樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

マッカーサーの予言(J-133)

毎度のことだが、8月15日になると複雑な気分になる。

メディアはこの日を「終戦記念日」或いは「終戦の日」と呼ぶ。まずそれが気に入らな

い。8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」なのである。歴史的事実を言うな

らば、この日は「玉音放送により日本の降伏を国民に公表するとともに再興を促し、日

本軍の武装解除を命じた日」ということになる。連合国の多くは、9月2日の「降伏文書

に調印した日」を「戦勝記念日」としている。

ところがソ連は、日本の敗色が濃厚となった8月9日に「日ソ不可侵条約」を一方的に破

棄して参戦し、9月2日は歯舞攻略作戦を継続していた。だから、9月2日というわけには

いかず、とりあえず9月3日に戦勝記念式典を開いてお茶を濁した。ソ連崩壊後のロシア

もこれを引き継いでいたのだが、2010年7月、他の連合国に倣って9月2日を「WWⅡが

終結した日」とする法案を可決した。これによってソ連が連合国の一員であったことを

印象付けるとともに、様々な不法行為ソ連が行ったこととして帳消しにする二つの狙

いがあったらしい。だがそれもつかの間、西側陣営との関係が悪化すると2020年に再び

戦勝記念日を9月3日に戻し、2023年にはご丁寧にも「軍国主義日本に対する勝利と第二

次大戦終結の日」と敵意むき出しの名称に改称した。

しかしながら、9月2日の「降伏文書調印」は、いわば「休戦協定」なので、厳密に言え

ば、真の終戦は「サンフランシスコ講和条約」(締結:1951.9.8、発効:1952.4.28)

とするのが正しいかもしれない。さらに細かいことを云えば、この講和条約ソ連は署

名せず、内戦状態にあった中国は会議に招待されてもいない。だからこの講和は「単独

講和」と呼ばれている。実はそのことで、日本国内でも大論争があったのである。ソ中

を含む全面講和でなければならないと主張して譲らなかったのは、東大総長の南原繁

筆頭に、末川博(後に立命館名誉総長)、大内兵衛マルクス経済学者で後に法大総

長)丸山真男(南原の弟子で丸山学派を形成)、都留重人(後に一橋大学長)といった

錚々たるメンバーであったが、これを支持する国民は少なく、政府は単独講和に踏み切

った。この当時、既に米ソの対立は明白となっており、もし全面講和にこだわってずる

ずると引き延ばしていたならば、最悪朝鮮半島のような事態に発展していたかもしれな

い重大な局面であった。学会の重鎮たちが何ゆえにかくも外交音痴であったのかはわか

らない。しかし国民の多くは、彼らの主張は非現実的で、“選択肢は「単独講和」か

「占領継続」の二択しかない”ということを理解していたのではないだろうか。朝日新

聞の調査によると、全面講和に賛成する国民は2割強でしかない。

そんなわけで、日露間には未だ平和条約が結ばれていない。つまり「終戦」とは言い難

いのである。ならばいっそのこと、「サンフランシスコ講和条約」発効の4月28日を

「主権回復の日」とでもして、祝日にすればどうだろうか。その方が意義深い大型連休

になる。

話は変わるが、先に万歳してしまったドイツとイタリアは、「解放の日」と呼んで祝日

扱いになっている。独裁政権から“解放された記念日”というわけだ。それも品のない話

である。品がないというのがまずければ、“身勝手な”と言い換えてもいい。なぜなら、

ヒットラームッソリーニも元はといえば“選ばれた人”であるからだ。

しかし、えらそうなことは言えない。実は日本も”五十歩百歩“なのである。

日本は、東京裁判A級戦犯として断罪された一部の指導者たちに、国民はもとより天

皇までが騙されて侵略戦争を行ったというストーリーに乗った。すべての責任は彼らに

あり、天皇も国民も実は被害者なのだという”身勝手な“論法である。もしそれが真実な

ら、彼らを裁くのは日本国民でなければならない。彼らに責任がないわけではない。

しかし、事後法で裁くのは不法である。「平和に対する罪」という戦争犯罪はそれまで

存在しなかったのだ。

東京裁判が始まる前、連合国及び米国民の間には天皇の訴追を望む声も多く、初期の段

階ではGHQの腹も決まってはいなかったと思われるが。1945.9.27に昭和天皇がマッカ

ーサーを訪問し会談したあと、GHQの態度ははっきり天皇不起訴へと変わった。天皇

訪問を出迎えなかったマッカーサーが、退出の際には玄関まで見送りに出るという予定

外の行動がそれを示している。

マッカーサーはこのとき、おそらく天皇及び天皇と国民の関係を深く理解したに違いな

い。つまり占領政策を円滑に進めるには、天皇の協力が必要だと考えたのである。そし

てその判断は正しかったといえよう。”国体護持“は国民の怒りを鎮めるとともに、安心

感を与え、戦犯として裁かれる被告たちの口まで閉じてしまったのだ。こうして、日米

双方の”身勝手“が理不尽に泣く少数の犠牲者を踏み台にして決着を図ったのである。

この論法は現在に続いている。

あるTV番組では、コメンテーターとして山極寿一氏が登場し、こう発言した。

“一番大切なのは憲法前文にある「日本国民は政府の行為よって再び戦争の惨禍が起こ

ることのないやうにすることを決意し」という言葉です”

言うまでもなく、この文言のキモは“政府の行為によって”という部分であり、これによ

って一般国民は一種の”アリバイ“を得たことになっている。

山極氏といえばゴリラ研究でおなじみだが、元京大総長にして前(29代)日本学術会議

会長を務められた、言うならば学会のトップである。本当は“平和を愛する諸国民の公

正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した”というくだりも

付け加えたかったのかもしれないが、さすがにウクライナの状況はそれを許さなかった

のであろう。

今や既に、国民の大半が戦後生まれとなってはいるが、否、であるがゆえに、このまま

でいいのだろうかとつくづく思う。

アメリカの占領政策は、建前としては”日本の民主化“であるが、本音は”日本が二度と再

アメリカの脅威にならない“ようにすることであった。そのためマッカーサーは次の

五つの方針を掲げた。

 1.婦人解放 2.労働組合の助長 3.教育の自由化・民主化 

 4.秘密的弾圧機構の廃止 5.経済機構の民主化

具体的には、選挙制度の改正、財閥解体、農地改革、教育基本法の制定、国家神道の廃

止などである。その総仕上げが「新憲法の制定」というわけだ。

これらの改革は痛みを伴うものではあったが、その痛みは主として既得権益を有する者

に向けられたものであり、多くの国民はむしろ歓迎した。

人間宣言”をして”象徴“となられた天皇は、全国を巡幸されて国民を勇気づけ、日本は

奇跡の復興を遂げてゆく。そして1964年10月、20年足らずで新幹線を走らせ、オリンピ

ックを開催するのである。

吉田茂は、後にマッカーサーを“天皇制を護った恩人”と評したが、国民もそれをうすう

す感じていた。わずか前まで憎悪の対象であった連合国軍最高司令官が、”人気者“に

なったというのがその証である。当然ながら彼の人気はアメリカ国内においても絶大で

あった。

開戦時の大統領ルーズベルトは、史上最も長い13年目を迎えていたが、日本の敗戦が色

濃くなった1945年4月12日に脳卒中で急死し、副大統領のトルーマンが後を継いだ。

マッカーサールーズベルトにはまあまあ協力的であったが、トルーマンとは全くそり

が合わなかった。元々政治に関心があり大統領の座を狙っていた彼は、1948年の共和党

代表候補者となることを目指していた。しかし、代表選においてライバルのトーマス・

デューイに大差で敗れ、さらに本選では民主党トルーマンが勝って33代の大統領に就

任したので二人の溝はさらに深まった。そして朝鮮戦争の方針をめぐって対立し、

1951.4.11の深夜、トルーマンは電撃的にマッカーサーを解任した。突然の解任劇は、

辞任を許さないための処置であった。

羽田から帰国の途につくマッカーサーを見送る群衆は20万を超え、本国でも大観衆が英

雄の帰国を歓迎した。この時点では、人気で言えばトルーマンよりもマッカーサーの方

が上だったかもしれない。だがこの後すぐに劇的な変化が起きる。

発端は4月19日の上下両院合同会議における彼の退任演説である。そのさわりの部分は

こんな内容だ。

“戦後、日本国民は近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。

見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は戦後の焼け跡

の中から立ち上がって、個人の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち

立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、社会正義の推進を

誓う真に国民を代表する政府が作られました。今や日本は、政治的にも経済的にも、そ

して社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。世界の信頼を裏切る

ようなことは二度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれなが

らもこれに対処し、前進の歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い

止めた際の見事な振る舞いは、日本がアジアの趨勢に極めて有益な影響を及ぼすことが

期待できることを立証しています。私は占領軍の4個師団を全て朝鮮半島の戦場に送り

ましたが、それによって生じる日本国内の力の空白にはいささかの懸念もありませんで

した。結果はまさに私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで、秩序正しく、勤

勉な国を私は知りません。また人類の進歩に貢献するという意味において、これほど大

きく期待できる国を他に知りません。“

この演説は、戦後の日本を称賛することによって自分の占領政策の成功をアピールし、

政治的手腕が優れていることを示そうとしたものとも受け止められるが、米国内では素

直には受け止められなかったであろう。極め付きは2週間後(5.3)に開かれた、米上院

軍事・外交合同委員会の聴聞会における発言である。テーマは「極東の軍事情勢とマッ

カーサーの解任」で、トルーマン政権に打撃を与える狙いを持って共和党のヒッケンル

ーパー議員が質問に立った。

“五つ目の質問です。赤色中国の海空封鎖という貴官の提言は、太平洋作戦において日

本軍に勝利した戦略と同じではありませんか?」

この質問はトルーマンの不拡大戦略は間違っている」という回答を期待するものであっ

たが、マッカーサーの答弁は意外なものであった。

“皆さんには、日本が抱える8千万人に近い人口は四つの島々に詰め込まれていたことを

理解していただかねばなりません。そのおよそ半分は農業人口で、残りは工業に従事し

ていました。潜在的な日本の労働力は、質量ともに私が知る限り何処にも劣らぬ優れた

ものです。何時のころからか、彼らは労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つま

り、人間は何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っている時の方がしあわせだ

ということをです。

そして、このような膨大な労働力の存在は、何か働くための対象が必要であることを意

味していました。彼らは工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材(basic

materials)を持っていませんでした。日本には蚕を除いては国産の資源はほとんど何も

ありません。

彼らには綿がなく、羊毛がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、錫がなく、ゴムがな

く、その他にも多くの資源が不足しています。それらの全てのものはアジア海域に存在

していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では1千万人から1千2百万人

の失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた目的

は主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。“

下線部分の原文は、Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security である。

のちに渡部昇一が、“なぜか日本のメディアが無視したこの言葉を、是非英語のままで

記憶してほしい”と訴えているとおり、極めて重大な発言だ。当然ながら、共和党さえ

もあきれ果て、マッカーサー人気は地に落ちた。

更にマッカーサーは、日本での人気をも急落させる発言を行った。

アングロサクソンを45歳とすればドイツ人も同程度に成熟していた。日本人は我々の

45歳に対して12歳のようである”と言ったのである。この発言は日本人の知るところと

なり、当然のごとく日本でのマッカーサー人気もガタ落ちした。

しかしながら、その前後では、“日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受

容力がある”とも述べているので、日本人は“12歳の少年のように純真で頭が柔らかく伸

びしろがある”と言いたかったのかもしれない。そして前の部分と合わせるとその方が

つじつまが合っている。12歳というのは、いわゆるティーンエージャー(13~19)に満

たない年齢なので、より純真さを強調したものと考えられる。

そして、マッカーサーはこんな予言めいた発言もした。

“太平洋において、米国が過去100年間に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国

において強大にさせたことだ。次の100年でその代償を払わねばならないだろう-”

質問者の意向を全く無視したこれら一連の答弁の意図がどこにあったか、それをうかが

い知る資料は残されていない。あるいは未だ発見されていないので分からない。

目立ちたがり屋特有の失言だったのか、単に空気が読めない人だったのか、或いは大統

領の目がなくなったことを感知しての開き直りだったのか・・・。

元々彼はとびぬけて優秀ではあったが、士官学校で上級生のいじめに遭っているよう

に、態度がでかく、あまり好かれるタイプではなかったらしい。日本でも最初は”無礼

な奴“と見られていた。その後次第に人気が高まったのは、彼には差別意識がなかった

からではないかと思う。

いずれにせよ、その後の世界は、概ねマッカーサーの発言(予言)の通りに推移してき

たようにも見えるのだが、それは私だけだろうか。

                         2023.8.25