樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

目標と手段の関係(Y-32)

 それは「目標」なのかそれとも「手段」なのか、ときに混乱が生じるこの両者の関係に

ついて、頭を整理してみたいと思います。

簡単に言えば、「目標」とはターゲットであり、「手段」とはそれを達成するため

の“手立て”ということになるでしょう。だから、この両者が混同されることなどありえ

ないことのように思われます。

しかし、個人であれ組織であれ、両者の混同はしばしば発生しています。

そして、笑うに笑えない失敗例が後を絶たないのが現実なのです。

なぜそのようなことが起きるのでしょうか。

 

はじめに、まず「目標」と「目的」の違いについて考えてみましょう。

「目的」を英語では[purpose]と言いますが、これは語源的には、前に(pur)置く

(pose)という意味で、もともと「目標」に近い概念のようです。だからaim, goal,など

は「目的」の意味にも「目標」の意味にも使われます。

「目的」を哲学的に表現すると、“意志によってその実現が欲求され、行為の目標とし

て行為を規定し、方向づけるもの“となるのだそうですが、少々分かりにくいですよ

ね。私ならこう言いたいところです。

”「目的」とは、存在あるいは行為の意味又は理由である“。もっと分かり易く言えば、

”何のためにと問われて○○のためにと答えるその○○が「目的」である”

和英辞典に次のようないい例文がありました。

生きる目的を見失う⇒lose one’s reason for living

つまり、「目的」とは「理由」なのです。「そのわけ」なのです。

一方、「目標」というのは、努力を向ける対象つまりターゲット(的)で、これには段

階があります。たとえば、オリンピックでメダルを取るという目標を掲げたならば、

その前に代表に選出されるという目標を達成しなければなりません。そうすると、予選

会や定められた標準記録を突破するという目標をクリアしなければなりません。そこに

到達する長い道のりの中で、階段を上るように、いくつかの中間目標をクリアしてゆか

なければなりません。そして、通常は「最終目標」が「目的」に一致することになりま

す。[end]が「目的」の意味を持つのはそのためでしょう。

次に、目標と手段の関係を見てみましょう。すると、それぞれの段階に設定される中間

目標は、実はその上位にある目標の手段であることに気づきます。つまり上位の目標を

達成するためになすべきこと(手段)が下位の目標として新たに設定されるわけです。

平たく言えば、「何のため」の答えが上位の目標であり、「どうやって」の答えが下位

の目標となっているわけです。

世の中には、様々な組織や団体があります。あるいは国際条約や憲法などの様々な決ま

り事があります。それらは何のためにつくられ、何を究極の目標としているのでしょう

か。ときどきそこに思いを巡らしてみることは、生きていくうえでとても大切なことの

ように思われます。

なぜなら、直面する課題と目標(中間目標)にとらわれすぎて、結果的に上位の目標に

違反するという現象が現実に起きているからです。

例えばある会社の社長が5年で利益を倍増するという目標を掲げたとします。すると社

員たちは、いろんな方策(手段)を考えます。「売り上げを伸ばす」「新商品を開発す

る」「コストダウンを徹底する」「品質を向上する」「人材を育成する」・・・・等々

いろんなプランが立てられるでしょう。すると、それぞれのプランがさらに細分化さ

れ、中にはそれが数値化されて具体的な目標として提示されます。ミスはその過程にお

いて生じます。

例えばあるグループが「コストダウン30%」という目標を掲げ、もう少しで達成できる

という状況になったとしましょう。そのグループにとっては30%という数字の圧力は強

大です。そこで、様々な不祥事が発生してしまうのです。「手抜き工事」「品質低下」

「データの改ざん」「脱税」「法令違反」・・・そういった不祥事のほとんどは、目先

の目標にとらわれて上位の目標を忘れることで起きる現象です。

そもそも、社長が掲げた「利益倍増」という目標からして、それは最終目標ではありま

せん。その上位には、「社会に貢献する」とか「会社を大きくする」とか言った上位の

目標があるはずです。「何のために」の答えが続く限り、それは最終目標ではないので

す。では会社の最終目標は何でしょうか。

それはおそらく「継続」です。会社が生き延びることです。すべての活動はその一点に

帰結すると言ってもよさそうです。

個人についても同様に、「継続(健康状態を維持する)」は究極の目標に挙げられま

すが、もう一つ「快感」という究極目標があります。

そして、やはり同じような失敗が発生するのです

例えば、ある人が「1年で10キロやせる」といった目標を掲げたとします。そして、

あと少しを達成するために無理をして体を壊すといった事例です。

では、「快感」についてはどうでしょうか。

「それが好きだから」という理由jは最強です。大谷翔平選手や棋士藤井聡太君を

突き動かしているもの正体がそれです。

「有名になりたい」「教養を身に着けたい」も他人に認められる「快感」を得るため

と言い切れるかもしれません。

そこである人が「年間1○○冊の本を読む」という目標を掲げたとします。ところが、

100冊という数値目標にとらわれすぎると、おかしなことになってしまいます。

「快感」は「幸福」にも言い換えられるように思いますが、何を幸福と感じるかは、

人それぞれでしょうから、一概に論じることは出来ません。実は、そこが人間らしさ

なのかもしれません。

では、「国家」はどうでしょうか。よく聞かされるのは、「国益の追及・最大化」で

す。そして、実際そのように行動している国家も存在しているように見えますが、それ

は最終目標ではありません。まだ「何のために」の答えがあるからです。

その答えはやはり「継続」です。それは、上位の目標「継続」を忘れた「国益追及」

は、時に過ちを犯すことがあるということを暗示しています。

個人にあっても組織においても、目標を掲げて活動する場合は、ときどき「何のため」

とその上位の目標を確認してみる必要がありそうです。

                           2021.6.15