樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

ペンと剣(Y-47)

「ペンは剣よりも強し」という言葉があります。

一般に、“文は武に優る”という意味で使われていますが、現代民主主義の世界において

は、“言(論)は権(力)に優る”という意味に特化されているようにも思われます。

とくにメディアの世界に生きる人たちにはその傾向が強いのではないでしょうか。

ところがこの名言、出所を辿ってみると、現在の意味とは全く違っていたようです。

それは、19Cイギリスの劇作家で政治家でもあったリットンの戯曲「リシュリュー

の中で、主人公リシュリューが発した言葉として登場します。 リシュリューは実在の

人物で、17Cのフランス王国の宰相です。

強大な権力を誇るリシュリューは、ある時軍部に自分の暗殺計画があることを察知しま

した。そして、動揺する配下のフランソワに言います。

“真の力を持つ者の手にあるならば、ペンは剣よりも強い。見よこの魔法使いの棒を!”

つまり、“軍を動かす命令にサインするのはこの私なのだから、私が優位にあるのだ”

と言ったのです。なんと、現在とはむしろ逆の意味だったというわけです。

だからと言って、現在の使われ方が間違っていると言ってみたり、この名言を図案化し

て校章にした開成や慶応を笑ったりするのもどうかと思います。

これに似た名言は、紀元前のアッシリア古代ギリシャの時代から残されており、この

シンプルな言い回しが、それらの代表として生き残ったと見ることもできるでしょう。

朝日新聞は2016年10月25日の「折々のことば」で「ペンは剣よりも強し」の由来を紹介

した上で、“その意味が元に戻ってはいないか。この自己検証に堪えてこそのジャーナ

リズムである”と結びました。元に戻るとはリシュリューに戻るということであり、そ

れは権力に負けるということですから、“ジャーナリズムは権力に阿ることがないよう

常に自己検証しなければならぬ”といっているわけです。それはそれで結構なのです

が、まるで正義のヒーローか裁判官にでもなったかのようにペンを振り回されると、

少々度が過ぎるのではないかと思うこともあります。

例えば最近の例として、つぎの二つが挙げられます。

一つは、毎日新聞のオフレコ発言実名報道です。

2月3日、荒井元首相秘書官へのオフレコ取材において、荒井氏にLGBTQなど性的少数者

同性婚に対する差別発言があったとして、毎日は実名報道を行い、その結果荒井氏は

更迭されました。実名報道毎日新聞のみで、読売は7日の社説で“本人に伝えればオフ

レコも一方的に「オン」にして構わないというなら、オフレコの意味がなくなる。取材

される側が口をつぐんでしまえば、情報の入手は困難になり、かえって国民の知る権利

を阻害することになりかねない”と懸念を示し、毎日は17日に”オフレコ取材のあり方“

という検証(釈明?)記事を発表しました。

その中で、過去のオフレコ実名報道についても次のような実例を挙げています。

 

  年       発言内容            発言者     結果

・1995 植民地時代には日本が韓国にいいこともした 江藤総務庁長官 引責辞任

・2002 非核3原則について、国際緊張が高まれば  福田官房長官  首相が罷免要                                           

    国民が持つべきではないかとなるかも            を拒否

・2011 放射能を付けたぞと記者に防災服をすり   鉢呂経産相   引責辞任

    つける

 

・・・いかがでしょうか。一見して“しょーもない話”ではありませんか。これが国民の

知る権利にどう結び付くというのでしょう。一言で言えばいずれもメディア(記者)

が”首をとったぞー“とガッツポーズをしたかどうかだけの話ではありませんか。今回の

荒井氏の発言にしても、”LGBTQの人権は尊重するし、協調してやっていくけれども、嫌

な人は嫌なのではないか、僕も隣に住んでいたら嫌だと思う“(見るのも嫌だと言った

と書かれたことに対してはは本人が否定している)“ という程度の失言です。

プライベートな雰囲気の中で、この程度の失言が命取りになることは、果たして正常と

言えるのでしょうか。

LGB(Lesbian Gay Bisexual)は同性愛と両性愛性的指向の問題であり、TQ

(Transgender Queer)は性自認の問題であって別物です。それらをひっくるめて「性

的少数者」と呼ぶこと自体どうかと思うし、「Queer」という用語自身がかつての「性

倒錯」という用語を思い出させる差別的用語ではありませんか。宗教的な理由や長い歴

史習慣、或いは動物的本能を含めて考慮するならば、この問題は所詮荒井氏の発言にあ

るように“人権を尊重し協調してやっていく”しかないようにも思われます。

身近なところで考えても、女性専用車両、トイレ、浴場をどうするか、公的空間におけ

る同性愛カップルの愛情表現をどう受け止めるか等々単純ではありません。「性的少数

者」のために「性的多数者」が差別されてはおかしいのです。

一連の「検証」記事の中で、アメリカの取材ルールに触れているところは注目すべきと

ころだと思います。

日本では「オンレコ」と「オフレコ」の二つしかありませんが、アメリカではその間に

「バックグラウンド」と「ディープ・バックグラウンド」の二つがあり、厳密に区別さ

れているのだと言います。「バックグラウンド」は発言者の言葉は引用できるが発言者

は特定されないように「○○関係者」などと表現され、「ディープ・バックグラウン

ド」は発言者の属する組織や立場などを一切明らかにしないで内容だけを報じるやりか

ただそうです。

しかし、記事はそこまでで、日本もこれに倣うべきだとは書かれていません。

意地悪な見方をするならば、ときどき小物の政治家や役人の“しょーもない失言”を大袈

裟に取り上げて首を取り、勇気あるヒーローになるには今のままがいいと考えているの

だろうと疑りたくもなります。

「ペンは剣よりも強し」を言い換えれば「ことばは刃物よりも人を深く傷つける」とい

うことにもなるでしょう。

実はこのような名言もあるのです。

“ペンの一撃は剣の一撃よりも強い。それ故にペンは剣よりも残酷であることは明白である”

この名言を残したのは、やはりイギリスの古典文学研究家兼牧師のロバート・バートン

で実はこちらの方が300年も古いのです。

メディアの人たちには、この名言を自己検証のために、そしてSNSの健全な発展のため

には適切な管理のために活用していただきたいものだと思います。

                         2023.03.03

追記

侍ジャパンと中日の試合を見てから書き始めたので、さすがに眠くなってきまして、二

つの例と言っておきながら二つ目を書かずに締めくくってしまいました。

今更とは思いますが、その二つ目を追記します。

2月17日JAXAは、大幅なコストダウンに成功し内外の注目を集めていたH-3初号機の打

ち上げを発射直前に中止しました。直後に行われた記者会見では、岡田プロジェクト・

マネージャーが、専門知識のない記者たちの質問に気の毒なほど忍耐強く対応されてい

ましたが、共同通信の記者はちょっとひどすぎました。

彼は「打ち上げ中止」ではなく「打ち上げ失敗」と言わせたかったようで、岡田氏が

”異常を検知したら安全に停止するという設計が正常に機能したもので失敗とは考えて

いない”という説明にしつこく食い下がり、”それは一般に失敗と言います。有り難うご

ざいます”と捨て台詞を吐いて質問を終えました。

彼はどうしたかったのでしょうか。これも意地悪な見方をすれば、失敗を認めさせれ

ば、次には「責任者は誰?」「どう責任をとるつもり?」といった展開を意図してい

たのではとも考えられるのです。それは、失言や不祥事の追及において常に見られる

傾向で、製造物責任や事故調査などでも原因の究明よりも責任者の追及に重点が置かれ

ているのではないかと感じることが良くあります。

「何をしたか」よりも「何をしなかったか」が評価される世の中は、あまりいい世の中

ではないように思いますけどね・・・。