<中国の誕生>
中国の歴史は古く、どこまでも辿れば、黄河・長江文明と呼ばれる紀元前5000年までも遡ることが可能です。
確認できる最古の王朝は前1.6世紀ごろの「殷」で、以降数多の王朝が栄枯盛衰を繰り返
し、1912年の辛亥革命で「清」が倒れるまで続きます。しかし、その間中国という国は
一度も存在したことはありません。中国という名は黄河と長江に挟まれた地域を指す
か、日本の中国地方を指す呼び名であって、辛亥革命で「中華民国」が建国されるまで
は、「中」という国も略称としての「中国」もありませんでした。
だから国名としては、隋・唐・宋・元・明・清のように、それぞれの王朝名を呼んでい
ました。しかし、これらの王朝には連続性がなく、「元」や「清」など、漢民族以外に
支配された時代もあったわけですから、支配王朝を越えて通時的に地域や国号を呼びた
いような場合には「シナ」という呼び名が使われていました。この「シナ」は前200年
ごろの始皇帝でおなじみの「秦」からきているもので、ポルトガルなら「シナ」、スペ
イン・オランダなら「チナ」、英語なら「チャイナ」となったわけです。
日本では「支那」と呼んでいましたが、この「支那」は私が子供の頃は、「支那事変」
「支那人」「支那そば」のごとく、ごく普通に使われていました。いつのころからか使
われなくなったのかははっきりしませんが理由は明らかで、中国が「支那」を嫌ってい
るからです。日本共産党がこれを次のように代弁しています。
“シナは外国人が中国を呼ぶ用語として、それなりの歴史的根拠を持っているが、問題
は戦前・戦中、日本の中国に対する侮蔑語として使用されたことであり、中国国民はこ
れを拒否しています。中国をシナと呼ぶことは単に時代錯誤というだけでなく過去の侵
略戦争への無反省がその根底にあることは明らかです”
(余談)驚いたことに、今私のPCでは「しな」が「支那」に変換されません。おそらく
侮蔑用語にリストアップされているのです。しかし、東夷・南蛮とか匈奴・鮮卑などと
言った端から侮蔑用語として中国が作った言葉は一発変換されるので、ちょっと変な気
がします。
「支那」は、単に外国人が発音する「シナ」に当てた漢字がたまたま「支那」となった
ものの、「支」や「那」があまりいいイメージではないということもあるのでしょう。
漢字にはそれぞれ意味があるので、「音」に合わせて字を当てた場合、何かと問題が生
じるでしょう。今頃は、アメリカを「美国」としたことを悔やんでいるかもしれませ
ん。その点、外国名は基本的に意味のないカタカナで表記する日本語は便利ですね。
それまでの「支那」に替わる「中国」という呼び名は「中華」を連想させ、おそらく中
国人にとって心地よい響きを持っていることでしょう。
「中華人民共和国」が建国された当時は、「中華」どころではなく、自ら「発展途上
国」であるとして先進国の援助を求め、イデオロギーに反する遺産には関心を示してい
ませんでしたが、急速な発展を遂げ自信を持ち始めると歴史的遺産を大切にするように
なりました。しかし、たとえば1000年後、現在の中国がどのような文化資産を残してい
るだろうかと想像したとき、これといったものは浮かんでこないような気がします。
中国という略称も本来は「中華民国」なわけで、現在の共産党独裁の「中華人民共和
国」は“中共”と呼びたいところですが、そこはまあいいとしましょう。
<中国の国旗>
中国の国旗は赤地に黄色の星が五つで、「五星紅旗」とも呼ばれます。
蒋介石の中華民国政府を台湾へ放逐した1949年、公募によってデザインが決まり、10年
後の1959年に正式に制定されました。そして、赤は革命、黄色は光明、大星は中国共産
党の指導力、四つの小星は、労働者、農民、愛国的資本家、知識人を示すとされていま
す。いかにも、現在の中国らしい意味づけですが、“文革”の時代を思い起こせば、毛沢
東思想とはかけ離れているようにも感じます。むしろ当初は、最近では耳にしなくなっ
た「五族共和」の意味であっただろうと思います。これは清朝を打倒したときのスロー
ガンで、五族は、漢・満・回・蔵・蒙の五つの民族を表します。蔵は西蔵(チベット)
のことです。
尚、日本が関与した満州国建国のスローガンとしての「五族協和」という言葉がありま
すが、これは逆に清朝再興を企図したもので五族とは、日・満・漢・鮮・蒙を意味する
もので、ほぼ逆の意味になります。
中国全体の民族比率を中国統計年鑑から拾い出してみると、漢族が92%で、残りの8%
(約1億人)が55の少数民族となっています。少数民族は多い順に、1.チワン(壮)
②.満州 3.回 4.ミャオ ⑤.ウィグル 6.トウチャ 7.イ ➇.モンゴル
➈.チベット(丸囲みが五族)となっており、「五族」というときの漢以外の四族は、
人口比率によるものではないことが分かります。つまり、この四つの民族は、潜在的に
独立志向を持つ中国の民族問題であることを示していると読み取れます。その他の少数
民族は、ほぼ同化しているのでしょう。注意しなければならないのは、「少数」といっ
ても数百万人以上の、それぞれが国家として十分な人口を有しているということです。
<中国の国歌>
1949年10月の建国に際し、国旗と同様に国歌についても公募が実施されましたが、国歌
の方は決定に至らず、現在の国歌「義勇軍進行曲」が暫定的な国歌として制定されまし
た。
この曲は、もとを糺せば、作詞:田漢、作曲:聶耳(じょうじ=ニエ・アル)により
1935年の抗日映画「風雲児女」の主題歌としてつくられたものでした。その後、1966年
から始まった「文化大革命」における田漢の追放・投獄とともに歌詞も歌われなくな
り、文革中は毛沢東を称える「東方紅」が事実上の国歌として扱われました。そして文
革直後の1978年、関係者の合作により歌詞を変更してこれを正式な国歌としました。
ところがそれも長くは続かず、1982年12月に元の田漢の詞が復活して、2004年に憲法
に明記されました。
この間のドタバタ劇は、中国の路線変更や内部事情をよくあらわしています。
参考までに、文革直後初めて正式に制定された国歌と、その後に復活した田漢の詞を並
べてみましょう。
*文革直後(1978)に制定された国歌(A)
前進!各民族英雄的人民 前進せよ!各民族の英雄的人民よ
偉大的共産党 領導我們 継続長征 偉大なる共産党は我らを導き長征を続ける
万象一心 奔向共産主義明天 万民は心を一つに共産主義の明日に向かい
建設祖国 保衛祖国 英雄的闘争 祖国の建設 祖国の防衛 英雄的な闘争
前進! 前進! 前進! 前進! 前進! 前進!
我們 千秋万代 我らは千秋万代に亘り
前進! 前進! 前進! 前進! 前進! 前進!
*1949年暫定的国歌として生まれ、そして復活した現在の国歌(B)
帰来! 不願做奴隷的人們! 起ち上れ! 奴隷を望まぬ人々よ
把我們的血肉 築城我們新的長城! 我らの血肉をもちて 新たな長城を築かん
毎個人被迫着発出最後的哮声 一人一人が最後の雄たけびをなすべし
帰来! 帰来! 帰来! 起て! 起て! 起て!
我們万衆一心 我ら万民が心を一つにし
冒着敵人的炮火 前進! 敵の砲火に立ち向かい 前進!
冒着敵人的炮火 前進! 敵の砲火に立ち向かい 前進!
前進! 前進! 前進! 前進! 前進! 前進!
(日本語訳はなるべく元の漢字を残したままにして私が訳したものです)
正式な国歌としては(A)⇒(B)の順ですが、生まれた順でいえば田漢の(B)が最初
で、(A)は明らかに(B)を修正した内容となっています。なぜそうしたのか、それに
関する資料は得られませんでしたので想像するしかありませんが、一つには先に述べた
通り、作詞者の田漢が文化大革命で他の多くの知識人や芸術家らとともに批判され・投
獄されたことがあるでしょう。しかし、この国歌が制定されたのは文革終結後の1978年
です。しかも、文革失敗の責任者とも言うべき毛沢東を称える内容となっているので
す。ということは、文革を失敗であると認めても、毛沢東と彼を信奉する勢力にまだ十
分な力が残っていたことを意味しています。つまり、この時点では文革を失敗だとは認
めていないのです。
国歌(A)をもう少し詳しく見てみましょう。
この歌詞で重要な意味を持つのは「長征」という言葉です。
1930年代、中国を支配していたのは蒋介石率いる国民党政府の「中華民国」でした。
ところが、国内にはソ連の支援を受けた「中華ソビエト共和国」という共産党勢力があ
りました。蒋介石はこの勢力を一掃しようとしますが、兵力を小出しにしたことや、共
産党勢力(紅軍)の山岳地を利用したゲリラ戦にてこずり、4次の戦いにすべて敗北を
喫します。そこで1934年の第5次では、135万の大軍を派遣し、ようやく紅軍を圧倒しま
す。紅軍はやむなく根拠地の「江西中央ソビエト区」を放棄し、そこからは逃げまどい
ながら陝西省にたどり着くまで、全行程約12,500キロメートルに及ぶ苦難の行軍を余儀
なくされます。これが”長征“です。いわば中国共産党と毛沢東の”原点“なわけで、国歌
(A)で歌われている敵は明らかに「国民党軍」なわけです。ところが、1937年の盧溝
橋事件を契機に日中戦争がはじまると、流石に内戦をやっている場合ではないというこ
とになって、いわゆる「国共合作」によって両者は対日共同作戦に舵を切ります。この
戦いの中で、国民党の兵力は消耗し、逆に共産党の兵力は格段に増強されました。
そして、対日戦に勝利して再び国共内戦となったときには、共産党の勢力が勝ってお
り、国民党の蒋介石は台湾に逃れました。しかし、その後も1971年まで中国を代表する
政府は台湾の中華民国政府で、中華人民共和国は世界に認められていなかったのです。
国歌(B)は、前述の通り1935年に作られた「抗日映画の主題歌」として生まれたもの
です。国民党と共産党がそれぞれ別働で「抗日」活動をしていた時代の作品です。
この映画をネットで見ることもできます。日本語字幕がないのでよくわかりませんが、
迫害された人民が手に手に鍬や釜をもって蜂起するといった内容のようです。
「義勇軍進行曲」はこの映画の最初と最後の場面に流れますが、この曲で歌われている
「敵」は明らかに”日本“なのです。
つまり、(A)と(B)は形は似ていますが、中味は全く違っています。
中国は、「天安門事件」のように、「明らかにしたくないことは隠す」傾向がありま
す。もしかすると、文化大革命や国共内戦などもそうかもしれません。
「文化大革命」中国共産党最大の汚点です。しかし、それを主導した毛沢東は批判する
ことも許されない最大の英雄です。そこをどう決着させるのか。中国共産党は、どうや
ら(毛沢東は林彪や4人組に利用された)というストーリーをでっち上げようとしてい
るようにも見えます。文革の悲劇から個人崇拝の弊害を学んだ鄧小平は、毛沢東の死後
「個人崇拝の禁止」を党規約に盛り込み、自ら円満に引退しましたが、習近平はこの規
約を無視し毛沢東に並ぼうとしているように見えます。これは中国最大のというより世
界最大のリスクなのかもしれません。
最後に、この国歌の作詞作曲者について少し触れておきます。
作詞者の田漢は日本の東京高等師範学校に留学し、1921年に帰国してからは映画や演劇
の世界で活躍し、中国新劇の発展に尽くしました。1932年に共産党に入党し、1935年に
は国民党政権に逮捕されています。文革では多くの文化人とともに批判・投獄され、
1968年12月に70歳で獄中死しています。その後、1979年本人の死後に名誉回復がなさ
れています。
作曲者の聶耳は、幼いころから楽器に親しみバイオリン奏者などをして生計を立ててい
ました。1933年に共産党に入党しますが、盟友の田漢などが逮捕されるのを見て、兄を
頼って日本に逃避します。実は、「義勇軍進行曲」は獄中の田漢から送られてきた歌詞
に合わせて日本で書き上げたものだそうです。しかし彼は、その年の夏(1935)、友人
と鵠沼の海で遊泳中行方不明になり、翌日水死体となって発見されました。
1949年、この曲が国歌となったことを受けて地元藤沢市民有志により記念碑が立てられ
ましたが、1958年の台風で流されてしまたため1965年に再建され、1986年には「没後
50周年記念事業」として、「聶耳記念広場」として整備されています。
この話、日本でもあまり知られていませんが、中国ではなおさらでしょうね。
次回はロシア編とします。
2023.06.05