンクの高いものは天とか上帝とか呼ぶことになっている。

日本古来の「カミ」は、ひとことで言えば自然現象を人格化したもの。古事記・日本書

紀に登場するカミや神社に祀られるカミはむろんのこと、太陽や月や風や雨や海や大き

な木や岩や動植物も人間も並外れたものはみなカミである。“

この考え方は、江戸中期の国学者本居宣長の説に基づいています。本居宣長は、「古事

記伝」のなかでこう述べています。

“凡て迦微(カミ)とは古御典等(いにしえのふみども)に見えたる天地の諸の神たち

を始めて、其を祀れる社に座す御霊をも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐ

ひ海山など、其与(そのほか)何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(か

しこ)き物を迦微とは云なり。優れたるとは、尊きこと、功(いさお)しきことなどの

優れたるのみを云に非ず、悪しきもの奇しきものなどもよにすぐれて可畏きをば神と云

なり。”

要するに、本居宣長は”並外れたものはみなカミである“であると定義したのです。

将に八百万の神で、愛知県には男根をまつる神社もあります。また、疫病神や貧乏神と

いった災いをなすカミもあり、それらを総称する禍津日神(まがつひのかみ)という言

葉もあります。しかし、ここで一つ大切なことを付け加えなければなりません。

それは、海、山、鳥獣、木草といったものは、それ自体がカミではないということで

す。カミに神像はありません。神社には依り代(よりしろ)すなわちカミが宿る物(場

所)が安置されますが、そこにカミが常駐しているわけではないのです。カミは目に見

えるものではなく、“宿るもの”なのです。

それは、誰もが知る「千の風になって」という歌のイメージに似ているかもしれませ

ん。この歌は、元電通社員で芥川賞作家の新井満が、友人の妻の死をきっかけに作詞作

曲したもので、実は元歌があります。つまり訳詞したものです。後に南風椎はえ

い)という作詞家が私の訳詞をパクったものだと主張して話題にもなりましたが、それ

にもかかわらず多くの人に支持されたのは、日本人の心に響くものがあったということ

でしょう。

ちなみに元歌のさわり部分は、

  Do not stand at my grave and weep

     I am not there; I do not sleep

     I am a thousand winds that blow

というもので、その作者は不詳(ボルティモアの主婦 Mary Frye 説が有力)とされて

います。彼女が信ずる宗教が何かは分かりませんが、そこには死者の霊魂が残る、ある

いは残っていてほしいという共通の宗教観があるような気がします。

一方、旧約聖書にある「ノアの方舟」の神話は、私たちには何となく違和感があるかと

思います。

神(主)は堕落した人間を滅ぼすと決め、正しく生きているノアに方舟をつくるよう命

じます。ノアが命ぜられた寸法どおりの方舟を完成させ、妻と三人の息子夫婦とすべて

の動物のつがいを乗せると大洪水が起き、地上の生き物は全て滅んでしまいます。ノア

一家とひとつがいの生き物たちだけが生き延びるわけです。この神話は、一神教におけ

というよりる唯一絶対の神(God)と人間の関係を良く表しています。

「God」は自分を信じ、約束(戒律)を守るもののみを救うのです。というより、自分

を信じない者、戒律に背く者は殺してしまうのです。

 

日本の神道は江戸後期の平田篤胤のいわゆる「平田神道」と呼ばれる思想によってかな

り大きな変化を遂げます。本居宣長の弟子を自称する彼は、次のように唱えました。

「人間は死ぬと仏になるわけでも黄泉に行くわけでもない、霊となる。とりわけ国事に

殉じた人々の霊は、穢れのない英霊となって、後続する世代の人々を護っている。」

誰もが霊になるということは、仮に仏式の葬儀を行ったとしてもそれとは無関係に神道

式の慰霊の儀式を行うことができるということになります。明治政府はこの平田神道

採用し、明治2年に東京九段に「招魂社」が設けられ、それが後に靖国神社へと発展し

てゆきます。                       (続く)

                            2023.10.02