1973年に井村屋が売り出して以来人気は衰えず、国民的商品とも言われるほどの存在感
を保ち続けている。固いのが特徴なので、「やわらか~い!」という誉め言葉しか知ら
ないような今どきの若者には不人気かもしれないが、年配者には受けがいい。
つい最近のこと、少々歯を気にしながらこの氷菓を一口噛んだとき、その独特のあずき
の風味が突然古い記憶を呼び覚ました。
それは小学生の頃の学校給食の場面で、おそらく昭和27年ごろの出来事だ。
たしか水曜日のメニューの中に「ミルクぜんざい」というのがあって、中には苦手な子
もいたが、私は“おかわり希望”の列に並ぶほど好きだった。その場面がありありと蘇っ
たのである。
当時一般家庭に冷蔵庫はなく、冷たい牛乳を飲む習慣はなかった。この「ミルクぜんざ
い」のミルクも元はスキムミルク、つまり脱脂粉乳で水に溶いて温めたものだ。それに
あずきと砂糖を加えたものが「ミルクぜんざい」というわけだ。
味は“生ぬるく甘く”、今時の子供なら「うえっ」と顔をしかめそうな代物だった。
さて、その脱脂粉乳の出所はといえば国内産であろうはずがない、やはりアメリカから
やってきたものであった。
それから70年の時は流れて2015年4月、当時の安倍総理が米議会で「“filibuster”(長い演
説による議事妨害)をするつもりはないが・・・」と断りながら長い演説をした。
その中で、戦後の食糧支援などに関して”ミルク、暖かいセーターそして何と2,036頭の
ヤギまで送られてきた“と感謝の言葉を述べる部分があった。
それらの支援物資は「ラ・ラ物資」と呼ばれていたが、「ラ・ラ」とは「Licensed
Agencies for Relief in Asia (アジア救済公認団体)」のことで、皇后陛下が昭和24年に
お詠みになった一首にも次のごとくその名が残されている。
“ラ・ラのしな つまれたるみてとつくにの あつきこころに涙こぼしつ”
まさに涙が出るほど有難かった支援に対し、感謝の意を伝える親善大使を送ることにな
り、その代表を選抜するために開かれたのが「ミス日本コンテスト」の始まりである。
第1号に選ばれたのが、のちの大女優山本富士子であった。昭和25年のことである。
しかしこのストーリーは、実は”表の美談”であって、その裏には知られざる感動の物語
が埋もれたままとなっているのである。
そのことを書き残したのは、ノンフィクション作家の上坂冬子氏だ。
彼女は元はトヨタの社員であったが、倹約してアパートを建て、やがてそれを4階建て
のビルに発展させてテナントを入れ、自らは最上階に住んで執筆活動をつづけた。
食うためでなく自由に書くためにそうしたのである。
だから、細川護熙首相の“日本が侵略戦争を行った”という発言に対しては、“何と粗雑に
して迂闊な発言であろうか”と痛烈に批判し、また2004年には本籍地を国後島に移すと
いう実に痛快な言論と行動を展開した。惜しくも2009年に78歳で亡くなるのだが、その
彼女が2008年文芸春秋の季刊夏号「日本人へ」(私が伝え残したいこと)に「ラ・ラ物
資の生みの親、浅野七之助さんのこと」という一文を寄稿している。
亡くなる半年前の文芸春秋の企画に際し、おそらく山ほどあるネタの中から彼女が選ん
だ題材なので、それなりの強い思いが込められているとみるべきだろう。
上坂氏が初めて浅野氏に会ったのは、昭和天皇在位60年記念式典に浅野氏が招かれ来日
した時であったという。しかしこの時すでに91歳になっていた浅野氏は、疲労困憊の様
子でとても取材できる状態ではなく、上坂氏は別途渡米して話を聞いたらしい。
そこまでしたのなら、彼女の著作のどこかにこの話が載っていそうだが、私の調べでは
確認できていない。
浅野氏の経歴などは盛岡市のホームページやウィキペディアなどでも見ることができる
が、詳しい記述はないので、結局は上坂氏の短い寄稿文に頼ってまとめてみると次のよ
うなことになる。
浅野氏は明治27年盛岡市に生まれ、同郷の政友会総裁原敬の書生となる。23歳の時、東
京毎夕新聞特派員として渡米し1924年からは朝日新聞通信員として勤務するが、戦時中
は日系人キャンプに強制収容される。戦争が終結しサンフランシスコに戻ると、当時の
法律によりアメリカ国籍を取得できなかった日本人の中には住居を乗っ取られた人たち
もいるという更なる”理不尽“が待っていた。そこで浅野氏は日本人の帰化権獲得の運動
を起こすべく、手掛かりとして昭和21年に日本語新聞「日米時事」を発刊する。同時に
故国の窮状を知り、「日本難民救済会」を設立して紙上で日本へ救援物資を送ることを
呼びかる。これが先に述べたLARAに発展するのである。当時アメリカの慈善活動は
「American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad」(海外事業篤志団アメリ
カ協議会)が担っていたが、その対象地域はヨーロッパのみであった。未だ反日感情が
残る中、日本向けの救済活動には抵抗もあったようだが、浅野氏の元へはアメリカのみ
ならず、ブラジル、メキシコ、アルゼンチンなどに住む“さほど豊かでない”日本人から
の救援物資が次々に贈られてきた。
昭和21年末、ラ・ラの第1船は、アメリカの軍用缶詰10万ドル分と日本難民救済会から
の3万ドル分の救援物資を積んで横浜港に入港した。
つまり救援物資には、とつくに(異国)の篤き心と、とつくに住む日本人の熱き心の両
者が詰まっていたのである。しかし後者については何故か肝心の日本人に正しく伝わっ
ていない。浅野氏は、”発起人である自分にはそのことを伝える義務がある”と最後まで
そのことを気にしながら平成5年98歳で亡くなったという。
浅野氏は1987年にサンフランシスコ市から表彰され、事実は確かめてないがその日5月
16日は「浅野七之助デー」としてメモリーされているという話もある。
この物語は健全なるPatriotism の問題であり、教科書にあってもよさそうなエピソード
である。Patriotism は、「愛国心」と同義であるが、日本では”愛国心=Nationalism”の
イメージが強い。そしてNationalismは国粋主義に結び付く。
朝日新聞が、この誇るべき元社員のエピソードに敢えて無関心な態度をとっているのは
おそらくそのためだ。
上坂氏は寄稿文の最後を“浅野七郎氏の創刊した「日米時事」は、いまも氏が人生の大
半を過ごしたサンフランシスコで刊行を続けている”という言葉で結んでいる。
しかし残念なことに、「日米時事」は、氏が亡くなった数か月後の2009年9月に廃刊と
なっている。
この物語のように、光が当たらないまま放置されている戦中・戦後談はいくらでもあ
る。そしてそれらを知る度に”戦後はまだ終わっていない”ことを痛感する。
2022.09.05