Saraは勿論高梨沙羅のことで、柚子は中国のファンが付けた羽生結弦の愛称である。
期待されながらメダルを逃したこの二人、おそらく私の心の中には、2022北京五輪を代
表するようなエピソードとして深く刻まれることになりそうだ。
スキージャンプ・混合団体競技は、2010年のユースオリンピックで初めて採用され、そ
の後ワールドカップや世界選手権にも導入されてきたが、オリンピックの種目としては
今回の北京が最初である。その第一号となるメダルの行方には、おのずから注目が集ま
っており、日本チームもその有力候補に挙げられていた。
この競技に出場できるのは、個人競技の男子・女子にそれぞれ2名以上の出場資格者を
有する国で、今回は10チームが参加し、1回目のジャンプで8チームに絞られる。
競技は女子・男子・女子・男子の順に4人の選手が跳躍し、それぞれの合計得点で順位
が決まる。
元来、どちらかといえば団体競技が好きな私はこの新種目を楽しみにしていて、コーヒ
ー片手に5分前から待ち構える。
日本チームの第1ジャンパーは個人戦で惜しくも4位に終わった高梨沙羅である。そして
彼女は、103mの見事なジャンプを決め、スロベニアに次ぐ2位発進となる。
ところが、2番手の佐藤幸椰が飛んだ直後異変が起きる。突然、そこまでの順位が最下
位の7位に下がってしまったのである。なぜか、得点表示には高梨の得点が加算されて
いない。
やがてその理由が明らかになる。彼女のスーツのサイズが規定を外れていため失格だと
いうのだ。私は少なからぬショックを受け、「前にもあったじゃないか。何をやってる
んだ」と腹を立てた。1年前のW杯でも同じようなことがあったからだ。
3人の得点で2回目に進むことなどできっこない。私はそこで観るのをやめた。
ところが、寝る前にネットで確認してみると、なんと日本は4位になっている。
どうやら、日本の他にも3チームの選手たちが失格になったらしい。
結局、優勝は今大会好調のスロベニア、2位ROC、3位カナダという結果となり、メダル
を争うと見られていたW杯5戦4勝のドイツ、1勝の日本それに強豪国ノルウエーの名前がな
い。なんだかおかしい、続けて観ればよかったと後悔したが後の祭りである。
あくる日の録画は、結果が分かっていながら日本の追い上げにドキドキした。
失意の失格からわずか50分、眦を決して高梨は98.5メートルを飛び、この組2位の得点
を出して順位を最下位の8位から5位に上げる。実はこの時2位にいたノルウエーにもスーツ違
反があり順位は4位になる。その後も徐々に上位との差を縮め、3位と55.5点あった差を
17.7にして最後のエース小林を迎える。
もしかして奇跡が・・と期待する中、小林は106mの大ジャンプを決める。あとは待つ
ばかりという緊迫した場面でカナダの選手が自身最高のジャンプを成功させ、わずか8.3
点差で逃げ切る。涙が止まらないSara・・抱きしめる伊藤・・陵侑・・できることなら
TV画面の中に割り込んで、その輪に加わりたいような感動のシーンである。これが団体
戦の魅力でもある。ここまでやってくれれば選手たちには何も言うことがない。
しかし、それで一件落着と片付けるわけにはいかない。あり得ることなのか、あっては
ならないことなのか、どうしてこのようなことが起きてしまったのか・・・。
時間がたつにつれ、次のようなことが分かってきた。
・選手が着用するスーツは飛距離に影響するため、これまで何度もルールの厳格化がな
されてきた一方で、各国のスーツ性能改良競争も激化している。
・選手は、スタッフが用意したスーツを着用するだけなので責任はない。
・今回は従来と計測要領が異なっており、それについての事前説明はなかった。
・大量の失格が出た背景には、競技場の環境(高地、低温)が影響した可能性がある。
といった事情なのだが、それでも納得しがたい疑問が残る。
・なぜ競技を終えた選手を計測するのか。ボクシングの試合で試合後に体重を測って失
格にするがごとき理不尽なルールではないか。
・失格者は、何故メダル候補の有力チームのしかも女子に集中しているのか。
・5人の失格者は全員個人戦と同じスーツを着用したと言っている。
・ノルウエーの二人は、1回目は何事もなく、2回目で失格になっている。
これほどの失格者を出して、しかもそれがメダル候補の有力チームばかりとなれば、騒
ぎは大きくなる。ドイツの監督を筆頭に各所から非難の声が上がったのも当然だ。
しかし、実際に検査を担当したポーランド人のアガ・ボンチフスカ氏(女性)は、
“日本人は違う(あなたのように文句は言わない)他人に責任を押し付けない。私は自
分の仕事をした”と抗議の声に応えた。
まるで、自分が権力者であるかのような態度で庶民をいじめる”木っ端役人“のごとく、
極めて不愉快な印象だ。そのようなケースは、たいていその上司にも問題があるのだ
が、まさにそう思わせるようなコメントが関係者から漏れた。
“団体戦で着用したスーツは個人戦で女性のコントローラーがOKを出したものだった
が、そのスーツを今度は男性コントローラーが違うやり方で測定したことから大混乱が
起きた。”
具体的には、『いつもは女性の検査官が一人でやるのに今回は3人で、その中に最も厳
しい検査官として知られるフィンランド人のミカ・ユッカラ氏がいた』
ということらしい。
いずれにせよ、現在のルールはその運用の仕方(実施要領)を含めて改善が必至である
ことは明らかだ。とくに、競技に臨む選手たちからスーツへの不安を取り除くことが最
も重要である。
高梨は自身のインスタグラムで、
“応援してくれた人を失望させ、チームメンバーの人生を変えてしまったと謝罪し、
責任をとれるとは思っていないが、今後については考える必要がある”
とコメントを発表した。そこに画像はなく、彼女の心を映すが如く真っ暗である。
スタッフの誰かが「彼女に責任はない。我々のミスだ」とコメントしたようだが、ミス
だというなら高梨に謝罪をさせている場合ではない。彼女に対して、さらには国民に対
して、一言あるべきではないか。そうでないというなら、しっかりと抗議の声を上げる
べき立場にある。
この一件、もはや如何ともしようがない。2回目に進めなかった選手には記録そのも
のがないからである。ただ一つ救いがあるのは、高梨の“健気さ”と日本チームの奮闘ぶ
りが彼女への非難の声を吹き飛ばしてしまったことだ。その点、中国の女子フィギュア
代表、アメリカ育ちの朱易選手への心無いバッシングが、逆にどうしようもない醜さと
して浮かび上がってくる。
話が長くなったが、もう一人の強烈な印象を残した選手に触れねばならない。それは男
子フィギュア羽生結弦選手である。3連覇がかかっている彼は、いわば北京オリンピッ
クの“顔”ともいえる人気者でもある。
その彼には3連覇の他にもう一つの夢がある。史上初となる4A(クワッド・アクセル)
の成功だ。だが、それを五輪の舞台で初登場させることは、極めてリスクの高い挑戦で
もある。
“3連覇か4Aか”というテーマは、戦いの前から何度も繰り返し話題にされてきたが、そ
の背景にはネイサン・チェンの存在がある。
そして最近の実績を見る限り、チェンは最高得点を次々に更新するなど、その充実ぶり
は際立っている。
だから羽生は、どこかの時点で(4Aを成功させなければ3連覇はない)と考えたのでは
ないだろうか。彼にとっては、“3連覇か4Aか”の二者択一ではなく、“3連覇のための4
A”であったと思う。
彼は4Aをプログラムに入れることを公言し、自らプレッシャーをかけて努力を重ね、
あと一歩の段階で”その時”を迎えてしまった。
周囲には、「未完成の技を外して戦うべきだ、たとえ3連覇を逃しても、金・金・銀な
らそれも十分に偉業達成といえるではないか」という意見もあった。
確かに、“世界初”は誰も塗り替えることができない金字塔である。しかし、女子初の4回
転が安藤美姫であったという記憶は残っていても、男子初の4回転が1998年ジュニア・
シリーズでのティモシー・ゲーブルであったことを覚えている人はほとんどいまい。
誰もができるようになれば“初”は忘れられてしまう。
“壁は破られるまでの命”なのである。
様々な立場の人がそれぞれの思いを抱える中で、ショートプログラムの演技が始まる。
ところがそこには思いがけないアクシデントが潜んでいた。羽生の演技の冒頭、4回転
サルコウの踏切で誰かが傷つけた穴にはまってしまったのである。4Sのはずが1Sにな
り、稼ぎどころで得点0、羽生はまさかの8位でフリーに望むことになった。
一方チェンは圧巻の演技を披露し、羽生が持つ最高記録111.82を更新する113.97を獲得
した。これで、ショート・フリー・合計のすべてでチェンの記録が世界最高となった。
羽生の2大会連続の「金」は、いずれもショートでトップに立ち逃げ切ったものだ。
それでも上位3人の誰かが大きなミスをすれば、まだメダルの可能性は残っていたが、
もはや「金」はない。幸いにも、メダル圏内には日本選手が2人残っている。
おそらく、このとき彼は迷うことなくフリーでの4A挑戦を決心したに違いない。
一日空けてフリーの演技が始まる。
ショート8位の羽生は、最終組一つ前のグループである。
スタート前の彼は、いつになく気合を前面に出し、頬はいくぶん紅潮しているように見
えた。
勝負は冒頭に訪れる。
一人の選手の一つの演技を世界が注目する中、やはり彼は果敢に挑戦した。
・・・・そして、奇跡は起きなかった。
ただ、失敗しながらも史上初めて4Sという記録は残した。
競技を終えた羽生はサバサバとした表情であった。彼の気持ちを察するならば、
“他にやりようがなかったし、これ以上は出来なかった。期待には応えられなかった
が、今はここまでの自分を褒めてやりたい” ということではないかと思う。
とは言え、高梨にしろ羽生にしろ“メデタシメデタシ”というわけではない。このような
形で競技生活を終えることは不本意なはずだ。
現段階では、高梨は自身が持つ最多勝利数を更新できる唯一の存在であり、彼女にはま
だその力が残っている。そして羽生には4Aの完成がある。そのために、もし役に立つ
ならファンは心からの応援を送り続けるだろう。
しかし、二人が”燃え尽きた”というなら、「よくやってくれた、ありがとう」と言うよ
り他はない。それは、未完成でありながら人々に感動を与え、後世にも影響を及ぼした
シューベルトの「未完成交響曲」と同じではないかと感じるからである。
2022.02.15