樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

靖国神社について(2)(Y-57)

靖国神社の創設>

靖国神社のホームページには、その創建についてこのように記されています。

靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂

社が始まりです。明治7年(1874)、明治天皇が初めて招魂社に御親拝の折にお詠みに

なられた 「我國の為をつくせる人々の名も武蔵野にとむるたまかき」 の御製からも

知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊(みたま)を慰

め、その事跡を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。”

ここでは、“国家のために尊い命を・・”と将来の英霊をも祀る神社にすることを念頭に

建てられたかのような表現になっていますが、実のところは、戊辰戦争で官軍となって

戦い命を落とした人たちの霊を祀るための「招魂社」であったのではないでしょうか。

その招魂社が、明治12年には「靖国神社」へと改称され、「別格官弊社」に格付けされ

ることになります。

神社のホームページでは、“靖国という社号は「国を靖(安)んずる」という意味で、

靖国神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められて

います。”

とあります。その背景には、明治7年の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連・秋月・萩の

乱」に続く明治10年の「西南の役」といった士族の反乱があって、維新政府が必ずしも

順風満帆ではなかったという事情を考慮する必要があります。つまり、「国を安んず

る」とは「国内の安泰」を意味していたものと考えられます。

それはともかくとして、1867年の大政奉還から始まった「御一新」の大改革において、

明治天皇がまず行った事業は、保元の乱で讃岐に配流となった崇徳上皇の霊を京都に迎

えることでした。崇徳上皇(の霊)は、菅原道真平将門と合わせた“3大怨霊”の一人と

して恐れられていたのです。

日本の歴史の中で、「黒船来航」(1953)は衝撃的な事件でしたが、実はその頃、日本

は次に挙げるような天災地変や疫病に苦しめられていました。

 ・1853 小田原地震

 ・1854 7.伊賀上野 12.東海(日露交渉中のロシア戦艦が大破沈没)・南海(稲村の

     火で有名)・豊予海峡地震

 ・1855 3.飛騨 9.陸前 11. 江戸地震

 ・1856 8.八戸地震 9.台風(死者10万)

 ・1857 10。芸予地震

 ・1858 飛越地震 コレラ大流行(江戸だけで死者数万)

 ・1862 はしか大流行(江戸だけで死者24万)

このような厄災は、怨霊のなせる業と半ば信じられていた時代ですから、崇徳上皇の怨

念を感じた(とおもわれる)孝明天皇は、都への帰還を強く望みながら憤死した崇徳院

の霊を京都にお迎えしなければならないと考えていました。しかし、それを果たせぬま

ま孝明帝は疱瘡に罹り崩御されます。明治天皇は、何よりも先に父帝の遺志を継いで、

京の地に崇徳院の御霊をお迎えするという行動を起こしました。それが白峯神宮です。

その場所は、「蹴鞠」の公卿宗家「飛鳥井家」の邸宅跡地であったため、白峯神宮は球

技の神様として崇められるようになり、駐車場もない小さな神社ではありますが、近年

ではスポーツ全般の守り神としてにぎわっています。有名になったきっかけは「なでし

こジャパン」ではなかったかと思いますが、以来日本のスポーツ界が活気づいているよ

うな気がしないでもありません。

この白峯神宮に続き、翌年の1969年(M2)には招魂社を建てるということで、明治維

新は、いわば「鎮魂の祈り」からスタートしたとも言えるわけです。

靖国神社を定義すれば、「勅命により創建された東京招魂社が、明治12年に「靖国

社」と改称された旧別格官幣社」ということになろうかと思いますが、実は神社への昇

格には大きな意味があると考えられます。そこには、

“ 慰霊を受ける御霊が崇められる神へと変身する”

という、いわば主客の逆転があるからです。

また、「別格官幣社」とはどういうものでしょうか。

次回は神社の種類と格付けについて記述したいと思います。

                         2023.10.7