樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

偶然を支配するものー私の宗教観(Y-19)

「この世はみな偶然の産物である」

こんな言葉を平気で口にすることができるのは、

私がいわゆるインフルエンサーではないからで、

もしそうなら、宗教を信じる人たちーとくに一神教の信者からの、

集中砲火を浴びることになるかもしれません。

しかし、考えれば考えるほど、

私にはそう思われてくるのです。

かと言って、私は無神論者ではありません。

まあ、最後まで聞いてみてください。

 

まず、私たちが生息しているこの地球について

考えてみましょう。

太陽系の他の惑星たちと同様、約46億年前に誕生した地球は、

太陽からの距離が金星よりも少し遠く、火星よりも少し近い、

ほとんどそれだけの理由で、唯一海を持つ星となりました。

あと15%近くても、あるいは5%遠くても

こうはならなかったと考えられています。

その距離は、地球上の感覚では相当な距離には違いありませんが、

宇宙のスケールで言えば、“ほんの少し”と言えるでしょう。

この絶妙の距離はどうして生まれたのか、

それは”偶然“というほかありません。

すべてはこの偶然から始まっているのです。

 

そして、40億年ほど前、原始の海にバクテリアのような

生命体が誕生しました。それからさらに5億年、今度は

突然変異によって光合成生物が生まれました。

この新生物はエネルギー効率が良く、海の中で大繁殖して

大量のCo2を取り込み、酸素を放出し続けました。

酸素は鉄イオンと結合して鉄鉱床を形成し、鉄イオンが

なくなると大気中に放出されていきました。

しかし、大気中にはとてつもない量のCo2が存在していました。

おそらく兄弟星の金星や火星同様、大気の約90%がCo2であり、

推定60気圧程度であったろうと考えられています。

そのCo2 は何処へ消えたのか。

やはりそれは海でした。

海に溶け込んだCo2は、カルシウムと反応して石灰岩となり、

海底に沈殿してゆきました。やがて、10気圧程度まで下がった

ところで、一定のサイクル状態となりましたが、

そこからはサンゴやプランクトンなどの生き物がCo2 を取り込み

現在の0.03%あたりでバランスを保っています。

直近のデータでは、0.04%となっていますが、

それはCo2の吸収源が、ほぼ飽和状態の海だけしかないのに対して、

供給源は、生物の呼吸、腐敗による分解、火山活動、化石燃料の消費等

複数のしかも変動を伴う要因があるからです。

近年懸念されているのは、長い時間と数多くの偶然を重ねて出来上がった

地球環境のバランスが、人間の活動によって破壊されてしまう”必然“です。

 

地球にはCo2の問題だけでなく、まだいくつかの障害がありました。

例えば紫外線です。海に誕生した生命体は強烈な紫外線のために、

長い間海から出ることができませんでした。

ところが生物が作り出した酸素は成層圏に達すると紫外線を吸収する

オゾンに変化します。生物はこのオゾン層のバリヤーを自らつくること

によって海からの脱出を果たします。

人工的に作られたフロンガスオゾン層を破壊することに気づいて

製造禁止としたのは、まさに間一髪のタイミングでした。

また、強烈な太陽風の存在があります。

これは地球の磁気圏バリヤーによって守られています。

さらに大気圏は、年間数千トン以上降り注がれているとも言われる

コズミック・ダスト(隕石)を燃え尽きさせて、

地表への激突被害を防いでいます。

もひとつ忘れてならないのは、月の存在です。

月があるおかげで潮の満ち干があります。

潮汐は海に活力をもたらすと同時に、地球の自転にブレーキをかけ、

地球を穏やかな環境にするのに一役買っています。

自転速度は10万年に1秒ほど遅くなっているらしく、地球誕生の

頃は1日が5時間程度であったろうと考えられていますが、

そのころはおそらく一日中暴風が吹き荒れていたことでしょう。

 

子供のころの私は、宇宙には太陽と同じような星が無数にあるのだから

地球のような惑星もいくつかあって、きっと宇宙人が住んでいる、

と信じていました。

しかし、当時の科学者たちは、太陽系以外に惑星は存在しないと

言っていました。

ところが、1988年に初めて太陽系以外の惑星が発見され、1992年に

それが正式に認められると、そこからは一気に発見が拡大を続け、

2020.6.1現在で4,268個の惑星が発見されています。

中でも今年発表されたケプラ-1649cという300光年先にある惑星は、

これまでで“最も地球に似た惑星”として話題になりました。

しかし、私の宇宙人の存在への期待は逆にしぼんでゆくばかりでした。

地球の“偶然”は、例えるなら宝くじに連続して100回当たるよりも

もっと稀なことではないだろうかと思うほど奇跡的なのです。

 

以上が地球そのものの”偶然“に関する話ですが、

自分自身や身の回りの事象も、実は”偶然“が満ち溢れています。

自分が誕生するに至った経緯ひとつをとっても、何かがほんの少しでも

違っていたら-極端な話、隣の精子が先に到達していたら-私とは

違った人物が生まれています。

必然のように見えても、実は偶然であることが多いようにも思います。

たとえば、あなたが川の流れの中に、

何枚かの木の葉を投げ入れたとしましょう。

それらの木の葉は、おそらく、ひとつとして同じ経過を辿らない。

同じ親から生まれた兄弟、一卵性双生児でさえも、

その生涯は全く別のものになるのがむしろ普通です。

その道筋に変化をもたらす原因の主たるものは”偶然“です。

 

話を最初に戻しましょう。

果たして神は存在するのかという命題です。

もし、神が存在して、この世のすべてを創り給うたものだとすれば、

神は何のために人間を造ったのでしょうか。

人間が他の生物とあまりにも隔たりがあることを考慮すると、

それはおそらく、人間にしかできないことをさせるためと考えても

よさそうです。

それは一体何でしょうか・・・。 私はそれを

”神は自分を崇めるものたちを欲した“ と想像します。

勿論、人間にしかできないことはその他にもたくさんありますが、

しかしそれらは-例えば文明の発達といったものは-神の期待とは

無関係であったのではないでしょうか。

むしろそれらの中には、“神にとって苦々しいこと“が数多く

含まれているのかもしれません。

さて、神は人を裁き、最後の審判を下すのでしょうか。

善人を救い悪人を追放するのでしょうか。

私はそうは思いません。

法はもとより、正邪、善悪の規範は、いわば人間が神を忖度して

つくりあげたものです。そのようなものに、

神が影響されるはずはありません。

人が働かないミツバチをつまみ出さないのと同じです。

では、神は何をするのでしょうか。

それは人間に出来ないことでなければなりません。

それがこれまでに述べてきたこと、つまり”偶然“です。

“偶然は神の必然”であり、

偶然を支配する存在を私たちは“神”と呼んでいる。

それが私の宗教観です。

                        2020.06.26