日本人は外国人嫌いだと?(J-144)
5月17日(日本時間18日)ロサンゼルス市は、ドジャースの大谷選手を市議会に招き、
この日を「大谷翔平の日」に制定するという決議文を手渡し祝福した。
その夕刻、彼はこれに応えるかのようなリーグの先頭に立つ13号ホームランを放ち、チ
ームの勝利に貢献した。後にわかったことだが、5月17日は彼の父徹氏の62歳の誕生日
でもあった。やはりこの男、尋常ではない。
今シーズンは投げないことになっているものの、術後の経過は予想以上に良いようで、
もしかすると、ポストシーズンでの登板もあるのではないかという期待さえも膨らんで
くる。樗木もまた、“大谷翔平依存症”とでも言いたいような状態で、世の出来事への感
受性や批判精神が鈍化しているような気がしなくもない。とは言いながらも、久々に違
和感を覚える記事に出会ったのでこれに食いついてみたい。
それは、毎日新聞の論説委員や専門委員が曜日ごとに担当しているコラムで、私の知的
好奇心を刺激してくれるお気に入りである。以前にも、火曜日の「火論」(大治朋子専
門記者)に噛みついた記憶があるが、今回は5月11日土曜日の「土記」(伊藤智永専門
編集委員)が対象だ。そのタイトルは「憲法に潜む外国人嫌い」、なんだか週刊誌っぽ
い表題である。
内容的には、憲法制定過程のGHQと日本政府側のやり取りなどが紹介されていて興味深
いものだが、なんとなく意図的な“ミスリード“が感じられるのである。
まずは書出しの部分だ。
“「日本人は外国人嫌いだ。移民を望まないから問題を抱えている」バイデン米大統領
の発言は、選挙集会用の失言ではなかった。3月にラジオ局のインタビューでも同じこ
とを云っていた。日本政府は遺憾の意を伝えたが、米側は撤回も謝罪もしていない。
集会は1日。憲法記念日前だった。実は77年前に施行された日本国憲法に「日本人の外
国人嫌い」は埋め込まれている・・・・“ なんだか怪しい気配がする。
実際のバイデン発言を調べてみると次のとおりである。
“今年11月の大統領選挙では、自由とアメリカと民主主義が問われる。何故か?私たち
は移民を歓迎するからです。考えてみてください。どうして中国は経済的にこれほどひ
どく停滞しているのか。どうして日本は大変な思いをしているのか。ロシアはどうし
て?インドはどうして?これらの国々は外国人を嫌っているからです。移民に来てほし
くないのです・“
このスピーチが行われたのは資金集めのパーティーで、聴衆の大半はアジア系米国人で
あったらしい。だからバイデンは、聴衆やその祖先(移民1世)を称賛してご機嫌取り
をしたというのが真相のようだ。加えて、トランプ氏との違いを強調する狙いもあった
であろう。
また、“3月のラジオ局インタビュー”というのは、接戦が予想されるネバダ・アリゾナ州
を訪問するのに合わせて収録されたスペイン語放送のラジオ局である。だから、ここで
も中南米系移民にアピールしたものとみるのが自然である。例えちゃ悪いが、前静岡県
知事の失言(あなた達は野菜を作っている人達とは違うと新人職員にスピーチ)とそう
変わらず、取り立てて騒ぐほどのものではない。
記事はかなり省略された表現となっているが、紙面のスペース上の都合もあるだろうか
ら大目に見ることもできよう。しかし、許されざるミスリードは、バイデン大統領の発
言にある「これらの国々」を「日本人」と言い換えてしまったことだ。「これらの
国々」を「日本」に置き換えるのは度が過ぎるし、「日本」と「日本人」もまた同じで
はないのである。
私がよく観るTV番組に、テレ東の「Youは何しに日本へ」と「世界!ニッポン行きたい
人応援団」がある。これらを見て日本人が外国人嫌いだと思う人は先ずいまい。むしろ
真逆である。普通の日本人は外国人が大好きなのだ。嫌いなのは日本を敵視する外国人
であり極めて限定的だ。“日本が好きな外国人”にとって、日本は天国なのである。
それは善し悪しの問題ではなく好き嫌いの話であり、カッコつければ美醜の問題だ。
誰かさんのように約束を反故にしたり、1000年も恨みを持ち続けるのは美しくないので
ある。
第一生命経済研究所がまとめたデータによると、移民の比率は豪・加・独・米・英・仏
の順に高い。日本は2.2%で、米国の15.3%に比べればかなり低いが、中国の0.1%やイ
ンドの0.4%と同率に語られるレベルでもない。また、移民が自国の発展に与える影響が
どうかという問いに対する回答を(良い、分からない、悪い)の比率で見ると、次の通
り各国の事情は複雑である。
豪(27:31:42)、加(53:30:7)、米(44:41:16)、日(28:43:28)
個の資料からすれば、移民は好ましいとはっきりしているのはカナダのみで、最も移民
比率の高いオーストラリアでは意外にも国民の42%が悪い影響をもたらしていると考えてい
る。アメリカや日本はどちらとも言えないというのが本音だろう。(アメリカの“分か
らない41”の本音は“悪い”が多いとみる)
土記は、バイデン発言が日本の憲法記念日前だったという訳の分からないこじつけから
本論へと移って行く。要約(抜き書き)すると次のとおりだ。
“憲法3原則の人権はすべての人は生まれながらにして平等の理念をもとにしている。フ
ランス人権宣言しかりアメリカ合衆国憲法しかり、ドイツ基本法も同様だ。一方日本国
憲法に「人」は登場しない。主語は「国民」だ。・・・政府は文語体から口語体に直す
どさくさに主語を自然人から「国民」に戻し外国人の保護規定を削った・・・はざまに
置き去られたのは旧植民地出身者だ。憲法施行の前日、政府は「台湾人の一部と朝鮮人
は当分の間、外国人と見なす」最後のポツダム勅令を発出。3年後、国籍法で「国民」
そして最後を次のように結ぶ。
“今日の憲法解釈は、人権を国民だけの権利とはしていない。だが、外国人の権利は限
定的であるべきだとの通念は広く根強くある。戦争放棄を享受するだけの護憲論はおめ
でたい。”
「土記」の主張するところはどこにあるのか。一読したときには、憲法の「国民」を
「人民」に書き換えろと言っているようにも思われた。だがそうではない。次いで、国
籍法は憲法違反だから無効だと言いたいのかとも考えた。しかし締めの言葉“戦争放棄
を享受するだけの護憲論はおめでたい”ですべてが混乱してきた。いくつかの用語につ
いて調べもした。
そもそも「法」は誰のために作られているのか。実は、それを簡単に知る方法がある。
「法」はその条項に違反することができるもののために作られていると考えればよい。
例えば、刑法199条には
“人を殺した者は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する”と定められている。この
条項に違反することができる立場にあるのは裁判官である。だから刑法は裁判官を縛る
ためにある。つまり裁判官のために作られている。
では憲法はどうか。憲法は国民が国家権力に縛りをかけたものである。違反できる立場
にあるのは国家権力だ。憲法には普遍的な“理想”が延べられていることもあるが、あく
までも国内法であって、これを外国にも当てはめようとすればそれは内政干渉になる。
たとえそうでなくても、例えば日本国憲法第25条の“すべて国民は、健康で文化的な最
低限度の生活を営む権利を有する”の「国民」を「世界の人民は」に置き換えても実行
は不可能だ。
「土記」が持ち出した「フランス人権宣言」や「アメリカ合衆国憲法」も外国人の権利
を保障しているわけではない。実態としては、自国内の多民族が対象とみるべきだ。
一般に、論文における結論や主張は最後の部分に現れる。とすれば「土記」の主張もぼ
んやり見えてくる。どうやら言いたいのは“今日の憲法解釈は人権を国民だけの権利と
はしていない。だが、外国人の権利は限定的であるべきとの通念は根強くある。“とい
うことらしい。つまり、”外国人の権利は限定的であるべきという通念”に異を唱えてい
るのである。
それを前の部分と合わせて超具体的に推論すれば、“いわゆる在日の権利を保障せよ”と
いうことになる。在日の権利はほぼ日本国籍保有者と同等であるから、さらに参政権を
も与えるべきだとでも言いたいのだろうか。もしそうなら大いに異議がある。
「土記」には、“はざまに置き去られたのはポツダム勅令で外国人と見なされた旧植民
地出身者だ”という記述がある。ポツダム勅令というのは、形の上では日本政府が発し
た政令だが実際はGHQの指令であり“鶴の一声”だ。だから台湾人や朝鮮人から日本国籍
を奪ったのはGHQである。しかし、彼らを日本人の檻の外に出したのは、彼らを被害者
とみての温情でもあったのである。彼らの多くは帰国しても良かったのだが、間もなく
始まった朝鮮戦争がそれを拒んだ。しかし日本は、一度は日本人となっていた彼らを無
視することはしなかった。「特別永住者」としてほぼ日本人と同等の権利を与え生活保
護をも行っているのである。
その根拠は、国民を対象とする憲法25条ではなく、昭和29年に発出された「生活に困窮
する外国人に対する生活保護の措置について」という知事あての厚生省通知にある。
しかし、見ようによっては、この通達そのものに憲法違反の疑いがかかってもおかしく
ない。
「特別永住者」が日本国籍を取得することは比較的容易である。それをしない理由の第
一は、”別に困ることがないから“ということらしいが、本音を勘繰れば、兵役の義務も
なく、また日本国民としての義務を果たす必要もないからという打算とも考えられなく
もない。
しかし、そこは品の悪い”嫌味“となるのでこれ以上は書かないことにする。
2024.05.19