樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

「和魂洋才」から「和魂和才」へ (Y-20)

「和魂洋才」という言葉があります。

 辞書などによると、“心には日本人としての大和魂を持ち、

西洋の学問を活用するという意味。元々あった「和魂才」を

もじったもので、明治以降使われるようになった“

と説明されています。

この言葉の底には、もてはやされる「洋才」に対する抵抗感がある

ようにも感じますが、そもそもこの言葉、いつのころに生まれた

ものなのでしょうか。

 

誰が最初に言ったのかは分からないのですが、もとになった

「和魂漢才」の起源については、複数の学者が「源氏物語」と

「菅家遺誡」をあげ、この思想は平安時代にさかのぼるものである

と主張しています。

源氏物語」では「少女」の帖に、このような記述があります。

“なほ才をもととしてこそ大和魂の世に用ゐらるるかたも強うはべらめ”

ここにある、「才」というのが「漢才(儒学)」であり、

大和魂」が「和魂」であるというわけです。

しかしこの当時、「大和魂」は、“我が国の実情に応じた行政能力”

といった意味で、いわば「学問」に対しての「実務能力」を指す

言葉であったようです。

だから、この紫式部の文を大胆に意訳するならば、

“学問(儒学)は行政手腕を発揮するうえで強力な武器になる“

といったところでしょうか。

また「菅家遺誡」の方は、菅原道真の没後、室町時代の何者かが

菅原道真に仮託して33条をまとめたものと考えられていて、

「和魂漢才」という言葉は、この本を解説する国文学者が初めて

使ったものであるとする説が有力です。

ですから、道真が「和魂漢才」を代表する人物であったとしても、

この言葉が彼自身の口から出たものかどうかは分からないのです。

 

いずれにせよ、「和魂」とは「大和魂」を指す言葉であるという

ことになるわけですが、やがてこの言葉は独り歩きを始め、

“「勇敢で・潔く・忠誠心がある」という日本人の根底にある心情”

といった意味合いが強くなっていきます。

明治維新以降の日本人に、少なからぬ影響を与えた吉田松陰が残した

次にあげる歌などは、そのことをよく示しています。

 

“かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

          (捕らわれて江戸から長州への移送中)

“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

                      (辞世の句)

 

さて、中世から近世にかけて、すっかり意味が変わってしまった

かに見える「和魂」「大和魂」の概念ですが、

実は、それほど変わっていないのかもしれません。

それがどこかと言えば、唐突に感じるかもしれませんが、

「事大を嫌悪する思想」です。

「事大」と「忠節」を似て非なるものとして峻別し、

「事大野郎」=「風上にも置けぬ奴」として嫌悪したのです。

「和魂漢才」にも、そこから派生した「和魂洋才」にも、

その言葉の底には

“丸呑みにはされないぞ”

という抵抗感=自己に対する自信 が見え隠れしています。

それが強く表に出れば「自大」につながります。

日本人はこれも”はしたないこと”としながらも、ときに

「自大」に走ったことがありました。

しかし、押しなべて言えば、古来から

日本人は外国の制度や文化を巧みに取り入れてきました。

例えば奈良時代には、唐と通じて律令制度を導入しました。

しかし、このとき「科挙」と「宦官」は除外したのです。

そこが朝鮮などの周辺国との大きな違いです。

そしてただ導入するだけでなく、必要に応じて新たな役職

-いわゆる令外官―を設置しました。

その後も同様のことが、様々な場面で繰り返されました。

つまり日本人は、いつの時代も、

”大切なものは守り“、“いいとこ取り”をして ”磨き上げる“ 

という得意技を発揮して生きてきました。

実はそれこそが「和魂」ではないか、と私は思うのです。

それを一言で表現するのは難しいですが、

私の頭に浮かぶイメージは、「職人気質」です。

松下幸之助本田宗一郎

イチロー大谷翔平黒澤明宮崎駿

そしてノーベル賞を受賞した人たち・・・

日本を代表するような”天晴なみなさん”には、

どこかしら「職人気質」が感じられます。

 

最も強烈な印象として残るものに、2002年から4年間にわたって放映

されたNHKの「プロジェクトX」という番組があります。

いわば無名の人たちの「職人気質」を描いたこのドキュメンタリーは、

実に毎回1500万人以上の人を感動させました。

 

“疲れた夜に「プロジェクトX」を一本観る。仕事の空き時間に一話読む。

最高!泣く。心洗われるような、歪んだ背骨を矯正されるような感覚。“

この宇多田ヒカルのコメントに、

共感の涙をにじませた記憶がよみがえります。

 

ところが、どうしたことでしょう

現代の若者に「職人気質は」評判が悪いのです。

ネットの世界では、“気難しくてコミュニケーション力がなく、

きちんと教えてくれない職人気質の先輩にいかに接するか“

といったような悩みがしばしば話題になっていて、

しかもそのベストアンサーが、“転職しかないっしょ”

だったりするのです。

”安易に妥協せず、損得抜きで、納得するまで念入りに

仕事をする”という本来の意味は薄れています。

ダーティーハリーや刑事ドラマなどで、

新米の刑事が冷たくあしらわれながらも頑張りぬいて、

最後に褒められる・・・といったストーリーも

”あり得ないっしょ“ で片づけられてしまいそうな、

そんな雰囲気なのです。

全員がそうだとは思いませんが、なんだか心配です。

 

プロジェクトXが光を当てた”地上の星たち“は、

現在に生きる人であっても、それは過去の物語です。

目の前に目標が見えていて、“追いつき追い越す”という得意技を

発揮してきた、これまでの延長線上にある成功物語です。

しかし、その物語が放映された時点では、

日本はすでにトップランナーの位置に躍り出ていました。

前にあるべき目標(お手本)はすでになく、迫りくる後方を

気にしなければならなくなっていたのです。

つまり、「和魂洋才」は限界に達していました。

 

私が何を言いたいのか、もうお分かりのはずです。

これからは「和魂才」しかないということです。

日本及び日本人の中に潜んでいる”優れたもの“を再発掘し、

それに磨きをかけてゆくしかないのです。

競争に勝つのではなく、新たな価値を創造するということです。

世界が必要とするものを探し求める必要はありません。

自信をもって“日本人が欲しがるもの”に磨きをかけていくのです。

例えばシャワートイレのようなものです。

「和魂和才」という言葉はなくても、その動きはすでに始まっています。

アメニティ、和食、観光(おもてなし)、品種改良、発酵食品、酒、

ロボット、省エネシステム・・・等々「和魂和才」の材料はいくらでも

あるはずです。

これから世界は、どこもかしこも高齢化してゆきます。

いち早くそれを経験している日本は、むしろ幸運というべきです。

高齢化社会に何が必要かを、

“真っ先に”、“身をもって” 知ることができるからです。

おそらく今後の経済の主役は、消費から快適性へと変化して行くでしょう。

そして、そこには日本人の和魂和才=職人気質を発揮する舞台が

必ず用意されているに違いありません。

自信をもって、日本人が欲するものをどこまでも追及すればよい、

わたしはそう思っています。

                   2020.07.16