樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

人は死なない (Y-2)

 

私は無神論者ではありませんが

天国だとか極楽だとかをイメージすることができません

 

阿弥陀経」には極楽の様子が詳しく述べられていて

そこはあらゆるものが金銀宝石で出来ており

美しい花が咲き

心地よい音楽が流れ

珍しい鳥たちが歌い

何の不自由もなく 何の苦しみもない

完全無欠の世界だというのですが

・・・・・・・・

「う~む ごめんなさい・・・行きたくないなあ・・」

と私は思うのです

 

1961年

人類初の宇宙飛行を体験したガガーリンの第一声は

「地球が見える、地球は青い、地球は美しい」というものでした

そのあとも宇宙飛行士の感動の多くは

宇宙そのものではなくて

“地球が奇跡の星であることの実感”であったように思います

最近は  財力に物を言わせて

愛人同伴で(?)宇宙旅行をしたいと宣言する人もいますが

仮に 無料招待を受けても

私はおそらく お断りするでしょう

この地球よりいいところなんて 私には想像できないし

ありがたいことに 私たちは

人工衛星から眺めたベストの映像を繰り返し見られる時代に生きています

 

私は思うのです

あの世とこの世の関係も 似たようなものではないのかと

 

仮にあの世が 想像を絶する極楽の地だとしても

私たちは いったい

“どの面下げて”天国へ行くのでしょうか

つまり

天国(極楽)に迎えられる私たちの年齢は 何歳くらいの自分なのでしょう

もしそれが 死んだときの年齢だとすれば そこは超超高齢社会だし

オギャーと生まれ変わったのでは もはやそれは自分自身ではありません

いずれにせよ

現世のメモリーを消去せずに天国に行き

そこで現世と同じ人物に再開するとしたら・・・・

なんだか恐ろしい世界のようにも思われます

だから 私にとって

死んだ者同士が天国で再開するというストーリーは

全く説得力を持ちえません

 

なんとなく納得できるのは

般若心経の不生不滅 不増不減という教えです

 

私が死んで火葬されるとしましょう

私を構成していた物質の多くは

水蒸気や気体となって空中に散逸し

あとは灰となって残ります

それはただ姿を変えただけにすぎず

新たに生まれたり 死滅したり

あるいは 増えたり減ったりなどしてはいない という思想です

本来この世は「無」であり「空」であり「無常」なのだという哲学です

たしかに物質的にはその通りだと思いますが

人間は 有形無形の生きた証を残します

様々なものを作り 様々な作品や言葉を残します

そのことを考えると

他の生き物とは違った何かが 人間にはあるような気がします

 

実は私は 二つの意味で “人は死なない” と思っています

 

歴史を学ぶとき

様々な作品に触れるとき

あるいは亡き人の思い出話をするとき

登場人物は私たちの中で生きています

つまり 死者は生者の記憶の中で

生前同様に生きているのです

 

もうひとつは いうまでもなく

遺伝子情報としての”つながり”です

 

私の納骨場所はすでに用意してありますが

型通りの弔いの行事は望みません

墓参りも要りません

”ソコニワタシハイナイ” のです

どこかに集まって

賑やかにやってくれればそれで充分です

もちろん

この「樗木の遺言」を読んでくれれば

それが最高の供養だと言いたいところですが

たとえそうでなくても 決して恨むことはありません