9月5日、静岡県の認定こども園で3歳の女児が、約4時間も送迎バスの中に置き去りにさ
れ、熱射病で死亡するという事故が発生した。女児は衣服を脱ぎ水筒は空になっていと
聞けば、その痛ましさは限りなく怒りさえこみあげてくる。
家内の第一声は「去年もあったばかりなのにどういうこと」であったが、毎日新聞の社
説も「教訓何故生かせなかった」となっている。その教訓とは、昨年7月31日に起きた
福岡県の保育園で5歳の男児が死亡した同種の事故を指している。しかし、実はその前
にも2007年に北九州市の無認可保育園で同じような事故が起きているのである。
永岡文科相は6日の会見で、“このような事案が再度起きてしまったことは極めて遺憾、
一体あの通知は何だったのかという風にも思う。再発防止に向け内閣、厚生労働省と連
携して様々な機会に注意喚起を行い、送迎バスにおける子供の安全確保に努めてまいり
たい”と今後の方針(?)を述べた。
大臣が言う”あの通知“とは福岡県の事故後に出されたもので、次のような内容だ。
・送迎バスを運行する場合は、運転を担当する職員の他に子供の対応ができる職員が同
乗するのが望ましい。
・子供の乗車時及び降車時に座席や人数の確認を実施し、その内容を職員の間で共有す
ること。
大臣はこの通知をほぼ守っていたこども園で今回の事故が発生したことに対し、再度通
知を出して様々な機会に注意喚起をすることで改善を図ろうということらしい。
だとすれば、“無能”としか言いようがなく、失望するほかない。
「マッハの恐怖」など、ヒューマンエラーに関する著作で知られる柳田邦男は、「航空
事故」(中公新書)のなかで、“機械やシステムの欠陥や弱点を人間の注意やマニュア
ルによって補おうとすると必ず破綻するという「公理」がある”と述べ、英国の著名な
学者一家の一員であるオルダス・ハックスレイは、“歴史から得られる最大の教訓は、
人類が歴史から得られる教訓を少しも役立てなかったことである”と皮肉たっぷりに語
っている。二人の言葉は、いささかオーバーな表現にも見えるが、ヒューマンエラーの
克服がいかに難問であるかを強調したものだ。
われわれ人間は、自分の経験でさえその教訓を生かしきれないのが常だ。ましてや、
他人の経験から得られる教訓など、1年やそこらですっかり忘れてしまうことを今回の
事故は物語っている。
“教訓”には賞味期限があるのである。
だから永岡大臣はその賞味期限が切れないうちに、プロジェクトチームを作るなりし
て、実効性のある対策を講じると言わねばならない。賞味期限は思いのほか短い、急が
ねばならないのである。そして、その主体は、厚労省ではなくて国交省であるはずだ。
なぜなら、問題は保育園の送迎バスに限った問題ではないからだ。
アメリカでは、子供を放置して車を離れただけで”虐待”と見なされる。
にもかかわらず、ワシントンポストのレポートによると、1998年以降の15年間で、682
人の子供が高温の車内でなくなり、その54%が置き忘れであるという。この現象を脳
科学者のデビット・ダイアモンド博士が、「赤ちゃん忘れ症候群」(Forgotten baby
Syndrome )と名付けた。同種の事故は世界中で起きているのである。だが、それらの
すべてを保護者の無責任や愛情の欠如に結び付けることは大きな間違いだ。日本でも、
出勤途中で子供を保育所に預ける予定の父親がそれを忘れ、勤務先の駐車場で1歳の女
児が死亡するといった事故が起きている。その父親廃止は医師である。
ヒューマンエラーを犯す人物には欠陥があると考えるのは間違いだ。人はミスを犯すも
のであり、ヒューマンエラーは”人間の証明“でもあるとかんがえるべきなのだ。
日常生活の中で、最も身近にヒューマンエラーに接するものと言えば交通事故である。
時代的に見れば、車の普及とともに交通事故も増加の一途をたどり、ひところは「交通
戦争」という言葉がしばしば使われた時代もあった。交通ルールや規制の強化に顕著な
効果は見られず、それは長らく社会問題の一つであった。それが車自体と環境の両面に
わたるハード面の安全対策が進んだことで、近年著しく改善されている。近い将来、追
突事故やアクセル/ブレーキの踏み間違いと言った事故はほぼなくなる可能性がある。
赤ちゃん忘れ症候群への対処も技術的にはそれほどの難問とは思われない。要は覚悟の
問題だ。現に北米日産は、子どもを置き忘れないための安全装備を4ドアモデルの全車
に標準装備すると発表した。EUでは幼児の送迎車両に置き忘れ防止のために最後尾に設
置されたスイッチを押さないとキーが抜けないといった対策も取られている。
日本でも、浜松市のフルティフル合同会社が子供の置き忘れ防止に役立つ無料のアプリ
を提供しており、8月末からバスモードの試験運用を始めているそうだ。
永岡大臣はこれらの事情をご存じないのであろう。というより、社会全体が、
”犯人捜し“と”責任者に対する追及“に熱中するメディアに毒されている。
やがてはその”方角違い“に気づき、より効果的な対策がとられるに違いないとは思う。
しかしながら、実はそれでもヒューマンエラーの問題は完全解決に至らないということ
も理解しておかねばならない。新たな安全対策が、それまでになかった思いがけない
ヒューマンエラーを生むこともあるからである。
そもそも安全というものは存在しない。安全には実体がないのである。
存在するのは危険であり、極言すれば、許容内にある「危険」のことを我々は「安全」
と呼んでいる。
だから「安全」を手に入れるためには、「危険」を見極め危険と闘い続けなければなら
ない。そして「安全」が長く続けば続くほど、危険に対する感度は鈍くなって行く。
皮肉なことに「安全の継続」が「安全の敵」にもなることもある。
あらゆる教訓には「賞味期限」があることを忘れてはならない。
2022.09.12
から得られる教訓には賞味期限があることを忘れてはならない。