樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

コロナを遺産にできるか(J-17)

日本のコロナ汚染が始まって約3.5か月、

ようやく、まともな議論が始まったような気がしている。

具体的には次の3点だ。

  1. 「死亡数」を評価尺度に取り上げるようになったこと。

 これまでメディアは、PCR検査数が少なすぎること

 に焦点を合わせて、日本の対応の拙さを非難してきた。

 しかし、あくまでも検査は手段であって結果ではない。

 正しい尺度は、「人口比で表した死亡数」なのである。

 さらに言えば、

 コロナに限定するのではなく、

 あらゆる原因による死亡者数が平年比でどうなったか

 の問題であり、言い換えれば、

 日本人の平均寿命にどう影響したかの問題だ。

 各国の対応は様々だが、すべてが終息してからでないと

 本当の評価はできない。

 

2.歴史的な視点で語られるようになったこと

  ウィルスは人類よりも前から存在していたらしいが、

 その姿を確認できたのは、わずか80数年前の1933年だ。

 最大の犠牲者が発生したのは、いわゆる「スペイン風邪」である。

 実のところは、アメリカからヨーロッパに拡大したものだが、

 当時は第一次世界大戦中で、各国が感染の実態を秘密にしたので、

 中立国のスペインに悪名がつくことになった。

 のちにA型インフルエンザH1N1亜型と分類されたが、

 世界中で2500万人以上の死者を出し、39万人の日本人が死んだ。

 この時は、ウィルスが変異して強毒化し、

 それが第二波として襲来したことによる被害が大きかった。

 しかし、100年が経過して、その時の教訓が生かされているとは

 言い難い。

 「密集を避け、手を洗い、マスクをする」

 は当時と同じ対策でしかない。

 今回のコロナ対応で自画自賛しているのは韓国だが、それよりも

 数倍見事な結果を出しているのは、香港、台湾、ベトナムである。

 元防衛大学校長の五百旗頭真先生は、

 これら三者に共通した特徴として、

 “中国の動きを常に注視していること” そして、

 “02年のSARSに苦しんだこと”

 を挙げている。(毎日新聞の特集記事5.4)

 私流に言い換えれば、

 「中国の言うことを鵜呑みにしないこと」

 「有事への切り替えが迅速にできること」

 と少々品のない言い方になる。

 いずれにせよ、

 習近平来訪とオリンピックに惑わされた初動対応と、

 既に離陸している韓国機を追い返したベトナムにほど遠い

 「有事感覚のなさ」は、反省材料として残る。

 

3.トータルな議論が増えてきたこと

 出口戦略もその一つであるが、経済・社会活動なども含めた

 総合的な議論がなされるようになってきた。

 専門家会議も、今後は医療以外の専門家を交えて

 総合的な判断をすべきであるとの見解を示している。

 世界規模で拡散するパンデミックは、世界規模で収束させるしかない。

 色眼鏡を外して世界を眺め、メンツを捨てて他人(国や行政府)の

 行動を参考にしなければならない。

 危機を脱出した者は、遅れているものを助けなければならない。

 

五百旗頭先生は、今後の事態を左右する主な要因として

次の二つを挙げている。

  1. スペイン風邪のような強毒化したウィルスの第二波があるか
  2. 医学の進歩があるか

 

たしかにその通りなのだが、

今回のパンデミックによって、日本の“弱点”が明らかになった

ことも事実である。

この貴重な経験を”遺産“に出来るかどうかは、その弱点を改善

出来るかどうかにかかっている。

いうまでもなく、そのカギは「憲法」にある。

基本的人権」は憲法の「柱」ともいうべき重要な概念であるが、

「人権」という名で、実は「特権」を拡大してきた面があり、

 国民大多数の生命財産を守ってきたとは言い難い。

「有事」モードへの即応性を阻害しているのである。

それは、憲法前文において

”政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように”

と誓うことで、自分たちの罪を帳消しにした国民のツケでもある。

ところが、

コロナが変異して第二波となる危険性もある中、

残念ながら、日本の弱点解消の可能性は極めて低い。

何年か後に訪れるであろう「危機」に際して、

また同じ対応しか想像出来ないことが、つらい。   

                 2020.05.06