哲学者ならずとも、誰でも
「人間ってなんだろう・・・」と考えることが、
一度や二度はあると思います。
そして、この疑問から多くの名言や格言が生まれています。
最も有名なのは、パスカルが残した言葉、
「人間は一本の葦に過ぎない。だがそれは考える葦である」
だろうと思いますが、他にも
「考える葦」にあたる部分を他の言葉に置き換えて
数々の名言(ばかりとも言えませんが)が作られてきました。
曰く、「人間とは・・・」
「道具を使う」
「火を使う」
「笑う」
「何でも食う」
「自分が死ぬことを知っている 動物である」
といった塩梅です。
私なら、「人間って何だろう?」と問われれば、
即座に、「『人間って何だろう』と考える動物じゃない?」
と答えたいところですが、相手は怒りますかね?
さて、冗談はさておき 今回は、
“人間とは話す動物である”
というNorbert. Wiener(アメリカの数学者)の言葉を
取り上げてみたいと思います。
「サイバネティックス」という新しい学問分野を開いた人です。
ネーミングが悪かったのか、あまり聞かなくなりましたが、
今はよく似た概念の「AI」に置き換えられているようにも思います。
ウィナーがこの言葉で何を言おうとしたのかを考えてみると、
単に話すということではなくて、話し合う動物、つまり
「人間とは情報交換をする動物である」
と言っているのではないでしょうか。
思えば人間は、その“情報交換”をするために、
ありとあらゆるものを “情報化” し続けてきました。
そして、とうとう”個人”までも情報化してしまいました。
私がスマホの電源を入れると、
まず渋野日向子に関するニュースが表示され、
PCでアマゾンにアクセスすれば、
私の嗜好に合った商品が現れます。
私個人がすでに情報化され、
良きにつけ、悪しきにつけ、
諸々のターゲットになるという
“気持ち悪い現実”が、もはや普通の状態となっているのです。
しかし、私に何の関心もない人や組織にとっては、
私の個人情報は何の意味もありません。
限りなくゼロに近い価値しかないのです。
つまり、あらゆる情報は、
常に受信側によって、その価値が決められるということです。
くりかえしますが、
「誰がどう言った」という問題ではなく
「誰がどう受け止めたか」の問題なのです。
受信側がその情報の価値を認めない限り、
情報交換の連鎖は起こりえません。
話は飛びますが、最後にちょっと気に留めておいてほしいことを
記しておきたいと思います。
会社や学校で外から講師を呼んだ場合などに、
感想文を書かされることがよくありますが、
これをなめてはいけません。
あなたを評価する側にとって、
その感想文は極めて価値の高い情報であるからです。
ときどき、
「結局、講師は何が言いたいのか分からなかった」
と書いたりする人がいますが、これは最低です。
“賢者は愚者が賢者から学ぶよりずっと多くを愚者から学ぶ”
-大カトー
という言葉のとおり、
その情報に価値があるかどうかを決めるのは発信側ではなく、
ひとえに受信側のあなたにあるからなのです。
2020.3.28