樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

魂の衰弱(Y-46)

 

月刊誌「文芸春秋」の1月号は、“創刊100周年新年特大号”としていつもより存在感を示

しながら売り場に並んでいた。文豪菊池寛が“頼まれてものを言うことに飽いた”と言っ

て1923年(T12)に同人誌「文芸春秋」を創刊してから100周年になるという。

記念号の大型企画は「100年の知に学ぶ」で、その筆頭を飾るのが京都大学名誉教授佐

伯啓思先生の“「日本の自殺」を読み直す”という論文だ。これほど見事に日本の没落を

分析したものはないような気がするので要約してみたいのだが、この論文自体が1975年

2月にこの文芸春秋で発表された「日本の自殺」の要約なので、私ごときが手を加える

余地がない。

「日本の自殺」は2012年3月号で再録され、単行本にもなったらしいが、著者名(複

数)は明らかにされていない。その裏には、今再びメンバーの選出方法などをめぐって

議論されている「学術会議」あたりの圧力が想像されるが、名を伏せた理由は少々気に

なるところではある。

いずれにせよ、この論文を料理する資格も能力もない私としては、部分的にコピペし

て、あとは読者に考えてもらうということで話を進めたい。以下、引用する。

 

“戦後の民主主義はまた、次のような特徴を示していた。

第一に、それは、批判を許さない独断的で非経験科学的なドグマであった。

第二に、それは、多元性を認めない全体主義的要素を持っていた。

第三に、それは、もっぱら権利の主張に傾き、責任と義務を軽視した。

第四に、それは、政治的指導者に対して強い批判をするが、建設的な提案はしない。

第五に、それは、エリート否定の半面として大衆迎合的であった。

このように著者たちは主張している。

戦後民主主義は「疑似民主主義」であった。日本の戦後民主主義の持つ平等主義(悪平

等)のイデオロギーこそが、社会の均質化と画一化を推し進め、社会から活力をそいで

いった。

これが「日本の自殺」のプロセスだ。しかもそれは、ほとんど「文明の法則」とでも呼

びたくなる歴史過程にほかならない。そこで著者たちはいくつかの教訓を引き出した。

列挙しておこう。

第一に、国民が狭い利己的な欲求の追及に没頭したとき、経済社会は自壊する。

第二に、国民は自分のことは自分で解決するという自立の精神をもたねばならない。

第三に、エリートが「精神の貴族主義」を失って大衆迎合に陥ったときに国は滅ぶ。

第四に、年上の世代はいたずらに年下の世代にへつらってはならない。

第五に、人間の幸福は決して賃金の額や年金の多寡や、物量の豊富さによって計れるも

のではない。人間を物欲を満たす動物と見なすとき、欲望は際限なく膨らみ、人は常に

不平不満にとりつかれる。”

“自壊をもたらすものは、制度の疲労や政府の失策や外部環境への不適応ではなく、

人々の、いわば「魂の衰退」だというのである。自らの「文明」を客観的に分析し、そ

の中に在って自らの立場を選択する自立的な意思の欠落、誰かが(「アメリカが」、ま

た「国が」)何とかしてくれるという依存心、それに自分で物事の適宜性を判断する倫

理観念や道徳意識の崩壊、情報処理装置の高度化と裏腹の人間の知力や常識、言語能

力、感受性の衰弱。それこそが日本を衰退に向かわせる。これは、日本の精神的な、つ

まり魂の「自殺」なのである。

 

“今日、われわれが直面している問題は、ただ「日本の没落」というだけではなく、

「現代文明の没落」そのものというほかなかろう。「日本の自殺」は、戦後日本の特異

な構造(戦後民主主義、対米依存、経済第一主義、画一的大衆社会など)だけの問題で

もない。とりわけ冷戦後、そこに西洋近代主義に覆われたグローバル文明の没落、とい

うさらに大きな事情が重なりあったのである。グローバルな現代文明自体が壮大な自壊

のプロセスにある、ということにもなろう。(中略)

だが今日のグローバル文明には(ローマ帝国とは違って)外部はなく後継者もないとす

れば、この巨大な地球一体文明の内部にこそ、多様な文化による多元性を確保し、それ

を維持していくことが決定的に重要となるだろう。そのためには、何よりもまず、この

現代文明の持つ矛盾や陥穽を見据えなければならない。東洋に位置しつつも西洋から多

大の影響を受け、相当に独特な風土のもとで独自の文化をつくりあげてきた日本にそれ

が不可能とは思えない。日本だけの課題ではないものの、それが没落の先頭に立つやも

しれない国家の責務というものであろう。”

 

要するに、現代文明は自壊のプロセスにあり、世界は下り坂に突入している。日本はそ

の先頭に立っているのであり、否応なく「下り坂の思想」が求められる。

それをわれわれは、”借りもの“でない、われわれの内にある価値観(自然観、死生観、

歴史観、人生観など)を頼りに探っていかなければならない。日本はそれができるはず

だし、それこそが日本という国家の責務だというのである。

日本はダメだと突き放したような意見や、犯人捜しばかりが横行するなかで、このよう

な意見は珍しく貴重である。しかし、しばらく待ってみたが、この論文に対する反響が

聞こえてこない。はたして日本は、衰弱した魂を復活させることができるのだろうか。

今のところ、その兆しがうかがえるのはスポーツの世界だけである。

 

気になっていることが一つある。

それはグローバリズムについての考え方だ。

グローバリズムとは、地球全体を一体として考える思想で、具体的にはグローバル・ス

タンダードを構築する活動だと思う。しかし、その実態は、端的に言えば米・欧価値観

の押し付けになっている。

真のグローバリズムは、”統一“或いは”均質化“ではなくて、多様化を保障するウィンウ

ィンのルール作りではないかと思う。言い換えればローカリズムの尊重だ。

かと言って、“中国には中国の民主主義がある”という主張を認めるわけではない。

民主主義はあくまでも民主主義であって、一党独裁はその中に入らない。

しかし、濃淡は別として、お付き合いのルールは作れるはずである。

“和をもって尊し”とする日本にその資格と使命があるといえば、それは”危険思想”だと

罵られるのであろうか。

                           2023.02.21