樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

靖国神社について(7)(Y-62)

靖国問題とは>

靖国問題」で検索するとウィキペディアに次の6項目が挙げられています。

しかしこれらの問題は、個別に存在しているわけではなくて、結局は「憲法」と「歴史

認識」の二つに束ねることも可能であり、さらに言えばすべては「歴史認識」の問題で

あると言えそうな気もします。

となれば、もう一度「サンフランシスコ条約」に戻らねばなりません。

前回、“戦争の終結講和条約の発効による”という国際常識についてお話ししました。

従って、講和条約の締結以前に行われた連合国による軍事法廷及び刑の執行は戦争行為

の一環であるということになります。であるならば、講和条約(平和条約)とともに一

切の戦争行為が終結されなければなりません。

世界は幾度もの戦争を繰り返した末に、“講和条約によって取り決められた事柄の外

は、すべて水に流すことにする”という国際常識(慣例)をつくりあげたのです。

とはいえ、現実の講和条約にはあいまいな部分があり、その解釈や範囲をめぐる問題が

しばしば発生しています。

サンフランシスコ条約についても、とくに11条の解釈が分かれ、議論が生じています。

正文は英語、仏語、スペイン語の3種ですが、日本では英文を外務省が翻訳した次の条

文が一般的に知られています。

サンフランシスコ条約第11条

 “日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内および国外の他の連合国戦争犯罪法廷

の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を

執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる

権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定、及び日本国の勧告に基

づく場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者につい

ては、この権限は裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づ

く場合の外行使することができない。”

この条文は、主権を回復した日本政府が、拘禁されている戦犯を国際的慣例に従い釈放

することを禁ずるために設けられたものだと考えられますが、これにより日本政府は既

に死刑が執行された者を除く受刑中の戦犯に対する禁固刑等の執行を引き継ぎ、赦免、

減刑仮出獄等については関係国と協議しなければならないという義務を負わされたわ

けです。

この条文に従い、日本政府は関係国と協議のうえ、昭和33年末までにすべての戦犯の仮

出獄を認めさせ、刑期を満了させました。実はこの時、釈放を求める国民の署名活動が

あり、延べ4000万人を超える署名があつまったのだそうです。

本来ならば、“これにて一件落着”となるべきなのですが、そうはなりませんでした。

日本が「受諾」したのは、裁判の結論(刑の宣告)だけではなく判決文の全てであり、

つまり歴史認識そのものを指すのだという解釈が生まれ、そしてそれが主流となってゆ

くのです。そのカギとなるのが「Judgements」という用語です。

議論は完全に二つに分かれ、適当な言葉が見つからないので仮に右翼系/左翼系と呼ば

せていただきますが、右翼系は「Judgements」は「判決」であり裁判全体を受け入れた

のではないと言い、左翼系は判決文の中には理由などの詳細が含まれているので「裁

判」と訳すことはむしろ正しいと主張します。しかしこの論争は、正文として認められ

ている仏語・スペイン語の原文を見ればはっきりしてきます。

仏語のこの部分は、「judgements prononc」(言い渡されたジャッジメント)と書かれ

ており、スペイン語では「sentencias」(判決)と書かれているからです。この二つの正文

からみれば、「judgements」は「諸判決」と訳すべきことが分かります。

とは言え、この論争はあまり意味がないようにも思われます。そもそもこの裁判はポツ

ダム宣言が法的根拠とはいえ、マッカーサー元帥が有無を言わせず開設したもので、日

本側に受諾するか否かを対等な立場で判断する機会などなかったからです。

「Japan accepts the judgements of・・」とあるように、「受諾」は現在形で書かれて

います。事実上裁判を受け入れた(受け入れさせられた)のは過去のことですから、や

はり「裁判」と訳したのは誤訳なのではないでしょうか。

さて、東京裁判の判決が下された直後、日本側はこれをすんなりと受け入れたのでしょ

うか。実はそうではありません。弁護側からマ元帥には減刑などの訴願があり、米国最

高裁に対しても、マ元帥に米国憲法違反の疑いがある(承認を得ずに新たな罪状のある

裁判所を開設)として提訴したのです。そして、以外にもこれが受理されたのですが、

結局マ元帥は連合国の代表として行ったものであるから、米国裁判所の管轄外であると

して却下されました。

当時、国民の間に戦犯に対する同情の声が少なくなかったのは、彼らが日本(人)を代

表してその罪を背負ってくれたという意識があったからでしょう。しかし肝心の被告人

たちは国体護持のために命を捧げる決意を固めていたこともあって、運動は盛り上がら

なかったようです。

東京裁判では、昭和21年4月29日すなわち「天皇誕生日」に28名が起訴され、その全員

(公判中に死亡した2名と精神障害免訴の1名を除く)が有罪となり、いずれ次の天皇

誕生日となる予定の皇太子(平成天皇)の誕生日に7名の死刑が執行されました。

それを偶然とみるほどの”お人よし“ではありませんが、取り立てて云々するのも却って

むかつきますのでこれ以上は言いません。

日本政府が「判決文全体を受諾した」という姿勢を示したこともあり、その後は次第

に、戦前の日本は”悪“である、しかしその責任は一部の(軍国主義)指導者にあり、騙

されていた国民に罪はないといういわゆる「東京裁判史観」=「自虐史観」が国内にも

浸透してゆきました。

 

A級戦犯とは>

論者の中には、“A級戦犯の合祀から騒ぎが起きたのだから、靖国問題A級戦犯問題

であるという人もいます。それはどういうことなのでしょうか。

A級とは、米国政府の日本人戦犯に関する基本政策文書で定められた呼称で、次のよう

な類型となっています。単なる類型なので、罪の軽重とは関係ありません。

 A級:平和に対する罪  B級:通例の戦争犯罪  C級:人道に対する罪

東京裁判は、侵略戦争を主導した国家指導者を裁くという名目で開設されましt。だか

ら被告全員が「A級戦犯」と呼ばれます。(但し、松井岩根陸軍大将の訴因はBのみ)

A級の”平和に対する罪”というのはそれまで存在しなかった罪です。だから、”事後法で

裁いてはならない“という最も基本的な法の原則を破るものだとして、東京裁判そのも

のが正当性に欠けるという批判もあります。しかし、これは平時における裁判ではな

く、戦時(休戦状態)における軍事法廷なので仕方ないのかもしれません。”この裁判

は復讐と弁解と宣伝に過ぎない“と発言したO・カニンガム弁護士(大島元駐独大使担

当)のような弁護人もいましたが、直ちに解任されてしまいました。

A級戦犯容疑者の逮捕は、昭和20年9月11日の東条英機元首相とその閣僚たちを皮切りに

4次に分けて93名(?)が逮捕され、さらに翌年にも個別の逮捕や外地での逮捕もあり

総計約100名が拘束されました。そのうち28名が起訴され、公判中に死亡した2名(松岡

洋右、永野修身)と精神障害免訴となった1名(大川周明)を除く全員が有罪とされ

ました。約2年半にわたる裁判がようやく結審を迎えたのは、昭和23年(1948)11月

で、4日から判決文の朗読が始まりました。判決文は10章1,212頁の長文で、1週間はか

かるだろうと予想されたとおり、最後の刑の宣告が始まったのは、8日後の12日午後3時

55分でした。

起訴された28名の判決と死刑判決に対する判事11名の賛否、及び靖国神社合祀について

は以下の通りです。下表の中で、死刑判決に関わる各判事の賛否は公表されてはいませ

んが、投票結果については、ほぼ間違いないものと思われます。(「東京裁判」児島襄

によれば、11名の判事のうち、豪・ソ・仏・印の判事はすべて死刑反対、逆に英・中・

フィリピン・ニュージランドはすべて賛成と思われるため、結局、米、加、蘭の3国で

死刑か否かが決まる構成となっていて、広田は米、加の票で死刑となり、嶋田は逆に

米・加の反対票で死刑を免れました。同様に、木戸は米・蘭、大島、荒木は加・蘭の反

対票で終身刑となったようです。広田元首相が死刑になったのは、土肥原・板垣・広田

の3人はどうしても死刑にする必要があると頑強に中国が主張したからだと言われてい

ます。そこに松井大将の名がないのは不思議な感もしますが、おそらく松井大将は南京

事件の責任者としてB級で死刑が確定的であったからでしょう。

 *A級戦犯の判決等

                      11判事の票

  東条英機  元首相     死刑    (7:4)

  広田弘毅  元首相     死刑    (6:5)

  土肥原賢二 陸軍大将    死刑    (7:4)

  板垣征四郎 陸軍大将    死刑    (7:4)

  木村兵太郎 陸軍大将    死刑    (7:4)

  松井岩根  陸軍大将    死刑    (7:4)

  武藤章   陸軍中将    死刑    (7:4)

  平沼騏一郎 元首相     終身刑          刑期中に病死

  白鳥敏夫  元駐伊大使   終身刑          刑期中に病死

  小磯国昭  元首相     終身刑          刑期中に死亡

  梅津美治郎 陸軍大将    終身刑          刑期中に死亡

  東郷茂徳  元外相     禁固20年           刑期中に死亡

  永野修身  元帥        (判決前に病死)

  松岡洋右  元外相       (判決前に病死)

(以上14名が靖国神社に合祀されている)

  木戸幸一  元内大臣    終身刑   (5:6)  1953仮釈放

  賀屋興宣  元蔵相     終身刑             〃

  島田繁太郎 海軍大将    終身刑   (5:6)     〃

  大島浩   陸軍中将    終身刑             〃

  荒木貞夫  陸軍大将    終身刑   (5:6)     〃

  星野直樹  元国務相    終身刑             〃

  畑俊六   元帥      終身刑             〃

  南次郎   陸軍大将    終身刑      (1955獄中死)

  鈴木貞一  元企画院総裁  終身刑           1956釈放

  佐藤賢了  陸軍中将    終身刑             〃

  橋本欣五郎 陸軍大佐    終身刑          1955釈放 

  岡敬純   海軍中将    終身刑          1954釈放

  重光葵   元外相     禁固7年          1950仮釈放

 

A級というのは「平和に対する罪」で、日本の世界征服を企図して「共同謀議」を行っ

た犯罪人ということですから、全員(松井大将を除く)が訴因①の「平和に対する罪」

に該当するとされました。当初検事側は、「共同謀議」の始まりとして「田中上奏文

昭和2年に当時の田中首相が世界征服のプランを陛下に上奏したとする中国語訳の怪

文書)を証拠資料に上げようとしたようですが、偽書と分かり広田内閣の「国策の基

準」に変えました。広田元首相は、その前は岡田内閣の外相でしたが、2.26事件で岡田

首相が暗殺されたため思いがけなく首相に指名されることになりました。外相時代は、

「私の在任中に戦争は断じてない」(中国戦は事変でした)といって「協和外交を進め

ていた人物です。ただ一つ汚点があるとすれば、広田内閣の時に、陸軍及び海軍大臣

現役武官制を認めてしまったことで、それ以降軍に反対されると組閣できない状態にな

ってしまったことです。総理就任時、天皇が新総理へ要望した要件は、

“1.憲法の規定遵守 2.外交は摩擦を避ける 3.財界に急激な変動を与えない” 

であって、世界征服の気配など微塵もありません。そもそも、ここに上げられた人たち

は一堂に会したこと等一度もなく、中には話をしたこともない人が混じっているはずで

す。実際、陸軍と海軍は常時と言っていい程いがみ合っており、文官たちも交えて三つ

巴のような状態で、それが敗戦の一因でもあるわけですから「共同謀議」と聞いて被告

たちはさぞかし面食らったことでしょう。と同時に、この裁判が容易ならざるものであ

ることを覚悟したに違いありません。

被告たちもはじめの頃は、全員無罪を主張し戦う姿勢を見せていましたが、やがてその

姿勢に変化が現れてきます。「結論ありき」の裁判であることを感じ取ったのです。

それは、被告だけではありませんでした。 開廷から日も浅い5月18日、広田弘毅夫人

(静子)が「パパを楽にしてあげる方法がある」と言い残して自殺を遂げるのです。

おそらく、何回かの面会で夫の覚悟を感じ取っていたからだと思います。

また、“軍人は命令に従うのが本文である”式の自己弁護は、必ず天皇の責任問題を呼び

起こします。元々起訴さえ不当だと思われていた広田元首相や松井岩根被告が真っ先に

自己主張を止めてしまったので、他の被告たちも一部を除き、「国体護持」のために不

名誉に甘んじる姿勢に変わります。

被告たちの中で―おそらく東条・広田元首相や松井大将など-は長く獄中生活を強い

られるよりは死刑を望んでいたと思われますが、数年後に釈放されるならば勿論その方

を望んだことでしょう。1票の差はあまりにも大きな差であったと思わざるを得ません。

以上がA級戦犯のあらましですが、B・C級戦犯については、延べ5,423名が米・英・豪・

蘭・中・仏・フィリピンでの軍事法廷で裁きを受け、920名が死刑になっています。

公正な裁判が行われたとは想像しがたく、それを思うと心が痛みます。

せめてもの救いは、その人たちが靖国神社に祀られていることではないでしょうか。

しかし「A級戦犯だけは別だ、靖国合祀などとんでもない、昭和天皇だってそうおっし

ゃっているではないか」という意見があります。その主張は、いわゆる「富田メモ」の

強力なインパクトにより、いまや反論を許さぬ定説になりつつあります。

しかし、本当にそうでしょうか。

次回は富田メモA級戦犯の合祀について掘り下げてみたいと思います。

                     2023.11.15