この回は<靖国神社に祀られる英霊>について述べる予定でしたが、その前にその前身
である「東京招魂社」が誰の発案であったのか、またその目的が何であったのかを確か
めておきたいと思います。一般的には、発案は大村益次郎で、その目的は戊辰戦争にお
いて官軍側で命を落とした人々の慰霊ということになっているようですが、調べてみる
とそれを裏付ける証拠がなかなか見つからないばかりか、通説に対する疑問も生じてき
ました。そこで今回は、誰が靖国神社を創ったかをテーマにしてお話しします。
<誰が靖国を創ったのか>
靖国神社の前身「東京招魂社」には、頭に「東京」の文字がついています。それは、他
にも招魂社があることを示唆しています。実はその通りで、日本初の招魂社は長州藩に
誕生しています。
1863年長州藩の高杉晋作は、攘夷思想の下に生起した長州藩と英米仏蘭との武力衝突
(下関戦争)における戦没者の霊を慰め、また奇兵隊の団結を高めるために自分たちの
招魂場をあらかじめ設けておくことを提案しました。そうして下関の地に日本初の櫻山
招魂場が設置されたのです。2年後には社殿が完成して招魂社となり、この生前の身分
に拘わらず戦没者を人神(ひとがみ)として祀る招魂社の発想は全国に広まって行きま
した。
靖国神社のホームページ「靖国神社史」には、創建時のいきさつがこのようにかなり詳
しく記されています。
6月 軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王の命により同副知事大村益次郎らが東京九
段坂上三番町の旧幕府歩兵屯所跡に赴き招魂社建設地を検分(12日)
九段坂上招魂社・社地を東京府から受領、仮本殿・拝殿を起工(19日)
29日から5日間、招魂祭執行の旨、軍務官より在京諸藩に通達(23日)
招魂社鎮座、第1回合祀祭(29日)
鎮座祭に併せて相撲奉納
ところが、それ以降の出来事については戦争や事件などのタイトルが淡々と記述されて
いるだけで、このような詳しい記述は全くありません。
何故この部分だけが詳しいのか、逆に何故他の部分では詳しい説明がないのか、その理
由は分かりませんが、どこかの時点(戦後?)で削除されたか、或いは本当の社史は非
公表とされてしまったのか、いずれにせよ不自然な感じは否めません。
それはさておき、社史の記述を手掛かりに少し掘り下げてみたいと思います。
まず、軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王の経歴ですが、嘉彰親王は伏見宮邦家親王の第8王
子として誕生します。12歳の時に仁孝天皇(120代)の猶子となって親王宣下を受け、
仁和寺の門跡となりますが、1867年還俗を命じられ仁和寺宮嘉彰親王を名乗ります。
そして、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執ります。明治3年から3年間英
国に留学し、その影響を受けたのでしょう、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、
自らも率先垂範しました。明治15年に小松宮彰仁と名を変えたので、一般にはこちらの
名で知られているようです。西南戦争では旅団長として出征し、日清戦争では征清大総
督として旅順に出征しています。また、英国王の戴冠式に明治天皇の名代として臨席し
たり、日本赤十字社の総裁を務めるなど、大変才能のある”飾り物でない“宮様であった
ようです。
しかし、当時23歳の嘉彰親王が招魂社の創設を発議するとは考えにくい気がします。
では、一般に信じられている大村益次郎の発案なのでしょうか。
大村益次郎は、元は村田蔵六といい長州の村医者でした。その彼が緒方洪庵の下で蘭学
を学んだことから、西洋の科学や軍事に関する知識を身に着け、やがて見出されて維新
戦争における官軍の指揮を執ることになり、ことごとく勝利して最大の功労者となるの
です。その生涯は司馬遼太郎の「花神」という小説に描かれ、1977年の大河ドラマにも
なりました。
「花神」とは「花咲爺」のことで、司馬遼太郎はこの小説のなかで、このように自身の
歴史観を語っています。
“大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死を遂げる。日本では吉
田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆
盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者であ
る。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担
当したような軍事技術であってもいい。”
この説に異論を唱えるつもりはありませんが・・と言いながら異論を言わせてもらうの
ですが、村田蔵六(大村益次郎)もまた維新道半ばの明治2年、海江田信義(有村俊
斎)の手の者と思われる浪士たち暗殺されてしまいますので、「花神」というよりは、
二番目の「戦略家」の部類に入れられるような気がします。私の感覚からすれば、
「花神」の名にふさわしいのは岩倉具視か大久保利通ではないかと思うのです。
靖国神社の境内に銅像が建てられていることからしても、大村益次郎が靖国神社に深い
かかわりを持っていることは否定できませんが、理性と合理主義の権化のような大村益
次郎が、最も多忙を極めていた時期に招魂社に建設を優先するということも考えにくい
のです。また、もしそれが事実であったならば、司馬遼太郎が「花神」のなかで触れな
いはずがないとも思います。
では発案者は誰なのか、この時期、政治の中枢には当然薩摩・長州出身者が多くを占め
ていましたが、薩摩出身者の中には思い当たる人物はいません。いるとすれば、やはり
長州出身者でしょう。となると、「情」の人、木戸孝允あたりが浮かんできます。
また、軍務と会計を担当して実質的には岩倉内閣が形成されていたかにも見える岩倉具
視も候補者の一人ですが、その可能性委は低そうです。
色々調べているうちに、「岩倉公実記」という資料を見つけました。これは岩倉具視の
秘書であった多田好問という人がまとめた全3巻に亘る膨大な資料集です。
有難いことに、これを「国会図書館デジタルコレクション」が閲覧サービスをしている
ので読むことができます。
その下巻1、133項に「招魂社ヲ建設スル事」というタイトルがあったのです。
しかしそこには、「癸丑以来の殉国者の霊魂と伏見開戦以来の戦死者の霊魂を祭祀すべ
く東山に一社を新たに建設するので各藩主はその趣意を理解し遺漏なきようつとめるべ
し」といった内容が書かれているだけでした。癸丑は1853年にあたりますので、ペリー
来航以来という意味になります。残念ながら、誰の発議かに関する情報は得られません
でしたが、収穫もありました。それはこの布告に“今後王事に身を滅ぼした者は速やか
に合祀手続きを取りなさい”という指示が加えられていることです。私は、招魂社建設
当初においては、後のことは考慮していなかったのではないかと考えていましたので、
その誤りを正してくれる資料となりました。実はこのとき新政府は、まだしばらくは犠
牲者が出ることを予想していたということです。つまり、不満分子の反乱なり戦争なり
があることを覚悟していたということです。
結局、発案者は見つかりませんでしたが、もしかすると招魂社を建てるかどうかの議論
は最初からなかったのかもしれません。つまり、みんなの頭の中にはすでに「招魂社」
がが存在していて、“どこに建てるか”の段階にあったのではないかということです。
敢えて言えば、発議したのは“死せる高杉晋作”ではなかったかということです。
そして、昭和14年3月15日に公布された「招魂社ヲ護国神社ニ改称スルノ件」により、
日本各地の招魂社は一斉に護国神社となります。しかし靖国神社だけは改称されません
でした。それはやはり明治天皇の命名ということがあったからでしょう。その意味で
は、靖国神社を創ったのは明治天皇であると言うことも出来ようかと思います。
次回は<靖国神社に祀られる英霊>の予定です。
2023.10.21