樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

祖国とは国語(その6)(Y-13)

長々とこの「祖国とは国語」というテーマで、

「日本人が守るべき最後の砦は国語」である

というを続けてきましたが、読み返してみると、

もう一つ説得力がないようにも感じます。

それは私の表現力の限界でもあるわけですが、もうひとつ

「それは何のために?」という考察が足りないことに気づきました。

それを考える前に、既に触れてはいるつもりですが、もう一度

「守る」とはどういうことなのかについて考えてみたいと思います。

私は、日本語の特徴はその「多様性」と「豊かさ」であり、

それが日本人の心を作り上げてきたのではないかと述べてきました。

それを具体的に言えば、カタカナ言葉や新語・造語などは

「乱れ」ではなくて、むしろ「成長」ではないかという主張でした。

 

日本人の宗教観を批判的に、

”日本人は、七五三の祝いに神社にお参りし、教会で結婚式を挙げ、

死んだらお寺の世話になる”

或いは”正月は神社で、お盆は寺で、暮れにはクリスマス”

と言われることがよくあります。

しかし、開き直るようですが、それが日本人の宗教観なのです。

 

この宇宙を支配する原則は「エントロピーの増大」です。

”これに唯一抵抗している仕組みが、「生命体」が持つ

「自ら壊しながら作り直す」という永遠の自転車操業である”

福岡伸一先生は「「動的平衡2」で述べています。

これについては別途取り上げてみたいと考えていますが、

日本人は科学的知見がなかったずいぶん昔から、

このことに気づいていたような気がします。

方丈記の「行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず・・・」とか

平家物語の「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・」とかがそれです。

おわかりだとおもいます。

世界(自然界)は常に変化しながら、そのバランスを維持しているのです。

日本語もこれと同じです。

「守る」とは「変えない」ということではない、そう思うのです。

 

それでは、初めに述べた「何のために」を考えてみましょう。

「伝統・文化をまもるために」だとか

「心を通じ合わせるために」だとか、

そのほかにも、たくさんの理由を挙げることができます。

しかし、それらの理由に対して、さらに

「それは何のために」と突き詰めてゆくと、

それらは皆「日本人が日本人であり続けるために」、

つまり、「アイデンティティーの継続」

ということになるのではないでしょうか。

 

世界の歴史を眺めてみれば、

国家の栄枯盛衰は即ち、言語の栄枯盛衰でもあります。

国家の滅亡とともに言語も滅亡した例もあれば、

言語を守り続けて国家を再興させた例もあります。

それは遠い昔の話ばかりではありません。

朝鮮、チベット、ウィグル、クルド等々、

民族の統一、独立、併合 いずれの道に進むのか、

その鍵は「言語」なのかもしれません。

 

言語は民族の「アイデンティティの継続」に不可欠な要素です。

この言葉の中にある「継続」という条件は、

人や組織集団が究極の目標として掲げる価値や概念において

非常に重要な要件であり、ときには目標そのものにもなります。

女子レスリングの吉田沙保里が出ているCMに、

「世界一になることは大変ですが、それを続けることはもっと大変です」

というセリフがあるように、「継続」するには、

そうさせまいとする何らかの圧力に対する備えや戦いが常に必要です。

日本語においても、少なくとも2回は危ない場面がありました。

明治初期、初の文部大臣 森有礼と、終戦直後、

憲政の神様と呼ばれた尾崎幸雄が英語の国語化を提唱したときです。

この二人、私の好きな“変な人”の部類ではありますが、

実は好きではありません、というより嫌いな人物の代表です。

政治家のくせに、愛国者の匂いがしないからです。

「和魂洋才」の「魂」は日本語で作られていると思うからです。

 

アジア諸国の中には、母国語のみでは自分の将来に希望が持てない

という国が数多く存在します。

それはとりもなおさず、

階層化・差別化につながる道だと断定できるでしょう。

既に先進国の仲間入りを果たしている韓国でさえ、

英語ができない人は入居できないコンドミニアムがあるそうで、

差別化は現実のものとなっています。

そうならないためにも、私たちは、

先祖が作り上げてきたこの日本語というすばらしい国語を

大切に護り抜かなければならないと思うのです。

                  (おわり)

                  (おわり)