樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

”専門家”とは何者か (J-4)

我が国では、災害や危機あるいは大事故や大事件が起きるたびに、

”専門家“と称される不思議な人物(たち)が登場する。

その人(たち)は、その道のエキスパートらしいのだが、

一般大衆の前に立つことはなく、

その見解なり提言なりは行政府やメディアなどが代弁する。

 

このシステムは概ね二通りの場面で使用される。

一つは、危機的な状況にあるか又はそれが予見される場面において、

何らかの緊急対策が必須であり、しかもその対策の成否が遠からず

明らかになるといった事態に直面した場合である。

今回のコロナ騒動などがこれだ。

もうひとつは、一般大衆をある方向へと誘導しようとするときで、

環境問題や一部メディアの護憲キャンペーンなどが挙げられる。

 

どちらも、一見”専門家”に主導権があるような印象を醸し出しているが、

騙されてはいけない。

実は、”専門家”の意見を代弁しているかに見える者が

”専門家の雇い主”であって、

”専門家”は、ほぼ100%雇い主のコントロール下に置かれている。

特にメディアが “ある専門家の意見によると・・・”

と切り出した場合は要注意である。

”専門家”を選ぶことも、その意見を “編集する” ことも

実は “雇い主の思うがまま” であるからだ。

なぜこのような形が出来上がってしまったのか。

理由は簡単、双方が “結果責任から逃れられる” からである。

 

もともと正解のない問題というか、よりましな方策をとるには

どうすべきかといった課題を対象としているのだから、

地震」、「経済」を筆頭に、”専門家”の意見は、 

“はずれる” のが常である。

本当はかなり当たっているのだが、ツッコミどころ満載で、

”意地悪“な世間は、大目に見てくれない。

しかし、”専門家(たち)”が黒子に徹している限り、

その身は安全である。

雇い主もまた、”専門家の判断だから仕方がない”

と言って逃げられるというわけだ。

 

ところがごく最近になって、

この無責任システムにヒビが入るような事象が現れている。

始まりは、安倍首相がほぼ独断で“学校閉鎖”に踏み切ったときである。

これに”専門家”から不満の声が上がると、それではとばかりに、

このころから専門家が、直接メディアの前に立たされ始めた。

そして、極めて象徴的な大阪府知事の暴露事件である、

3月21日(土)ウェークアップに出演した吉村府知事は、

厚労省医政局室長一行が持参した非公開文書を公開した。

それは、府知事の経済活動再開方針に待ったをかける

“脅し” ともとれる内容だ。

そこには、シミュレーションによると感染者数が

来週(20~27日)には 586人に、

再来週(28~3日)には3,374人に、

急拡大する可能性があると書かれている。

府知事としては、これを無視するわけにはいかず、

また、方針転換するには府民への説明が必要だ。

窮余の策なのか若気の至りなのかは知らないが、

非公開文書の暴露には情状酌量の余地がある。

庶民は、文書を公開した知事よりも、

”専門家(たち)”の方に厳しい目を向けるだろう。

 

黒子ではない本来の専門家は、ありとあらゆる分野に居て、

それぞれ重要な役割を担っているのだが、

裁判官が素人に椅子を与えた裁判員制度のあたりから、

その権威は薄れつつある。

今やコメンテーターの多くは”芸人(タレント)“だ。

 

高度 情報社会が、

専門家と庶民の壁を打ち壊しているかのようにも感じられる。