樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

国歌は語る(その5)=日本編ー2 (Y-54)

<日本の国旗>

日本の国旗は、法律上は「日章旗」一般には「日の丸」と呼ばれ、白地に赤い丸という

シンプルな柄ですが、万国旗を並べた時にはとても存在感があります。また、「日本」

という国号にピタリとはまった見事なデザインだと感じます。それは「国号」と「国

旗」の原点がいずれも聖徳太子の「日出処」にあるからです。そして、「日本、の誕生

と同じく、国旗の誕生日もまた霧の中にあります。

最も古い文献としては、「続日本紀」に“大宝元年(701)文武天皇の朝賀の儀(元旦の

朝、天皇が文武百官の拝賀を受ける儀式)において、「日像の旗」を掲げた”という記

述があるということですが、これが今日の「日の丸」と同じであった可能性は低いと思

われます。というのは、平安末期までの日輪の表現は「赤字に金の丸」であったからで

す。世界的に見ても、太陽が赤で描かれることは少なく、黄又は金が主流です。

紅白は、源平の戦い以降様々な使われ方が生まれ、運動会や歌合戦など今日までその影

響が及んでいます。「平家物語」には、那須与一が扇の的を射抜く有名なエピソードが

挿入されていますが、その扇の絵柄が「日の丸」になっている絵をよく見かけます。

ということは、その当時既に日の丸のデザインはあったということになるわけですが、

それは本当なのでしょうか。平家物語のその場面を読んでみると、“みな紅の日いだし

たるを”と書かれています。現代文に直せば、(紅の地に金色の日輪を描いた扇を)と

いうことでしょう。それなのにこのような間違いが起きたのは、江戸時代に作られた

平家物語絵巻」で扇の的が「日の丸」になっているからです。その後多くの絵本作家

などが日の丸の扇を描き、映画などでもそうだったような気がします。

平家物語には、もう一つ扇が出てくる場面があります。それは、「敦盛最後」の節で、

源氏方の武将熊谷直実が、沖の舟に逃れようとする平家の若武者敦盛を見つけ、“敵に

後ろを見せるのか、引き返せ”と扇を掲げて呼び返す場面です。「平家物語絵巻」で

は、その直実が掲げる扇に日の丸が描かれています。つまり平家は”赤地”で源氏は”白

地”なのです。日輪はおそらく統一の象徴でしょう。

同じ江戸時代に作られた「絵入り平家物語」(永青文庫)では、明らかに赤地に金とな

っているのですが、こちらはポピュラーでなかったということなのでしょう。

いずれにせよ、「白地赤丸」は源氏の象徴的な存在となり、代々の将軍は源氏の末裔を

名乗ってこれを使うようになりました。しかし当時はまだ、国旗という認識はなく、必

要性もありませんでした。

しかし江戸末期、幕府は外国船と区別するための「船舶旗」を制定する必要に迫られ、

1854年8月に「赤字日の丸」の幟を「日本国惣船印」とすることを通達しました。

次いで1859年、幕府は縦長の幟を横長に変えてこれを「御国総標」とする”振れ書き“を

発出しました。これが事実上「日の丸」が国旗としての地位を確立した最初だとされて

います。

海外で初めて掲げられたのは、1860年日米修好通商条約批准書交換のため訪米した使節

団が、日章旗星条旗が掲げられたブロードウェイをパレードしたときとされ、このこ

ろから「日本国惣船印」は「国印」と呼ばれるようになりました。

1868年の戊辰戦争では、薩長軍が「錦の御旗」を授けられて「官軍」となり、幕府軍

賊軍・朝敵となりましたが、このとき幕府軍が共通の旗印としたのは「御国総標」たる

日章旗でした。そして明治維新が達成され、国家体制は一新したわけですが、「国印」

の変更はありませんでした。

1870年2月27日(M.3.1.27)に制定された「商船規則」では、日章旗は「御国旗」とし

て規定され、「国旗協会」はこの日を「国旗制定記念日」としています。

しかし、日章旗を国旗とする法律はなかったので、1931年(S.6)「大日本帝国国旗法

案」が提出され、3月26日に衆院で可決されました。ところが、貴族院で時間切れとな

り、翌年再提出されたものの、途中で衆院が解散となってしまい、結局成立しないまま

日本はそれどころではない状況になってしまいました。

1945年にはGHQにより日章旗の使用は禁止され、1949年マッカーサー指令により

「禁」が解かれましたが、それ以降1999年(H.11)の「国旗及び国歌に関する法律」が

成立するまで、法的根拠はありませんでした。そこには法律化を阻止しようとする強い

反体勢力の存在があったからです。

信じられないかもしれませんが、昭和のある時期には、運動会を飾る万国旗の中から、

教師たちが日章旗だけを取り外すようなことまでやっていたのです。賛否を問う世論調

査もしばしば行われ、1974(S.49)の調査では日の丸賛成派84.1%、反対派8.9%でし

た。その傾向は法案が成立した1999年でもほとんど変わらなかったのですが、今はどう

なんでしょうか。どこも調査する気はないでしょうけれど。

反対派は、「日章旗」を「軍国主義」の象徴であると決めつけ、”歴史を忘れるな“と言

ってきましたが、そのように「歴史の一部分を切り取る」ことを行ってきたのが教育界

や言論界であったことは、教訓とすべきでしょう。

 

<日本の国歌>

世界的に、国歌の歴史はそう古くありません。最も古いと言われているのはオランダの

国歌で、正式に制定されたのは1932年ですが、1569-1572年ごろには既に存在していた

とみられ、これが最古の国歌であろうと言われています。

日本の国歌「君が代」は、明治の初期に誕生しましたが、そのきっかけは1869年

(M.3)、英国エディンバラ公・アルフレッド王子の来日だと言われています。

つまり、必要に迫られて急遽作られたということになりますが、これについては次のよ

うなエピソードが残されています。

“歓迎式典の準備中、英国公使館の軍楽隊長J.W.フェントンから、「儀礼式典には両国の

国歌吹奏が必要である、曲は自分が作曲しましょう」と提案された薩摩軍楽隊は、歩兵

隊長の大山巌に相談しました。すると大山は自分の愛唱歌「蓬莱山」の一節から「君が

代」を提案しこれが採用された” というものです。

このエピソードは、作り話のようにも見えますが、私は事実あるいはそれに近い話では

ないかと思います。相談を受けた大山は英国国歌はどのようなものかを尋ね、それが国

王の長寿と国の弥栄を願う詞であることを聞いて、それならこちらにもあるぞとばかり

に、「君が代」を持ちだしたと想像するのです。

こうして初代の「君が代」が誕生したのですが、フェントンの曲は評判が悪く、1880年

(M.13)宮内省が新しい曲を選定することになりました。そして、候補作の中から宮内

雅楽課の奥好義の曲を選定委員の林廣守が選び、現在につながる第2代の国歌が誕生

しました。但し、この時は「祝日大祭日唱歌」という名前だったようです。官報には、

林廣守選として発表されたので、作曲者名が林廣守になっている資料もみられます。

編曲はフェントンの後任 F.エッケルトが行い、1893年(M.26)の文部省告示以降は、

事実上国歌として定着しますが、法律化されてはおらず、やはり国旗と同じ運命をたど

ることになります。もちろん日教組は反対でしたので、卒業式に「国歌斉唱」を入れる

かどうかで板挟みになった校長が自殺したり、女性教師がピアノ伴奏を拒否したりする

騒ぎが起きました。ようやく1999年、平成の時代になって、小渕内閣のもとで「国旗及

び国歌に関する法律」(1999.8.9、公布8.13)が成立し、不毛の争いに終止符が打たれ

ました。この時の議決に際して、民主党党議拘束を外しましたが、賛成は安住淳、岡

田克也、玄葉光一郎渡辺周ら45人、反対は赤松広隆枝野幸男菅直人ら46人で、真

二つに分かれました。民主党はその後分裂すべくして分裂しました。

反対派の言い分は、国旗と同じく“軍国主義の象徴”とするものですが、もう一つ“詞の内

容そのものが、現在の民主主義”主権在民“に合わないという理由を挙げています。

では、あらためて「君が代」の歌詞を見てみましょう。

 

  君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

 

この歌(和歌)は、さきに、「蓬莱山の一節」と書きましたが、そのもとは古今和歌集

にあります。古今和歌集は、第60代醍醐天皇の命により、紀貫之以下4名の選者によっ

て編纂された1,111首からなる勅撰和歌集の一つで、912年ごろ完成したとされていま

す。「君が代」はその古今和歌集の巻七「賀歌」の部22首の冒頭に「詠み人知らず」と

して収録されています。「賀歌」というのは字の通りお祝いの歌ですが、大半は貴人の

40,50,60,70 才を祝う歌で、いわばバースデー・ソングです。実はその古今和歌集

では「君が代」の部分は「わがきみ」となっており、詠み手が自分の仕える上司の長寿

を祝った一首なのかもしれません。

「わがきみ」が「君が代」に代わるのは「和漢朗詠集」(1012年ごろ)よりも後のどこ

からしいのですが、いずれにせよ反対派は、その「君」が問題だというのです。

政府は“「君」とは日本及び日本国民統合の象徴でありその地位が主権の存する国民の

総意に基づく天皇を指す”と言う見解を発表していますが、これはなかなかうまい説明

だと思います。しかし、見方によれば反対派を宥めるための言い訳です。少なくとも、

最初に詠まれた時の意味はそうではなかった訳で、「君」の意味が変化したなら、その

ことを説明しなければならないでしょう。長い歴史の中で、君=あなた⇒あなたがた⇒

私を含むみんな=その象徴 といった変化はあったのかもしれません。

しかし私は、何もこじつける必要などなく、「君が代」=「大切な人とこの平穏な世」

と読むだけでいいような気がします。

1000年以上も前に、名もしれぬ人が「大切な人と平穏な世がいつまでも続きますよう

に」という歌を詠み、それが国歌となって今日に続いているという事実があるとすれ

ば、それだけで誇るべき遺産ではありませんか。

                     2023.07.16