樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

国歌は語る(その3)=ロシア編 (Y-51)

<ロシアの誕生>

8世紀ごろの歴史地図を開いてみると、ユーラシア大陸の広大な北方部分には川と湖の

名しかありません。人は住んでいたのでしょうが、国家らしきものは存在せず、世界と

の関係はなかったということなのでしょう。年表には“862年 リューリクがノヴゴロド

国建設(伝承)”という記事が初めて登場します。リューリクというのは、ヴァリヤー

グ(スウェーデンヴァイキング)の王子だと言われています。その子イーゴリによっ

て、882年に「キエフ公国」が建国され、これが初のロシア国家とされています。

余談ですが、「ヴァリヤーグ」はソ連が崩壊したとき、建造途中の空母に付けられてい

た名前でもありました。ソ連崩壊後はウクライナの所属となりましたが、未完成のまま

これを中国が買い取り、初の空母「遼寧」として完成させました。初代の「ヴァリヤー

グ」は日露戦争で自沈した巡洋艦で、現在もこの名を持つ巡洋艦がいるところをみる

と、どうやらロシアではお気に入りの名前のようです。

では、「ロシア」という名はどこから来たのでしょうか。

それには二つの説があり、一つは、ノルマン・ヴァイキングの一派「ルーシ」族に起源

をもつという説、もう一つはドニエプル川の支流「ロシ川」流域に住む民族が「ルー

シ」と呼ばれていて、それがロシアになったという説です。いずれにせよ、「キエフ

国」は周辺からは「ルーシ」とよばれ、「公爵」を君主とする封建諸公国の連合体とし

て成立し、交易中継地として栄えました。しかし、13世紀になるとモンゴル帝国の襲撃

を受け支配されることになります。ロシア史では、その時代を「タタールのくびき」と

いいます。

“くびき”というのは、牛・馬を制御するためにつける横木のことで、比喩的に”自由を束

縛するもの“という意味に使われます。モンゴルの支配は240年に及びますが、1480年モ

スクワ大公国が支配を脱し、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリ(王)に選ばれロ

マノフ王朝が始まります。そして1721年ピヨートル1世がインペラートル(皇帝)

に即位し、18代304年間に及ぶロマノフ王朝の絶対王制が続きます。ロシア帝国基本法

第1条には、

ロシア皇帝は独裁にして無限の権を有する君主であり、主権の全体は帝の一身に集中する”

と書かれていました。そして帝国の臣民は、貴族、聖職者、名誉市民、商人、町人、職

人、カザーク、農民という身分に分けられていました。農民は基本的に農奴です。

我々の年代には、ダークダックスのロシア民謡のおかげで、「ドン・コサック」や「ス

テンカ・ラージン」の名にはなじみがありますが、カザークとは軍務を提供する見返り

自治権を与えられていた「コサック」のことで、帝国の領土拡大に大いに活躍しまし

た。しかし、ステンカ・ラージンのようにしばしば反乱を起こす反骨の民族でもありま

した。実はウクライナの国歌には“我々はコサックの末裔である”ということが高らかに

謳われていて、なるほどと思わせるところがあります。

この帝政ロシアは、1917年のロシア革命によって終焉を迎えます。まず労働者・兵士ら

ロマノフ王朝を打倒して臨時政府を樹立し(2月革命)、次いでレーニンが率いる

ボリシェビキ」が武装蜂起して臨時政府を倒します。ソビエト政権の誕生です。

ソビエト」とは評議会・会議の意味で、各共和国、自治国・州ごとに設置され、各ソ

ビエトから選出された代議員によって「ソ連邦最高会議」が構成され、政治を司るとい

う仕組みですが、実質は共産党の独裁です。その点、中国の全人代(全国人民代表大

会)も似たようなものでしょう。

しかし、11の標準時間帯にまたがる超巨大国家を築き上げた、世界初の社会主義国

ソビエト社会主義共和国連邦」は、100周年を祝うこともできずにあえなく崩壊し、

1991年から現在の大統領制の「ロシア連邦」になりました。そして、1998年10月23

日、ロシア連邦議会は、「ロシア帝国以降のロシアは同じ国家である」ことを宣言しま

した。この時の大統領は初代のエリツィンで、プーチンは首相の座にありました。

ちなみに、ロシア帝国が最大に膨張した当時、その支配する地域は、ウクライナ、ベラ

ルーシ、モルドバフィンランドアルメニアアゼルバイジャンジョージア、カザ

フスタン、キルギスタンタジキスタントルクメニスタンウズベキスタン、リトア

ニア、エストニアラトビアポーランド、トルコの一部、を含む広大な領域です。

もしかすると、プーチンの頭の中にはこれらの地域は奪うのではなく取り戻すのだとい

う考えがあるのかもしれません。

エリツィンの時代、国内はソ連崩壊後の混乱の中にありましたが、1999年末エリツィン

は突然辞任を表明、プーチンが代行を務めることになりました。プーチンは翌2000年の

大統領選挙に勝利し、2期を務めると腹心のメドベージェフを後継指名し、自身は首相

の座にとどまって影響力を保持し続けました。そして、大統領の任期を最大6年2期に改

正したうえで、予定通り2012年から大統領に復帰し現在に至ります。合わせると2024年

までの24年間、実質的に政権の座を維持することになりますが、どう見ても失敗にしか

見えないウクライナ侵攻は、彼自身はもとよりロシアにとっても、ハッピーエンドに収

まりそうにはありません。ポストプーチンの姿が全く見えていないこともまた、大きな

懸念材料です。

<ロシアの国旗>

ロシアの国旗はスラブ三原色とも呼ばれる白・青・赤の横縞3色旗です。

制定されたのは1993年12月11日で、三色それぞれは次の意味を持っているそうです。

「白」は「高貴と率直」(の白ロシア人=ベラルーシ)、「青」は「名誉と純血性」

(の小ロシア人=ウクライナ)、「赤」は「愛と勇気」(の大ロシア人=ロシア人)を

表しているのだそうです。「 」部分だけ、或いは( )だけの単独で表現される場合

もあれば、「 」+( )で表現される場合もあります。ベラルーシの「ベラ」は

「白」という意味で、何故白かといえばそこだけがモンゴルの侵略を免れたからだそう

です。「大」「小」は14世紀に東方正教会ギリシャ正教会)の行政概念から生まれた

もので、元々は本拠地コンスタンチノープルから近い距離の南西のルーシを「小ロシ

ア」、遠い北東ルーシを「大ロシア」と呼んだからだと言われています。それがやがて

変化して、20世紀の初めあたりから「小ロシア」はウクライナの蔑称として使われるよ

うになりました。そのあたりはよくわかりませんが、最初の「白・青・赤」に対応した

意味づけは、どうも後付けの感がします。

実はこの国旗を最初に制定したのは、初代ロシア皇帝のピヨートル大帝ですが、三原色

はそれより前の1668年に制定されたロシア初の国旗から使われているのです。それらを

踏まえて考えると、その由来はモスクワ大公国の紋章にあるという説が正しいようにも

思われます。青いケープをまとい白馬に乗った聖ゲオルギウスが竜を退治している図柄

でその背景が赤という紋章です。いずれにせよ、現在の国旗はロシア帝国の国旗を復活

させたもので、ロシア連邦ロシア帝国と同じ国家であるという主張に適うものとなっ

ています。

尚、この三原色が使われた国旗を持つ国には、ユーゴスラビアセルビアモンテネグ

ロ、スロベニアスロバキアクロアチアセルビアブルガリアなどがあります。

 

<ロシアの国歌>

当然と言えば当然ですが、国旗と国歌は似たような運命をたどります。

しかし、現在のロシア連邦国歌の場合、その事情は少々複雑です。

作詞はセルゲイ・ミハルコフで2000年、作曲はアレクサンドル・アレクサンドロフで、

ソ連時代の1938年となっているのです。

ここまでの歴史をたどってみましょう。

ロシアが初めて国歌を制定したのは1833年、「ツァーリ」の時代でした。それまでは、

必要な場面があればイギリス国歌を借用していました。それではいかにも体裁が悪いの

で、新たに国歌を作るべくコンテストを実施し、詩人ヴァシーリー・ジュコーフスキー

の詞と、オペラ作曲家のアレクセイ・リヴォフの曲が選ばれました。これが1917年まで

ロシア帝国国歌として使用された「神よ ツァーリを護り給え」です。題からも感じら

れるように、イギリス国歌に似たものとなっています。

1917年、ロシア革命によってソ連邦が形成されると、当然それまでの国歌は廃止されま

す。最初に国歌に代わるものとして使用されたのは、世界の社会・共産主義者たちに歌

われていた「インターナショナル」でした。それは世界の共産革命を指向する意思表示

でもあったでしょう。

1943年になると、スターリンは新しい国歌を制定すべく公募を行います。しかし、気に

入る作品がなく、結局アレクサンドル・アレクサンドロフが1938年に作曲した「ボリシ

ェヴィキ党歌」に決定されます、作詞はセルゲイ・ミハルコフの詩をもとにして作られ

ました。

ボリシェヴィキ」は「多数派」という意味ですが、簡単に言えばマルクスレーニン

義者のことで、大衆政党でなくプロレタリア独裁を目指す思想を持つ人達と言っていい

でしょう。そしてこの党歌は、その後に影響を及ぼし続けることになります。

1番のみ紹介しておきましょう。

  *ボリシェヴィキ党歌

    かつてない国の自由なる子たる

    我らは今日 誇らしき歌を歌う

    この世で最も力強き党の

    世界で最も偉大な男の歌を

   <コーラス>

    栄光に包まれ 意志に結ばれて

    永劫に 強く 逞しくなれ

    レーニンの党よ スターリンの党よ

    賢明なる党 ボリシェヴィキ

 

この短い詩とコーラスによる形式は、その後のソ連邦国歌、現在のロシア国歌に受け継

がれ、曲はソ連崩壊時一旦変更されながら、プーチンによって再び復活します。

前置きが長くなりましたが、1944年スターリンのもとで作られたソ連邦国歌を見てみま

しょう。

 *ソ連邦国歌(初代、1944年)、

  詞:セルゲイ・ミハルコフ、曲:アレクサンドル・アレクサンドロフ 

 

 自由な共和国のゆるぎない同盟は  偉大なルーシが永遠に結び付けた

 人民の意思によって建設された   団結した強力なソビエト連邦万歳!

 <コーラス>

 讃えられてあれ   自由なわれわれの祖国よ

 民族友好の 頼もしい砦よ

 ソビエトの旗 人民の旗が 勝利から勝利へと導く

 (2番以降は省略)

詞は3番まであり、2番ではレーニンスターリンを称える内容となっていましたが、

その後のスターリン批判を受けて2番以降は大幅に修正されました。修正を担当したの

もやはりミハルコフでした。

1991年、ソ連が崩壊しロシア連邦が成立すると初代大統領となったエリツィンは、ミハ

イル・グリンカ作曲による新しい国歌を制定しました。しかしこの国歌には歌詞がなく

曲自身も不人気で、むしろ旧ソ連時代の国歌の復活を望む声が多いという有様でした。

そこで第2代大統領となったプーチンは、ソ連時代のメロディを復活させるとともに、

ソ連国家を作詞したセルゲイ・ミハルコフに新たな歌詞を付けさせるのです。それが現

在のロシア国歌です。尚、ミハルコフは児童文学作家で、2009年96歳で亡くなりまし

た。一連の彼の詩が傑作だとは感じられませんが、それはロシア語を知らないからなの

でしょう。

おそらく多くのロシア国民にとって、「ソ連」という時代は「暗黒の時代」として記憶

されてはおらず、むしろ誇らしい時代なのではないでしょうか。少々窮屈でも、強大で

安定した国こそ彼らの願いなのです。それが、私たちには理解しがたいプーチン支持に

つながっているのかもしれません。

最後に現在のロシア国歌を紹介してこのロシア編を終わります。次回は韓国編です。

 *現在のロシア国歌

  1 ロシア 我らが聖なる帝国  

    ロシア 最愛の祖国

    強大な意志の力 偉大な栄光

    常しえに 誉れ高くあらん

   <コーラス>

    讃えよ! 我らが自由なる祖国を 

    長きにわたる 同法の団結

    祖先より受け継ぐ 民の知恵

    祖国よ永遠なれ! 我らが誇り

 

  2 南方の海から 北極圏に至る

    我らの森林と原野

    世界で唯一無二の存在

    神が護りし祖国よ!

  <コーラス>

 

  3 多くの夢と人生の希望を深く受け入れ

    築き続ける確固たる未来

    母なる大地への忠誠が我らに力を与える

    過去も現在も未来も

   <コーラス>

 

  以上、革命に次ぐ革命を繰り返してきたロシアですが、その本質は何も変わってい  

 ないのではないでしょうか。  次回は韓国編となります。

                        2023.06.18