ようやくワクチン接種が始まったかと思えば、これがなかなかはかどらない。
その理由をつきつめていくと、ことごとく緊急事態下での特例(規制緩和)が定められ
ていないことに集約されると思うのだが、果たしてその教訓は生かされるのだろうか。
それとも、“喉もと過ぎれば・・”がまたも繰り返されてしまうのか。残念ながら、
手が付けられたことと言えば、「国民投票法」が7項目にわたりマイナーチェンジされ
ただけで、本格的な改善の動きは見えない。
かくして、がんじがらめの制約の中で、政府は1日100万回という数値目標を掲げたのだ
が、即座に「ムリ~」と悲鳴を上げた自治体もある。もしそれが可能だとしても、国民
全員に2回接種となれば、240日以上が必要となる。容易なことではない。
そんな中、自治体の首長などが、医療関係者や高齢者向けのキャンセル分を優先的に摂
取したことが判明し、これを非難する声が上がっている。
“抜け駆け”だというのである。
キャンセル分を無駄にしない方策が求められる中、このような例は数多くありそうなの
だが、気の毒にも、真っ先にやり玉に挙げられたのは、茨城県城里町のK町長(42)と
兵庫県神河町のY町長の二人である。14日朝の東海テレビ(フジ系)「めざまし8」で
も、これらの町長の行為には批判的で、取材に応じた街中の声も概ね”けしからん“とい
う声が優勢であったのだが、番組中で実施されたリアル投票結果は、賛成59、反対41
で、これらの自治体がとった処置を容認するものが多数を占めた。
驚いたのは、この結果に対して、総合解説の風間フジテレビ解説委員が「ショック」だ
とコメントしたことだ。フジにしてそうなら他は“推して知るべし”である。ほとんどの
メディアがスキャンダル扱いをしているようだ。
非難の声を上げている人たちは、不平等だ、不公平だという。
ならばどうすればよかったのか。その数が不明なキャンセル分に対して、さらに予約を
取らせるのか、行列を作らせるのか。
公平・平等を厳格に守ろうとすれば、その効率は著しく悪化する。極端な話、キャンセ
ルがなければすべては徒労に終わるのだ。人々の不満は間違いなく「爆発する。
やはり非常時には公平性や平等性よりも効率を優先しなければならない。
“ 兵は拙速を尊ぶ”という言葉の通りだ。
更にもう一つの問題がある。自治体の首長などはそもそも優先されるべき立場ではない
かということだ。
コロナ対策に熱心で、先頭に立って活動する首長ならば、感染のリスクもまた高くなる
であろう。首長が倒れた時の混乱を案じて職員があらかじめ手を打ったとすれば、それ
は理解できるし、その職員は”ごますり”ではなく、むしろ有能であると評価すべきだ。
それを”上級国民“などと呼んで僻むのは褒められたものではない。
16日(日)の「日曜報道」では容認が64%に上がっていたので、そのトレンドに少し
安堵したが、それでもなお、36%もの「けしからん組」が存在していることも事実だ。
以前、「寛容性が失われてゆく昨今の風潮」に対する懸念を述べたことが在ったと思う
が、それよりもなんだか陰鬱な、”ひがみ根性社会“が形成されつつあるようにも思われ
て気持ちが悪い。取り越し苦労で済めばいいが、「武漢肺炎」よりも「恨の文化」に感
染する方がはるかに深刻だと思うからだ。
いずれにせよ、“元気な町長より持病のある俺の方が優先されるはずだ”と考える人たち
や、自分と首長の優先度は同等だ”と主張する人たちがかなりの割合で存在し、しかも
それを堂々と口にする人たちがいるのである。
私はそこに日教組の影を感じないわけにはいかない。
思い出されるのは、“お手て繋いでゴールイン”という典型的なエピソードだ。
ある小学校の運動会で、児童全員に手を繋がせ横一線でゴールインさせたというもの
で、日教組の公平・平等感を象徴する出来事だ。
そして、教師たちは教壇から降り、児童生徒と同じ目線で接するべしと心に決め、友達
のような存在になろうと努めた。怖い先生は父兄からも仲間からも嫌われる存在となっ
たのである。さらに日教組は、“自分こそが最も貴重な存在である”という思想を子供た
ちに植え付けた。
献身や自己犠牲などの尊い精神には概ね無関心で、時には激しく嫌悪しながらこれを忌
避する姿勢を取り続けてきた。長きにわたる洗脳教育のおかげで、庶民のなかに「自分
第一主義」が浸透していったことは間違いない。
「人の命は地球より重い」という言葉や「世界に一つだけの花」という歌にどこか心惹
かれたことのある自分も、もしかするとその影響を受けているのかもしれない。
2021.5.16