樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

国歌は語る(その4)=韓国編 (Y-52)

<韓国の誕生>

朝鮮半島の歴史をどこまでも遡ってゆくと神話にたどり着きます。

一番古いのは、白頭山に降臨した天神の子と熊女の間に生まれた檀君平壌で建国した

という「檀君朝鮮」神話です。この後に、殷の一族箕子が殷滅亡時に朝鮮に逃れて建国

したという「箕子朝鮮」が続き、次いで秦から前漢への混乱期に、燕満という素性のよ

くわからない人物が、漢からの亡命者や現地人をまとめて建国したとされる「衛氏朝

鮮」が続きます。これらをまとめて「古朝鮮」と呼びます。

これらはすべて紀元前にあたり、それを証明できる資料は残されていません。特に、初

めの二つは、前漢の時代に朝鮮半島に移住した「漢人」たちによって造作された神話・

伝承であろうと言われています。

しかし、最後の「衛氏朝鮮」については、衛満の孫「右渠」が漢に従わず、漢に内応し

た臣下に暗殺されるという事件が事実らしく、この「衛氏朝鮮」を半島初の国家とみる

のが定説のようです。

その後に起こったのは北の「高句麗」と南の「三韓」です。

高句麗の名の由来は諸説あってよくわかりませんが、旧満州のあたりでツングース系扶

余族の「朱蒙」が建国したとされています。建国後領土を南方へ拡大し、半島の北半分

を支配しました。勢力拡大に大いに活躍したのが19代のタムドク(談読)で韓国ドラマ

「大王四神記」の主人公です。彼は広開土大王(クァンゲト・デワン)と称され、思い

出す人もいるでしょうが、2018年に日本のP-1 哨戒機に火器管制レーダーを照射して問

題を起こした駆逐艦の名に遺されていました。余談ですが、「大王四神記」は中国では

放映禁止となりました。それは、中国では高句麗の歴史は中国史の一部となっていて、

歴史観が大きく食い違っているからだそうです。そもそもこのドラマは、史実を無視し

たいわゆる“ファンタジー”ではありましたが・・・。高句麗の言葉が何語であったかが

鍵のようにも思われますが、実は不思議なことに、それがよく分からないのです。

一方南半分は、韓族による馬韓弁韓辰韓に分かれていて、やがてそれぞれが百済

加羅任那)、新羅に発展します。百済任那は「倭」との交流が盛んで、日本人がか

なり渡来していたと考えられています。

しかし、660年百済は唐との戦いに敗れ、その残党を助けに向かった日本軍も白村江の

戦で大敗して百済は滅亡します。次いで高句麗新羅・唐の連合軍に挟撃され700年の

歴史に幕を下ろします。そして676年半島全体を支配しようとした唐を撃退した新羅

統一国家が誕生します。ところが、9世紀になると国内が乱れ始め、891年の農民反乱を

率いた弓裔が「後高句麗」として独立し、さらに892年には「後百済」が成立します。

しかし、「後高句麗」の弓裔には人望がなく部下であった王権が「易姓革命」により、

実権を握り、918年に国号を「高麗」とします。易姓革命とは、“姓を易(か)え、命を

革(あらた)める”という中国古来の政治思想で、“天子に徳がなければしかるべく改め

るのは天命である”という思想ですが、ざっくり言えば“下剋上の正当化”のような理屈で

しょう。

やがてその高麗が新羅を併合して1392年李成桂のクーデターで倒れるまで続きます。

[Korea]という言葉は、この「高麗」からきています。

李成桂は、倭寇の撃退などで名を挙げた高麗の将軍でした。当時高麗は「元」に支配さ

れていましたが、「明」が起こり「元」を北へと追いやる戦いの中で、高麗は親元派、

親明派に分かれていました。李成桂は親明の立場でしたが、政府は親元派が握ってお

り、明の拠点を攻撃するよう命じられ出兵します。ところが彼は明智光秀のごとく向き

を変え、都に取って返してクーデターを成功させるのです。(1392)

しかし彼は最初から強大な明に対抗する気はありませんでした。そこで自ら「権知高麗

国事」と名乗り、使者を送りました。「権」というのは、「代理」とか「仮の」といっ

た意味ですから随分へりくだった表現ですが、それが功を奏したのか一応新国王として

承認されます。翌年には、「国号」を変えてはどうかと明側から提案されますが、この

時も「朝鮮」と「和寧」の二案を提示し、決定を明に仰いだのです。そして、狙い通り

に「朝鮮」が選択されますが、それでも正式に「冊封」を受けることはかなわず、「朝

鮮国王」を名乗ることができたのは1403年のことでした。日本では「李朝」と呼び、国

内は内部抗争に明け暮れますが、世界史的に見れば約500年に及ぶ安定した王朝となり

ました。とは言え、日本の介入で「大韓帝国」が成立するまで、長きにわたり「冊封

制」が維持されました。「冊封」の「冊」とは天子の詔のことで、平たく言えば皇帝が

臣下に下す「辞令」のようなものです。つまり、朝鮮半島の王朝は、新羅の一時期を除

いて、常に中国各王朝の属国であったということです。

日本の明治維新は、長く鎖国政策を続けてきた日本が、幕末に世界を知ったことがきっ

かけです。その象徴的な出来事が「黒船来航」でした。当時東南アジアのほとんどは、

西欧列強の植民地となっており、眠れる獅子「清」も衰退していました。そこにあから

さまなロシアの南下政策が加わり、日本の脅威となっていました。

“ロシアへの脅威”、端的に言えばこれが朝鮮半島をめぐる日清・日露戦争の原因です。

朝鮮半島を”防波堤“にしたかった日本は、1876年(M9)、「朝鮮は独立国である」と

第1条に記す「日朝修好条規」を結びました。

当然これに「清」は反発し、「東学党の乱」を契機に朝鮮に出兵します。そこから「日

清戦争」が始まり、日本が勝利します。その結果下関講話会議」において「朝鮮の独

立」が認められ、遼東半島と台湾が割譲されます。これに待ったをかけたのがロシアで

す。“そこはロシアがいただく予定だ”というわけです。ロシアは英・独を抱き込んで”遼

東半島は返還せよ」と日本に迫りました。これが世に言う「三国干渉」で、日本はしぶ

しぶ受け入れざるを得ませんでしたが、実はそれが朝鮮に大きな動揺を与えることにな

りました。つまり、“やはり頼るべきは日本でない” という印象を与えてしまったので

す。これがその後に大きな影響を及ぼすことになります。

それはともかくとして、李氏朝鮮はようやく冊封体制を脱し、独立国家となります。

そこで「高宗」は国号を変えることを決心します。

「高宗実録」にはこう書かれています。

“高宗は朝鮮を「三韓の地」と認識しており、かつ「韓」を含む名称が歴代の統一朝鮮

王朝の国号として使われていなかったので、国号としての”格“が上がる漢字一文字の

「韓」に修飾語の「大」を加えた。”

そして高宗は歴代の君主にも諡号を追贈しました。

このようにして出発した大韓帝国でしたが、民族に染み付いた「事大主義」は、頼れる

大国を求め、元々格下に見ていた日本はそれにふさわしくないという気分もあったこと

でしょう。

そこに付け込んできたのはやはりロシアで、必然的に日露戦争が始まります。

争いごとに決着をつけるのは、つまるところ最後に登場する黒幕なのです。

ところが、大方の予想に反して、日清戦争から10年しかたっていない日本がこの大戦に

勝利し、大韓帝国は日本の保護国へと化してゆきます。しかし、やはり「事大主義」と

中華思想」が染みついた朝鮮(人)にとっては、格下日本に隷属することだけは我慢

ならなかったのでしょう。高宗が1905年にロシアのニコライ2世に送った親書は、その

気分を代表しているように思われます。

<高宗がニコライ2世に送った親書>

大韓帝国は4000年の歴史を持つ独立国家です。一方日本は1200~1300年代に入ってよ

うやく国家を樹立しました。日本の様々な風習は朕の国から由来し、文字も朕の国民が

教えました。日本人たちは自分たちの先祖のように朕の国家を尊敬し、敵対関係になる

ことなど考え及ばぬことでした。(中略)日本が我が国の主権を侵奪しようとする陰謀

を企てられないように一刻も早く公使を再び派遣してくださるよう涙で訴えます”

 

その後も、1907年には協約破りの密使を国際会議に送った「ハーグ密使事件」(現実的

にははねつけられて効果なし)があり、さらには伊藤博文暗殺事件が起きたために、

韓国併合」への動きが一気に加速して、遂に1910年「大韓帝国」は消滅します。それ

でも李王朝の血統は生き残り、日本の「皇族」と同等に処遇されます。

こうして20世紀初頭の世界地図では朝鮮半島は日本の色に染められ、日本が大東亜戦争

に敗れるまで35年間続きました。

1945年、日本が敗れポツダム宣言を受諾すると、日本列島はアメリカ軍に占領されまし

たが、朝鮮半島は38度線以北をソビエト軍、以南をアメリカ軍に占領され軍政下におか

れます。戦時中、日ソ間の中立条約は破棄されておらず、日本はソ連を仲介役とする和

平の道に一縷の望みを託して、ポツダム宣言の受諾を遅らせていましたが、8.6に広島へ

の原爆、8.8にソ連の宣戦布告、8.9に長崎への原爆と続き、万策尽きて日本は8.14にポ

ツダム宣言を受諾します。一般には、原爆が戦争を終わらせたように言われています

が、それよりも和平の道が断たれたことが無条件降伏の“決め手”でしょう。

ソ連は、1945.4.5に中立条約(不可侵条約)の不延長を通告していましたが、翌年4月

までは友好でした。ところが突如侵攻を開始し、朝鮮半島の北半分を占領、日本の北方

領土へは戦後になってからも攻撃を続けました。参戦理由の一つには“各国人民をこれ

以上の犠牲と苦難から救い、日本人を無条件降伏後の危険と破壊から救うため”とあり

ますから呆れます。

このソ連が半島の北半分を占領したことが、その後の悲劇を生むことになりました。

アメリカは、朝鮮問題を国連に持ち込み、国連監視下で総選挙を行い統一政府の樹立を

企図しましたが、ソ連が反対したため南だけの選挙を強行し、1948.5.10に初代大統領に

選ばれた李承晩が「大韓民国」の独立を宣言しました。遅れまじと、9.9に金日成の下

朝鮮民主主義人民共和国」が独立を宣言しました。

こうして生まれた分断国家は、そのままで収まるはずがありません。

1950.6.25、北朝鮮は宣戦布告もなしに突如38度線を越えて侵攻を開始し、油断してい

た韓国側を瞬く間に蹴散らしてほぼ南端まで攻め入りました。そこから国連軍が仁川上

陸作戦を成功させて盛り返し北端まで攻め上ります。すると、今度は中国が「義勇軍

と称する100万にも及ぶ大軍を送って押し戻し固着状態になります。その後数回にわた

り休戦協議が持たれますが、双方がわが方を主体とする統一を主張しているので話がま

とまるはずがありません。

実は、金日成は休戦を望んでいたらしいのですが、ソ連スターリン)はアメリカをア

ジアにくぎ付けにして、ヨーロッパでの覇権争いを有利に進める狙いがあったと後に公

開された資料が明らかにしています。1953.3にスターリンが死亡すると、毛沢東も戦火

を収めることに同意し1953.7.27に休戦協定が結ばれます。ただしこの時、韓国の李承

晩大統領は「北進統一」にこだわり、調印式には参加していません。

北は南を「南朝鮮」と呼び、南は北を「北韓」と呼んで、両者は今も戦争状態のまま対

立しています。

黒幕は米・ソから米・中に代わりましたが、両者の対立は深まるばかりで、南北の統一

シナリオは描きようがありません。いずれ北は内部崩壊するでしょうから、当分はこの

ままお互いを認め合うしかないのかもしれません。

以上、長々と半島の歴史をたどってきましたが、さてどこからを韓国といえばいいので

しょうか。これまでのほぼすべての王朝はどこかの属国であり、真の独立国とは言いが

たい部分がありました。しかし、「元」に征服された時代を除けば国家としての形は保

たれていました。半島の民族が独立を維持することはなかなか困難なことで、常に“勝

馬に乗る”戦略を駆使して生き延びるしかなかったのかもしれません。現在の国家もポ

ツダム宣言により生まれたいわば与えられた独立です。そのような歴史が、民族の精神

構造に無縁ではなかろうと思うのですがどうでしょう。

 

<韓国の国旗>

韓国の国旗は、中央に赤と青の二つ巴からなる円とその四方に易の「卦」を排した独特

のデザインで、おそらく言葉で説明してもその模様を描くことは不可能でしょう。しか

し、その絵が不正確なものであったとしても、他の国旗と間違えられることもなさそう

です。この国旗はどういう意味を持ち、どのような経緯でつくられたのでしょうか。

韓国政府が公的に発表している説明によると

“太極旗の白地は、明るさと純粋さ、そして伝統的に平和を愛する私々の民族性を示し

ている。真ん中の太極文様は陰(青の部分)と陽(赤の部分)の調和を象徴するもの

で、宇宙の万物が陰陽の相互作用によって生成し発展するという大自然の真理を形象化

したものである。四隅の四卦は、陰と陽が互いに変化し発展する姿を「爻」(- - 陰、―

陽)の組み合わせを介して具体的に示したものである。卦の中で「乾」は宇宙万物の中

で天を、「坤」は地を、「坎」は水を、「離」は火を象徴しており、これらの四卦が太

極を中心として統一された調和をなしている。このように昔から私々の先祖が生活の中

で楽しんで使っていた太極文様を中心に作られた太極旗は、宇宙とともに長久の創造と

繁栄を希求する韓民族の理想を含んでいる。”

この解説は日本人ならある程度分かります。日本にも古代中国の文化が深く浸透してい

るからです。方位や時刻を十二支で表現した時代の影響は、今のことばにも数多く残

り、また、「乾坤一擲」などという言葉にもなじみがあります。しかし、漢字を捨てて

ハングル文字だけでうまく表現できるのでしょうか。今、漢字を知らない韓国の人たち

が本当に理解できているのでしょうか。

それはさておき、この太極旗がどのような経緯で生まれたのかを見てみましょう。

史実として確認できるのは、1882.9 朴泳孝(外交官、親日派)が壬午軍乱の謝罪使節

として訪日したときが初めてのようです。(当時朝鮮国は、保守派、開化派、中間派に

分かれて激しく争っており、実権を握る開化派に対して保守派が反乱、日本公使館も襲

撃された)

このとき、朝鮮側は同年5月の「米朝修好条約」締結時に、宗主国「清」から派遣され

た馬建忠が提唱した太極文様の周囲に八卦を描いた旗(朝鮮国王御旗を修正)を用意し

ていましたが、イギリス人船長から“八卦が複雑で他国が作成する際困るだろう”と助言

され、朴が八卦を四卦に変えたと自らの日記に遺しているようです。

ところが、韓国を代表する百科事典「斗山世界大百科事典」では。

“「江華島条約」(1876日朝修好条規)締結後、李朝1881年忠清道の観察使李総琮

遠が提出した太極八卦の図式を最初の国旗に定めた。しかし、実際に初めて使用された

太極旗は米朝修好通商条約(1882)の際に通訳の李應浚が金弘集の命を受け作成したも

の”となっています。しかし、その根拠は不明で、親日の朴泳孝が作った国旗との批判

を逃れるための創作ではないかという疑念があります。

いずれにせよ、李朝の関係者は太極旗の起源や意味について記録を残していないので、

従来は中国由来というのが通説でした。しかも、八卦を四卦にしたうえ“配置”も間違っ

ているという専門家の批判もあり、政府はいわゆる「韓国起源論」を展開するようにな

りました。

「卦」の配置は、左上が「乾」(けん)で「天」を、右上が「坎」(かん)で「水」

を、右下が「坤」(こん)で「地」を、左下が「離」で「火」を象徴しています。

しかし、元々は八卦ですから、この他に山をあらわす「艮」(ごん)、雷をあらわす

「震」(しん)、風をあらわす「巽」(そん)、谷を表す「兌」(だ)があるわけで

す。だから、”ややこしいから半分にした”というのではあまりにも乱暴です。

また、配置については、実はそれぞれの「卦」が方位の意味を持っており、「乾」は

「いぬい」ということで北西(左上)の位置でよいのですが、「坎」は北で本来は真上

の位置、「離」は南で真下、「坤」は南西で左下にあるべきではないかという指摘が生

じるわけです。

こうなると増々ハングルでは理解不能で、“無意味な論争はやめて先祖からの伝統を大

切にしましょう”と政府サイドがいうのも理解できます。

尚、北朝鮮は、親日の朴泳孝が作成した国旗は認められないとしています。

<韓国の国歌>

韓国の国歌「愛国歌」は、個人的には詞も曲も好きで、いい国歌だと感じています。

メロディーは情感にあふれ、詞には国歌にありがちな敵との戦いを鼓舞するような言葉

がありません。しかしそれは、独立の物語を持たないことの裏返しでもあります。

先ずは、詞を見てみましょう。

*韓国国歌「愛国歌」

1 東海が渇き果て白頭山が磨り減るまで

  神が護り給う我が国万歳

  (コーラス)

  無窮花の花 三千里 華麗な山河

  韓人よ 大韓を永久ならしめよ

2 南山の老松が鉄の鎧をまとったように

  風霜の変わらざるは我らの気性なり

   (コーラスくりかえし)

3 広い秋の空雲一つなく澄み渡り

  輝く月は我らの精神一片丹心なり

   (コーラス)

4 この気性とこの心で忠誠を尽くさん

  辛くとも楽しくとも国を愛さん

   (コーラス)


この曲が国歌として初めて登場したのは1948年8月15日の独立記念式典で、作詞:不明

(尹致昊=ユンチホ)、作曲:安益泰(アンイクテ)となっていますが、その経緯は

少々複雑です。

歌詞は、日清戦争の結果朝鮮が清の冊封体制から離脱して1896年に独立門定礎式を行っ

たとき、スコットランド民謡の「オールド・ラング・サイン」の曲にのせて歌われたの

が始まりと言われています。この民謡は、日本では「蛍の光」として有名ですが、世界

中で親しまれる名曲です。「愛国歌」のメロディーは、この民謡のパクリではないかと

いう指摘もありますが、確かによく似ているようにも思います。

20世紀になってからつくられた国歌の作詞者が不明というのはおかしな話のようにも思

われますが、その訳は有力な候補者「尹致昊」の経歴にあります。彼は。朝鮮人初の日

本留学生の一人で、後に米国、清にも留学経験があり、福沢諭吉とも親交がある秀才で

したが、独立運動に挫折し。親日に転向します。そして、“人種の偏見や差別が激しい

米国、悪臭がする中国、そして悪魔のような政府がある朝鮮ではなく、東洋の楽園であ

り世界の庭園に恵まれた日本で生きてみたい”という日記を残しています。戦後は売国

た奴として非難され、英語による反論を李承晩と米軍政庁に送ったことが在ります。

 

一方、安益泰は正式に作曲者として認知されていますが、こちらも曰く付きです。

彼もまた日本の東京高等音楽学院で学んでいるのです。1935年、彼は「韓国幻想曲」を

完成させますが、この曲の終局のメロディーが先に述べた1948.8.15の独立記念式典で

国歌として演奏されるのです。ところが、2006年、ドイツ留学中の学生が1942年にベル

リンで開かれた「満州建国10周年祝典音楽祭」において、安益泰が自作を指揮演奏した

満州」に「韓国幻想曲」と同じメロディーが使われていることを発見し、これを「朝

鮮日報」が報じます。つまり、安も”親日“であったということが明らかになるわけで

す。2009年、安は「親日人名辞典」に名前が掲載され、左翼系の議員から”国歌を変更

すべきだ“という意見まで出る騒ぎに発展しました。

安は晩年スペイン国籍を取りスペインで死亡していますが、国歌としては珍しく2015年

までの「著作権」がありました。2005年に遺族が著作権を韓国政府に寄贈したといえば

聞こえがいいですが、これは同年に廬武鉉政権が「親日反民族行為者財産の国家帰属に

関する特別法」という恐るべき法律を成立させようとしていたからでしょう。

親日」が国是であった時代であっても、親日行為で得られた財産は没収するという

あり得ないこの法律は同年12月9日立法化されました。

このように、反日を掲げる人たちにとっては、「愛国歌」はあまり深堀したくない事情

を抱えています。しかし、この国歌は韓国国民に広く深く愛されており、今後日韓の雪

解けと友好発展に大きな役割を果たす機会が訪れるかもしれません。

                        2023.07.01