樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

頑張れ無観客試合 (J-7)

 

「贅沢だ!」と叱られそうだが、

一年中スポーツ中継ばかり追っかけていた身には、

辛い毎日が続いている。

とくに今年は、

MLBを含めて、プロ野球中継を楽しみにしていたので、

欲求不満が募る。

仕方なく、無観客の練習試合などを見ているのだが、

これが思いのほか楽しい。

それはまあ、“喉が渇いた時の一杯の水” 

みたいなものかと思っていたのだが、

実はそうではなかった。

気づかされたのは、今朝の毎日新聞の川柳欄である。

 

白鵬の張り手が響く無観客”

              (無断借用ごめんなさい)

 

見た瞬間に思わず頷いてしまった。

つまり、案外楽しいその訳は、「音」なのである。

 

私はずいぶん長い間、球場に足を運んでいない。

その理由のひとつに、“ゲーム中の音が聞こえない”ということがある。

それどころか、時に応援することを強いられるような雰囲気さえある。

そうなると、みんなに合わせようとして観戦どころではなくなってしまう。

もうひとつは、客席からの距離が遠すぎて、

細かいところがわからないということだ。

投手の調子や球の切れ具合といった、

素人には素人並みの楽しみがあるのだが、

球場観戦ではまず無理だ。

 

鳴り物入りの派手な応援は、元々は「都市対抗」が実質「実業団対抗」

であったことから始まっている。

おそらく、その会社なり団体なりが「宣伝」と「団結力の強化」

などを狙ってはじめたものだろうと思う。

 

私は基本的に、プロ・スポーツとアマチュア・スポーツとでは、

楽しみ方が違うと思っている。

プロ・スポーツ観戦では、選手の卓越した技術を見て感動したい。

観客の応援が選手を鼓舞し、

それがスーパープレーの呼び水になることは理解できる。

しかし、それは声援だけで十分ではないだろうか。

周りを見渡してみると、

野球とサッカー、それもほぼ日本だけがやたらと騒がしい。

それが選手間のコミュニケーションを妨害し、

エラーやケガを誘発しているケースもある。

NPB,JFAは、もう少し応援の仕方について改善すべきではないか、

無観客試合を見ながら、ふとそんなことを考えた。

                     2020.3.29