樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

NOと言わない生き方もある(y-16)

 

「NOと言える日本」がベストセラーになったのは

1989年のことでした。

石原慎太郎ソニーの盛田さんという珍しい共著で、

もう30年以上も前のことになります。

本のタイトルは、おそらく編集者によるものでしょうが、

よほどインパクトがあったとみえて、その後

“柳の下のドジョウ“を狙ったかのような本が、次々に出版されました。

例えば

・NOと言える国家

アメリカに「NO」と言える国

・中国にNOと言える日本

これらに対する反論もあって、

 ・NOと言える日本への反論

 外国にも飛び火して

 ・NOと言えるアメリ

 ・NOと言える中国

 ・NOと言える台湾

遂にはいわゆるハウ・ツウもの

 ・「NO」を言える人になる

  -他人のルールに縛られず、自分のルールで生きる方法―

 ・はっきりNO!と言える子に

 ・「NO」と言える女性は愛される

これらは、その一部を取り上げただけですが、

次第に個人の問題にすり替わっていったことが分かります。

 “NOと言えない日本”が、いつの間にかその姿を変え、

“NOという子”に変身しています。

“自分のルール”は、むしろ”習慣“と呼ぶべきものであり、

“はっきりNO!を言う子”を言い換えるならば、“駄々っ子”です。

このように、いつかどこかで、誰かが発した言葉は、

すぐさま独り歩きを始め、その挙句迷子になってしまう。

珍しいことではありません。

 

そもそも元祖のお二人は何を言いたかったのでしょうか。

この本は、お二人のエッセイを交互に並べたもので、

直接の対談を書き起こしたものではありません。

タイトルも構成も、編集者の意図によって方向づけられた可能性が高く、

盛田さんは、”大変誤解されている“ と言って、

このブームから身を引いてしまいました。

察するところ、

お二人が言いたかったのは、反米でもなければ、NOと言いなさい

でもなかったのではないでしょうか。

“NOと言える”を解釈してみると、

NOと言えない理由をつくらない、あればそれを解消する、

ということだろうと思います。

具体的には、アメリカに対する過大な依存と、中・韓に対する”負い目“を

解消すべきだと言っているのではないでしょうか。

そしてもうひとつは、

“日本(人)の外交下手に対する嘆き” が在ろうかと思います。

外国と何か交渉した経験のある人は同意してくれると思いますが、

彼らは最初、ほぼ100%の要求を出してきます。相手も同じだと考えていて、

それがフェアだと信じています。

一方日本は、最初から妥協点を考えます。50:50がフェアだと考えてしまうのです。

せいぜい55あたりしか出せない日本と100を出してくる相手との交渉ですから、

どうしても押され気味の妥協点になってしまいます。

思いやり予算“などという名前を付けた段階でもう負け、

交渉がまとまったときの両者の雰囲気は、かなり異なっているのが常です。

 

実は、捨てたのか他人にあげたのか、

「NOと言える日本」が本棚に見当たらないので、

ここまでかすかな記憶と想像で書いてきましたが、

言葉が独り歩きして次第に個人の問題に発展していったのには、

それなりの理由があると思います。

つまり、日本人の多くが「NOが言えない」「断れない」

と悩んでいるに違いないのです。

白状すると私もそうでした。

ところがあるとき、自分の人生を振り返ってみた時、

「NOと言えなかったとき」「断れなかったとき」のその後は、

思いのほかいい結果となっていることに気づいたのです。

そこで私は「これからはなるべく断らないことにしよう」と

心に決めました。そしてそれは正解でした。

まず第一に、気分が違います。前向きになれるのです。

断わった後の、あのうじうじしたいやな気持から逃れられます。

その後、仕事の上でも大きな転機が何度かありましたが、

「NOと言わなかった」ことが、いい方向に導いてくれように思います。

思いがけない人事異動を打診され、

(えっ?私が?)と思うこともあるでしょうが、

「自分のことは自分が一番わかっている」というのは嘘で、

「自分よりも自分のことを分かっている他人がいる」

というのが本当なのです(多分)。

「NO」ということはチャンスを逃すことでもあります。

何でもかんでもというわけにはいかないでしょうが、

とりあえず、“なるべく” をつけて、

「NOと言わない」人生を考えてみてはどうでしょう。

                   2020.05.17