樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

国歌は語る(その5)=日本編ー1 (Y-53)

 日本の歴史を遡ってゆくとやはり建国神話にたどり着きます。それ自体は珍しいことで

はありませんが、朝鮮やその他の国の例と大きく違っているところが二つあります。

一つは、その神話が現在まで途切れることなくつながっているということです。具体的

には、初代神武天皇から126代の今上天皇陛下までが、一つの男系血統で継続している

ということです。だから天皇家には姓・氏・家を示す名前がありません。元々姓は天皇

から与えられるものでした。このような王朝はどこにもありません。

もう一つは、神話の中で建国の日にちが特定されていることです。暦はおろか文字もな

かった時代の日にちの根拠はどこにあるのでしょうか。それは、「記紀」に記録がある

からです。「記紀」」とは「古事記」と「日本書紀」のことで、ほぼ同時期(712年、

720年)に編纂された日本最古の歴史書です。

記紀によれば“皇祖神「アマテラス」の孫「ニニギノミコト」が日向・高千穂の峰に降

臨し、その曾孫「カムヤマトイワレヒコ」が甲寅の年に日向を発ち、辛酉の年の春正月

橿原宮で「ハツクニシラススメラミコト」(始馭天下之天皇)として即位した“と記さ

れているのです。これが初代の神武天皇ですが、「神武」というのは諡号(死後に贈ら

れる称号)で、762年ごろ当時最高の教養人であった淡海三船が、初代神武天皇から41

持統天皇までを一括撰進したといわれているものです。細かいことを云うと、淡海三

船は39代弘文天皇の曾孫に当たるのですが、実は弘文天皇日本書紀では在位が認めら

れておらず、「大友皇子」のままです。皇子は、父天智天皇崩御に伴い皇位を継ぐ立

場にありましたが、天智天皇の弟「大海人皇子」(天武天皇)との間で争い(壬申の

乱)が起こり、その戦いに敗れて自害したため、即位がなかったとされていたのです。

短いながらも即位があったとされたのは、明治3年のことでした。

日本書紀に記載がないのは、これを編纂した舎人親王天武天皇の皇子で、父に皇位

奪の印象を与えないための配慮だとも言われています。

話を元に戻して、神武天皇の即位すなわち日本の建国が辛酉の春正月と「日本書紀」に

記されているととはいえ、それが歴史上の事実かどうかは分かりません。「辛酉」は

「かのととり」ですから60年毎に出現するわけで、単純に今日の暦に置き換えることは

出来ないのです。ところがその建国の日は、明治初期に紀元前660年2月11日であると特

定されたのです。

そのからくりは、日本人として理解すべき教養の一つだと思うのですが、どうも学校で

は教わらなかったように思います。逆に、要らぬ迷信がはびこっているような気もする

ので、うまく説明できるかどうかわかりませんが、ざっと解説してみたいと思います。

 

日本は大化の改新(645)以来、大化、元禄、昭和のように「年号」(元号)を定め

「○○何年」といったように年を数えてきましたが、もう一つ「干支」すなわち十干・

十二支を組み合わせた六十干支により特定する方法がありました。これは古代中国の暦

法によるもので、朝鮮半島なども同じです。

十干とは陰陽五行説に基づいたもので、この世の全ては五つの物質「木」「火」「土」

「金」「水」の相反関係(陰と陽、正と負、男と女、兄と弟など)即ち「十」の状態に

あるとした考えです。

十二支は、紀元前「秦」が中国を統一する前の戦国時代における天文学で、天球を12等

分した「十二辰」の各辰に付けられたいわば順位を示す名称で、それぞれに意味はない

ようです。これを覚えやすいように、後漢の時代の王允という人が動物の名を結び付け

たのではないかと言われています。それが日本に伝わり、「子(シ)=鼠(ね)」、

「丑(チュウ)=牛(うし)」「寅(イン)=虎(とら)」、「卯(ボウ)=兎

(う)」、「辰(シン)=龍(たつ)」、「巳(シ)=蛇(み)」、「午(ゴ)=馬

(うま)」、「未(ビ)=羊(ひつじ)」、「申(シン)=猿(さる)」、「酉(ユ

ウ)=鶏(とり)」、「戌(ジュツ)=犬(いぬ)」、「亥(ガイ)=猪(い)」とし

て定着しました。日本語の発音では「辰」」と「申」が「シン」でダブりますが中国語

では異なる発音です。また日本には、猫が鼠に騙されて集合できず、以来猫はそれを恨

んで鼠を追いかけるようになったという寓話がありますが、ベトナムでは兎の代わりに

猫が入っています。

この十二支は、その年を表すだけでなく、方位や時刻などにも利用され日本人の生活の

中に深く根を下ろしています。例えば、今年は「卯年」ですし、生まれた年に12年の差

があれば“一回り違う”といったりします。また、丑寅の方角(北東)を鬼門として忌む

のは、牛の角と虎のふんどしから「鬼」をイメージするからだと言われています。

さらには、1日を12等分して子の刻、丑の刻のように2時間ごとの時刻(1刻)を表

し、それを2等分した(半=1時間)4等分した(小半=一つ、二つ=30分)で時刻を表

現しました。だから、”丑三つ”と言えば、丑が午前1時から3時の時間帯ですから、これ

を4等分した三つ目の時間帯で、午前2時から2時半の時間帯ということになります。

この十二支と先に述べた十干を順に並べ、「甲」に「子」、「乙」に「丑」といったよ

うに組み合わせてゆくと、60まで進んだところで元の「甲子」に戻ります。これが60

干支で元に戻るから「還暦」というわけです。古くはこれこそが「暦」であったわけ

で、年号が使われるようになった後も「壬申の乱」とか「庚午年籍」或いは「戊辰戦

争」のように利用されてきました。60干支は、その仕組みを理解すれば順位表を作成す

ることは容易ですし、慣れれば頭の中に描くことも可能でしょう。

古代中国では、60干支のうち、「辛酉(シンユウ)」年は天命が改まり王朝が交代する

革命の年で、1元=60年ごとに「小革命」が、1蔀(ホウ)=21元=1260年ごとに大革

命が起こるという考えがありました。この説をとりいれて明治政府は、推古天皇の時代

の辛酉年(601年)を起点として1蔀(1260年)を遡り紀元前660年を神武天皇即位の

年と定め、その日を新暦に換算して2月11日に決定し、これを「紀元節」としました。

紀元節は戦後廃止されていましたが、1966年「建国記念の日」として復活し、翌年から

祝日となっています。

このように、日本の建国は神話の中にあり、それを証明することはもはや不可能でしょ

う。たしかに、神武天皇の即位が紀元前660年というのは、矛盾が多すぎていささか信

頼性に欠ける話ではありますが、紀元前後のあたりから大和朝廷の先祖が国づくりを始

めていたことは確かであり、第10代の崇神天皇が即位したとみられる258年あたりが実

質上の建国ではないでしょうか。邪馬台国もほぼこの時代に存在したと考えられますの

で、大和朝廷統一国家を完成させるのは日本武尊などの活躍を経た後の15代応神天皇

4世紀後半あたりかもしれません。崇神天皇神武天皇と同じく「ハツクニシラシス」

(所知初国)スメラミコト(古事記)の名で呼ばれており、応神天皇とともに「神」が

付いた名であることには、それなりの理由があろうと思われます。神武天皇のあと8代

は「欠史8代」とも呼ばれ、事跡に関する記述がなく、崩御時の年齢など不自然な点も

多いところから、事跡は神武天皇の伝記にすべてが盛り込まれたとみていいのかもしれ

ません。

面白いことに、西暦1年も実は「辛酉年」なのです。だから、日本の建国=西暦元年と

する理屈が成り立つ可能性もあったわけで、そんなことを云う人はいませんが、その方

が現実に近いのかもしれません。いずれにせよ日本の建国の歴史については、ありえた

話とあり得ない話が混然一体となって肯定も否定もできない状態です。

遠い将来、例えば古代天皇の御陵が発掘調査されたりすれば、建国に関する決定的な証

拠が発見されるかもしれません。

では「日本」という国号についてはどうでしょうか。

聖徳太子が隋の煬帝小野妹子を遣わした(607年遣隋使)国書の中で、天皇を“日出処

の天子”と表現したのが「日本」という言葉のもととなったというのは、ほぼ日本国民

の常識とも言うべき歴史的事実ですが、正式に「日本」を国号と決めたのはいつ?とな

ると、これもはっきりしません。代表的な説を三つ上げてみますと、その第一は江戸中

期の国学者本居宣長の説で、「大化の改新」のころに「日本」と書いて「ひのもと」と

呼んでいたのではないかというもの、第二は天武天皇の治世(672~686)とするもの

で、次代の持統天皇(天武皇后)の御代に完成した「飛鳥浄御原令」に「日本」という

国名が使われていたとする説(複数の学者、ただし飛鳥浄御原令は現存しない)。

第三は、大宝律令成立(701年)の前後(複数の学者)であろうとするもの。

いずれの説も”決め手(根拠資料)“を欠いていますが、2011年7月、”678年に設置され

たとみられる百済人武将の墓誌に「日本」の文字がある“という論文が中国で発表さ

れ、今後の資料にもよりますが概ね天武天皇の治世で「日本」が国号に決定されたので

はないかと思われます。中国側の資料、旧唐書(618~907の記録)には、”倭国自らそ

の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす“とありますので、自ら決定した

ことは間違いなさそうです。要するに、それまで使われていた「倭」という文字が気に

入らなかったということなのですが、その理由として「倭」が「小さい」という意味だ

からと説明している例を見かけます。それは、おそらく「矮」(わい)との混同で、

「倭」の意味は(従うさま)(従順なさま)といったような意味です。「委」は(ゆだ

ねる)という意味をもちます。「日本」も読み方としては(やまと)(ひのもと)で、

次第に音読みの(ニッポン)(ニホン)が主流になっていったのでしょう。

いずれにせよ日本民族は、建国以来外的強制力による国名や王朝の交代を経験していな

いわけで、何故それが可能であったかということは、今後の研究対象としても興味ある

テーマではないでしょうか。

最後に、60干支の説明が不十分であったような気がしますので、その順位表と西暦年号

との換算法について付け加えておきたいと思います。

 

 

  (木)    (火)     (土)      (金)     (水)

  1    2    3    4   5    6     7   8    9     10

甲 子  

乙 丑

丙 寅  

丁 卯  

戊 辰

己 巳

庚 午

辛 羊

壬 申

癸 酉

甲 戌

  亥

  子

  丑

  寅

  卯

  辰

  巳

  午 

  未

甲 申

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甲 午

 

 

 

 

 

 

 

 

癸 卯

甲 辰

 

丙 午

 

戊 申

 

 

 

 

 

甲 寅

 

 

 

 

 

 

 

 

癸 亥

 

表のように10列6行の60のマスをつくり、10干、12支を順に埋めてゆけば、60干支は完

成します。頭の中で組み立てるには、まず1列目はすべて甲、2列目は乙であることを理

解します。だから1番目、11番目、21番目・・・はすべて甲となり、2番、12番・・・は

乙となります。12支は1行に収まらないので2つずつズレてゆきます。つまり、1行目の

頭を子で始めると、2行目以降の頭は戌、申、午のように、その前の行の二つ前のえと

が入ってゆきます。だから、例えば43番目(3列5行目)のマスは、3列目に共通する丙

と辰から始まる40番台の3番目で丙午という組み合わせになります。ちょっとこんがら

かりそうですが、表を作らなくても慣れれば割と簡単です。

次に、西暦との換算法ですが、西暦を干支に変えるには西暦を60で割ってその余りの数

から3を引いたものを60干支の順位表にあてはめます。3を引くのは西暦と60干支のず

れを合わせるためです。余りが3以下の時は60を足した数から3を引きます。では具体例

として、今年の干支を計算してみましょう。

   2023÷60=33余り43、 43-3=「40」 

ということで、60干支表の40番目に当たるのは「癸卯」(みずのえ・う)となります。

もう一つ、1666年の場合を計算してみましょう。

   1666÷60=27余り46、 46―3=「43」

60干支の43番目は丙午(ひのえうま)となります。

(ひのえうま)と聞けば、思い当たる人もいると思いますが、この年生まれの女性は気

性が激しく夫の命を縮めるという迷信があります。その迷信はどこで始まったかといえ

ば、実は「八百屋お七」のエピソードからなのです。

火事で焼け出されたお七が避難所で出会った吉三郎という若者に会いたい一心で、また

火事になれ会えるだろうと自宅に火をつけたという哀れな少女の事件です。その後脚色

されて歌舞伎や人形浄瑠璃で大評判になったという実話です。

そのお七が1666年の「丙午」生まれとされて、“ひのえうまの女は怖いよ”という馬鹿げ

た迷信が出来上がったのです。しかも、お七が生まれたのは「丙午」ではなく、どうも

2年後の(戊申)だったらしいというのだから話になりません。ところが、この迷信は

20世紀になっても生き残っていたのです。出生数をグラフに描くと、1966年に極端な落

ち込みがあります。前年より出生率が25%(約45万人)も減少しているのです。その理

由はただ一つ、1966年が「丙午」だったからです。日本だけにしかないこの現象は、あ

る意味日本(人)の弱点とも思われるのですが、その「丙午」が3年後に到来します。

2026年は「丙午」なのです。果たして、現在の日本人が、このしぶとい迷信から完全に

脱却しているかどうか、ちょっと気になるところではあります。

尚、60干支を西暦に換算するには逆の手順となり、答えが複数になることもあるので、

ある程度の歴史的教養が必要になります。例として「戊辰戦争」は西暦何年かを計算し

てみましょう。「戊辰」は1行目の5列にあるので5番目、これに今度は「3」を足して

「8」という数字が得られます。したがって、60×( )+8=戊辰戦争の年というこ

とになります。

戊辰戦争は19世紀だと見当がつきますので、( )には30か31が入ります。

そこで30なら1808、31なら1868という二つの答えが出てしまいます。つまり、このケ

ースでは正解を得るにはおおよその見当をつける知識が必要となります。

長くなりましたので、日本編はここで分割することにしたいと思います。

次回は日本編の「国旗」と「国歌」についてのお話となります。

                   2023.07.12