樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

手製爆弾襲撃事件の遠因(J-132)

今は遠く離れて、会うこともままならない友人から突然の電話があった。

声を聴くのも何年ぶりかなのだが、不思議にもその空白感がない。時間的・空間的な距

離というものを感じないのである。

そのような友を「心友」という。しみじみと有難さを感じる存在だ。

聞けば、私のブログ更新がしばらく途絶えているので、何か異変があったのではないか

と案じての電話だという。誠に申し訳ない次第である。しかし、「ごめんなさい」とは

言わない。今後も“書きたい時に書く”というスタイルを維持したいからである。

ブログが滞った理由はいくつかある。その一つは「目の衰え」だ。

大河ドラマ「どうする家康」を機に山岡荘八の「徳川家康」を読み始めたのだが、何と

これが26巻という世界一の長編小説で、しかも昔の文庫本なので文字が小さい。3時間

も読めば目が霞んできて、もうPCに向かう気が失せてしまうのである。

二つ目にはその気にさせるテーマがないからである。改めて言うのもおこがましいが、

当ブログには「Y」と「J」の番号が付されている。「Y」は「遺言」の意味で「J」は

「爺怪説」を意味している。平たく言えば、「Y」はいわゆる“ためになる(かもしれな

い)話”であり、「J」は日常の出来事に対する私の“違和感”を埋め合わせるための作業

のようなものだ。違和感は、出来事そのものに対するものもあれば、その出来事に対す

るメディアや世間の反応に対するものもある。最近では、ガーシー、小西文書、サル発

言、と言った騒動などに“違和感”を感じたのだが、調べているうちになんだか阿保らし

くなって途中でやめてしまったという事情がある。

三つ目の理由は”川柳“である。毎日新聞に川柳の投稿欄(中畑流万能川柳)があり、私

の知るところでは最もレベルが高い。一度挑戦してみようかと昨年の暮れに応募してみ

たらそれが2月2日に入選し掲載された。記念すべき初入選作は、

 “尼将軍三谷氏までも味方にし” という句で、これに味を占めて応募を重ねている。

しかし、名人級の常連さんがライバルなのでなかなかの難関だ。最近は散歩中にブログ

よりも川柳のネタを考えていることも多く、その影響は少なからずある。

しかし、本当の理由は、これらの言い訳とは違ったものなのかもしれない。

自分でもよくわからないのだが、それはWBCの余韻とでも言うべきだろうか。

侍ジャパンが見せてくれたあの感動が冷めやらず、その後もあの戦士たちのプレーを追

いかける毎日が続いたからではないだろうかと思う。

ようやくその熱も収まり、さて何を書くかと考えた時、真っ先に浮かんできたのが4月

15日に和歌山で起きた「手製爆弾による襲撃事件」である。

この事件は、幸いにも死傷者が出なかったためか、あの安倍元首相銃撃事件と比較すれ

ば数段小さな扱いになっている。しかし、運が悪ければ、或いはもう少し出来のいい

(?)爆弾であったならば、数段深刻な被害をもたらした可能性がある。

威力業務妨害の疑いで現行犯逮捕された犯人の木村隆二(24)が、完全黙秘を貫いてい

るので動機等は不明のままであるが、それを推定させる事実は明らかになっている。

週刊文春(4.27号)によると、

“彼は昨年6月、「被選挙権年齢・選挙供託金違憲訴訟」広報なるツイッター・アカウン

トを立ち上げ個人的に活動を始め、「年齢などを理由に昨年7月の参院選に立候補でき

なかったのは不当だ」とし、「精神的損害を慰謝するに足りる慰謝料は10万円を下回ら

ない」と主張して、神戸地裁に国家賠償請求訴訟を起こしていた”ということらしい。

さらに、“昨年9月には地元川西市の磯部裕子市議の市政報告会に参加し、訪れていた大

串正樹衆院議員に対して「市議選に出馬したいが、被選挙権が25歳からなので選挙に出

られない。憲法違反だから法改正すべきだ。誰でも選挙に出られるようにしないといけ

ない」と意見を述べた。このとき、大串議員は「社会の仕組みをしっかり勉強し、25歳

になれば選挙に出られるという考え方は国民のコンセンサスが得られている」と応じた

が、彼は納得せずしつこく食い下がった”と記事にある。

このやりとり、結論から言えば双方が間違っている。

憲法では、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは国民固有の権利(15条)」で

あるとし、選挙の要領などについては法律で定める(44条、47条、92条、93条)ことに

なっている。その法律が「公職選挙法」で、選挙権、被選挙権、供託金についてもこの

法律において定められている。したがって被選挙権が参議院と知事は30歳以上、その他

の議員が25歳以上であることが憲法違反にはならない。強いて言えば、「公職選挙法

憲法違反であると訴えることは出来なくもないが少々無理がある。また、それら選挙

に関する資格や条件は、国民のコンセンサスがどうであれ、法によって定められている

から有効なのである。

さらに言えば、犯人Kが損害賠償を求めて訴訟を起こしたことは憲法で保障されている

行為(16条、17条)であり、“平穏に請願する”(16条)限り合法である。

(”平穏に請願”という表現は日本語的でないが、元の英語は[peaceful petition]である)

今のところ、他に動機を推し量る材料がないのでこれが動機だとすると、「憲法」が彼

の犯行の遠因となっている可能性がある。つまり、彼の”憲法理解度”である。

思い出されるのは、中学時代に受けた授業の内容だ。

それは「憲法」を詳細に説明するものではなく、憲法前文と第2章、及び第3章が中心で

あったと記憶する。つまり「戦争の放棄」と「国民の権利及び義務」に関する部分だ。

中でも、「自由」と「平等」に重点が置かれていたように思う。

一方、「義務」については、勤労、教育、納税の三つ(しかない、だけでよい)という

感覚で、圧倒的に個人の「権利」が強調された。

しかし、第12条には「この憲法が国民に保証する自由及び権利は(中略)これを濫用し

てはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と書か

れており、各条文においても“公共の福祉に反しない限り”とか“法の下に”といった文言

が繰り返し付されている。今にして思えば、これこそが国民に等しく課せられた最大の

「義務」なのだが、当時は聞き流していたのか記憶にない。もしかすると、日教組の方

針みたいなものがあったのかもしれないが、いずれにせよ、憲法を初めて教える教育現

場が、今も昔と変わっていないのではないかと感じざるを得ない。

憲法には「平和」「自由」「平等」と言った“理想”が掲げられている。

しかし、それらは「目標」にはなり得ても、現実には存在しない。その証拠に、それら

の概念を説明するには、「争い」や「束縛」「差別」といった現実に存在する逆の概念

を利用し、「争いや束縛や差別ががないこと」と言うしかないのだ。それらが、より軽

微で許容できる状態にあるときが、「平和」であり「自由」なのである。

憲法に理想を掲げることは結構だが、それらの理想は「方向」を示すものであって、

基本的に到達することができないものと理解する(させる)必要がある。でなければ、

憲法は”絵に描いた餅”か、”噓と矛盾だらけのファンタジー”となり、不平不満の温床に

成り下がるばかりか、時には”はみ出し者”を生み育てることになる。

                          2023.04.28