樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

差別失言とことば狩り(J-54)

 

世に、差別発言と決めつけられてしばしば袋叩きにされている発言は、本人には全くそ

の気はなく、いうなれば“差別失言”であることが多い。

今月12日、日テレの「スッキリ」でアイヌ民族の女性を取り上げたドキュメンタリー

作品を紹介した際、お笑い芸人の脳みそ夫が発した発言もその類だ。

その番組は見ていなかったのだがYouTubeなどで確認してみると、次のような発言であ

ったらしい。

脳みそ夫:“ここで謎かけを一つ、この作品とかけまして動物を見つけた時と解く、

その心は「あ、犬」ワンワンワン・・この作品を見てアイヌの美しさを堪能しよう“

謎かけというにはお粗末な出来で、「ねづっち」の爪の垢でも煎じて飲んだ方がよさそ

うだが、全体を見れば差別発言でないことは明らかである。

そもそも、“犬は交際術の天才、接客の手本”と思っている犬好きの私からすれば、

「犬」に悪いイメージはない。“幕府の犬め!”という勤皇志士お決まりのセリフも、

新選組からすれば忠臣であるわけで、単なる立場の違いにすぎない。

日テレとご本人が早々に謝罪したことで、この件そのものは”ボヤ“で収まりそうだが、

なんだか”スッキリ“しない。

そこには、「犬」だけにとどまらない、いわば“言葉狩り”現象が起きることへの懸念が

感じられるからだ。つまり、受け取る側への極度の配慮は、言語表現の豊かさを制限す

ることに繋がってはいないかということだ。例えば、猿のように、羊のように、キツネ

のようにリスのように、小鳥のように・・・といった比喩表現は一切使えないといった

ことになりはしないかということだ。

 

現役のころのエピソードであるが、ある時「手短に」という言葉をつかったところ、

それは「差別用語」だと注意されたことが在る。一瞬何のことか分からなかったのだ

が、それがサリドマイド被害者への配慮を欠く表現であると指摘したものだと分かっ

た。そこでちょっとした論争になったのだが、相手は「めくらヘビにおじず」も「つん

ぼ桟敷」もだめだという。はなから「めくら」も「つんぼ」も差別用語だから使っては

いけない、「○○が不自由な人」と言いなさいという。じゃあ、バカは「頭の不自由な

人」というのか、その方が差別的だな」言ったら、バカは差別用語でないという。

どうもよくわからない。

元々の意味を辿ってみれば、「めくらヘビにおじず」は「リスクを知らず無茶をする」

ことをいさめる比喩表現だし、「つんぼ桟敷」は「大向こう」と同じく、元々は「目の

肥えた見物客をほめた表現」で、差別的な意味はなかったはずだ。

受け取る側がどう感じるかは大切である。勿論配慮が必要だ。しかし、全体なり前後の

つながりを見れば、差別かどうかはわかる。もし相手が不愉快だというのであれば、誤

ればよい。最初に断りを入れれば済むはずだ。

しかし現状は、それさえも許さない雰囲気が重くのしかかっている。

典型的な例は、だいぶん前(2007)の話になるが、当時の柳澤厚労相が地方議会の集会

で発した「産む機械」発言だ。この時大臣は、少子化問題を取り上げ、女性の出産適齢

人口は決まっているので、とりあえずは一人当たりの数を増やしてもらうしかないと云

おうとした。そのために、「産む機械と言ってごめんなさいね」と断わりを入れながら

この言葉を使ったのである。

それでもこの失言は大炎上した。油を注ぎ続けたのが野党とメディアであったことは言

うまでもない。

表現の自由に最も敏感なのはメディアである。メディアはいわば言葉のプロだ。

そのメディアが著名人の失言や言葉尻を捉えてしつこく糾弾する。そして謝罪や辞任に

追い込むという図式は拡大するばかりである。そして今回の日テレのごとく、自ら謝罪

しなければならないような事態を引き起こす。それ自体は自業自得なのだが、同時に

「ことば狩り」が進行していることが、社会の不寛容化に一役買っているように見えて

残念でならない。

                          2021.3.16