樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

国歌は語る(その1)=アメリカ編 (Y-49)

前回のブログで、「国歌」はその国の成り立ちや性格を知るうえで、大いに役に立つと

述べましたが、実は「国名」そのものや「国旗」についても同じことが言えます。

それらを交えながら、日本がこれまでもこれからも、否応なくお付き合いせざるを得な

い米・中・露・韓について調べてみたいと思います。

先ずは米国、アメリカから・・・。

 

<新大陸の発見>

アメリカが歴史の教科書に登場するのは1492年の「コロンブスの新大陸発見」ですが、

そもそもコロンブスは何を目指していたのでしょうか。

13世紀の世界地図を見てみると、ユーラシア大陸の大部分はモンゴル帝国で占められて

います。当時、文化の中心はヨーロッパですが、彼らにとっては強大な「元」を除け

ば、インダス川から東は未知の領域で、漠然と「インディア」と呼んでいたようです。

つまり、彼らの脳裏には日本もアメリカも存在していませんでした。ただ中国とだけ

は、シルクロードを通じて交流がありました。

1271年、「東方見聞録」で知られるマルコ・ポーロは父と叔父に同行し、元のクビライ

帝に教皇の手紙を携えて謁見します。出発時17歳だったマルコは長旅の間に21歳になっ

ていました。そして、クビライにすっかり気に入られた3人は、そのまま役人にされて

17年クビライに仕えます。1291年に至り、領国のひとつイル・ハン国(イラン・イラク

のあたり)の王妃がなくなり、その継室に本家筋の姫を求めて重臣団がやってきます。

話がまとまり皇女を連れて帰路につきますが、運悪く内乱が勃発して陸路が遮断されて

しまいます。そこで海路を選ぶことになりますが、このとき旅慣れているマルコ達3人

に支援要請がきます。(本当は帰国したいマルコ達が売り込んだのではないかと私は推

理していますが)

一行は14隻のジャンク船団を組み、泉州からシンガポール、セイロンを経由して1293.2

頃ホルムズに到着、そこで皇女を送り届け(王は死亡しており皇女は別の王子と結

婚)、そこから陸路で黒海にぬけ再び海路経由でようやく1295年にヴェネツィアに戻り

ます。当時のイタリアは、日本の戦国時代のような状態で、ヴェネツィアジェノヴァ

と戦争になり、マルコは捕らえられて、収監されます。このとき同室となったのが、ノ

ンフィクション作家のようなルスティケロ・ダ・ピサという男で、彼がマルコの口述を

基に「東方見聞録」を世に著しました。

その本の中に、日本らしき存在が「黄金の国・ジパング」として登場します。そして、

この写本の1冊をコロンブスが手に入れるわけです。その実物が残されていて、多くの

書き込みやアンダーラインがあり、コロンブスが見知らぬ世界「インディア」の「ジパ

ング」に並々ならぬ関心を抱いていたことは確実です。ジャパンという呼び名はこのジ

パングが始まりで、「日本国」を中国南部では「ji-pen-quo」と発音することからきて

いるという説が有力です。余談になりますが、調べてみると正式名称と国際的な呼び名

が異なる国はたくさんありますね。インドの正式名称が「バーラト・ガナラージャ」

(バーラト・共和国)だなんてほとんどの人が知らないでしょう。その理由は様々で、

多岐にわたるのでここでは省略します。

さて、コロンブスの時代というより、古代の昔から地球は球体らしいということは分か

っていました。しかしそれが実証されたことはありませんでした。15世紀の終わりご

ろ、スペイン・ポルトガルに代表されるヨーロッパ諸国は、香辛料などを求めて東に向

かう海上ルートを開拓中で、あと一歩に迫っていました。コロンブスは地球が丸いな

ら、西に向かって進んでも「インディア」に到達できるはずと考え、西へ西へと進んで

バハマ諸島のサン・サルバドル島にたどり着きました。そこは彼の頭では「インディ

ア」のはずでした。だからその周辺の島々に「西インド諸島」の名がつけられたので

す。「ジパング」もきっと近くにあるはずだと信じていた彼は、キューバがその地では

ないかと考え、さほど遠くない西には中国大陸があると信じていたようです。だから、

コロンブス自身は新大陸発見とは夢にも思わず、「アメリカ」という名は、その数年後

(1499-1502)に探検航海をしたアメリゴ・ヴェスプッチの名にちなんでつけられまし

た。ヴェスプッチは、南米大陸東海岸を南緯50度まで南下してアジア・アフリカの最

南端よりはるか南まで陸地が続いていることを確認し、これは紛れもなく新大陸である

という論文を発表したのです。

アメリカ合衆国の誕生>

新大陸が発見されると、この地はヨーロッパ列強によって次々に植民地にされてゆきま

す。同時に、移住した人々の勢力も大きくなり、遂に北米13州がイギリスからの独立を

宣言して反乱を起こし、反英のフランスなどの支援もあってこれに勝利します。それが

1776年ですから、徳川10代将軍家治の時代です。

独立を果たしたアメリカの領土はまだミシシッピ川以東で、中央部はフランスが支配す

る「ルイジアナ」でした。これは、ルイ14世にちなんだ名前です。さらに西部の地域は

スペイン領でした。

星条旗」とも呼ばれるアメリカの国旗は、独立から1年後の1777年6月14日に制定され

ていますが、実は誰がデザインしたのかはよく分かっていません。また、これまでに何

度も小さな変更が繰り返されています。現在の国旗は、独立当初の13州を表す赤白13本

の横縞と、現在の州を表す50個の星が描かれていますが、最初はストライプも星の数も

13個でした。

初代大統領のワシントンは“星は天を、赤は母国なるイギリスを、赤地を横切る白条は

独立を表す”という言葉を残しており、またその後「白は純真さと潔白、赤は大胆さと

勇気、青は警戒と忍耐と正義を表す」とされているようですが、どちらも後付けで、デ

ザイナーの意図とは異なっているのではないでしょうか。気になるのはストライプの数

と星の数が意味するところで、そこには「拡張主義」が見え隠れしているようにも思わ

れます。

1800年代初頭になるとヨーロッパはナポレオンに翻弄されます。アメリカはどちらにも

与せずいわば漁夫の利を占めていましたが、イギリスは海上兵力を補うために、乗組員

もろともアメリカの船を捉えて自軍に入れるという暴挙に出たものですから、アメリ

は怒って英米戦争がはじまります。この戦争の最中、英国軍の猛攻を受けたボルティモ

アのマクヘンリー砦の旗が生き残っていたことに感動したフランシス・スコット・キー

が即興詩を書き、それに当時流行していた「天国のアナクレオンへ」という歌のメロデ

ィーをつけたのがアメリカ国歌の始まりです。アナクレオンというのは古代ギリシャ

抒情詩人で、酒と恋にまつわる享楽的な詩を得意としていたということなので、「天国

アナクレオンへ」も、どちらかといえばあまり品の良くない”酒飲み歌”であったろう

と思われます。あらためてアメリカ国歌を代表的な翻訳で見てみましょう。

 

アメリカ国歌>

                   作詞:フランシス・スコット・キー(1814)

 ・おお 見えるだろうか       作曲:ジョン・S・スミス (英・1780)

 ・夜明けの薄明りの中        制定:1931

 ・我々は誇り高く声高に叫ぶ

 ・危難の中 城壁の上に雄々しく翻る

 ・太い縞と輝く星々を我らは目にした

 ・ロケット弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中

 ・我らの旗は夜通し翻っていた

 ・ああ星条旗はまだたなびいているか

 ・自由の地 勇者の故郷の上に

 ・・・・(4番までありますが省略)・・・

 

独立から5年後に再び始まった対英戦争中、詩を書いたこともない法律家の即興詩に、

30数年前に作られた“はやり歌”のメロディーをつけたこの曲が、正式に国歌に制定され

たのは100年以上が過ぎた1931年でした。実はこの「星条旗」は3代目で、その前に初代

の「Hail Columbia」(別名:大統領の行進)という行進曲と第2代の「My Country, Tis

of Thee」がありました。また、第2の国歌とも呼ばれる「ゴッド・ブレス・アメリカ

もよく歌われますが、この曲は1918年にアーヴィング・バーリンが作詞作曲してWWⅡ

の頃に広まったもので、国歌として認定されたものではありません。

現在の国歌「星条旗」が長く正式に制定されなかった訳はよくわかりません。先代の

国歌の存在もあるでしょうが、歌詞に問題があったからとも考えられます。

実は「星条旗」の歌詞は4番まであって、イギリスの国歌と同じように、決して歌われ

ることのない箇所があるのです。

それは3番の “どんな隠れ家も敵に加担した者たちや奴隷たちを守ってはくれない” 

という部分で、先住民(アメリカインディアン)や奴隷を敵とみなしているからです。

フランスと闘っていたイギリスに陸上兵力を米大陸に送り込む余裕などはなく、陸上戦

闘は、実質的にはイギリスの支援を受けたインディアンとの戦いでした。そして、詩を

書いたフランシス・キーはガチガチの奴隷制賛成論者でもあったのです。

いずれにせよ、この戦争に勝利してからのアメリカはすさまじい勢いで領土を拡大して

ゆきます。フロリダをスペインから買い、ルイジアナをフランス、テキサス・カリフォ

ルニアをメキシコから手に入れ、1853年にはペリーが日本までやってきます。

この間、わずか70年余りですから驚きです。その後も、アラスカをいわば“はした金”で

買い、さらには太平洋の島国などを次々に手に入れて50州が完成するというわけです。

アメリカの国歌に繰り返し歌われている理想は「自由」です。第2代国歌の1から4番、

第3代(現在)の1から4番、そのすべてが「自由」という言葉で締めくくられていま

す。だからというわけではありませんが、アメリカ(人)は国民の自由が制限されてい

る国を嫌い、ちょっかいを出したがるのだろうと思います。彼らはデモクラシーの本家

のようにふるまってはいますが、私たちの感覚からすれば、「平等」や「公平さ」など

に関してはちょっとズレていて、独善的な感じは否めません。

ここでひとまずアメリカ編を締めくくり、次は中国に移りたいと思います。

そして最後には、国名・国旗・国歌をベースにして、日・米・中・露・韓、各国の特徴

を比較しながらまとめてみたいと考えています。

                        2023.05.26