樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

新年早々の災害・事故と課題(J-136)

新年を迎え、なるべくなら明るい話題を取り上げたかったのだが、早々に生起した災害と事故が頭から離れず、しかもその報道が表面的すぎるように感じられるので、不本意ながらそのことについて述べてみたい。

 

世界情勢が厳しい中、日本は穏やかに暖かい正月を迎えた・・・かに見えた令和6年

は、いきなりの暗いニュースに包まれてしまった。元旦に起きた能登半島地震とその翌

日に起きた羽田空港での航空事故である。前者は天災であり、後者は人災であるが、こ

の二つは関連がある。機長以外の5人が死亡した海上保安庁機は地震災害の支援物資を

運ぶための運航だったのだ。

能登半島の被害は当初、地震規模(マグニチュード7.6、最大震度7)の割には小さいよ

うにも思われたが、それは情報網が遮断されていたからで、時とともに、甚大な被害の

実態が明らかになってきた。死者の数は11日現在213人に上り、今なお22の集落に

3000人以上が孤立状態にあると見られている。

今回の自然災害と事故は全くの別物かに見えるが、繰り返し発生してきたという共通点

がある。繰り返し発生するものには対策が必要であり、現状はその対策が未だ十分でな

いことを示している。

航空事故は目の前で起きており、原因を究明するための資料は揃っているものと思われ

るので、やがて全容が明らかになるはずであるが、責任問題があるので1年以上かかる

という見方もある。危機回避のチャンスは、JAL機、海保機、管制官の3者それぞれにあ

ったとする報道もあるが、JAL機に責任を問うのは少々酷な話で、むしろ炎上する機体

から乗員乗客全員(379名)の脱出を成功させたクルーは称賛されるべきである。

事故原因の第一は、離陸許可を得ていない海保機が滑走路に入ってしまったことにあ

る。大きな空港は、離陸と着陸にそれぞれ専用の滑走路が充てられているのが普通だ

が、事故が起きた羽田の「C」滑走路は、例外的に到着機と出発機双方が使用している

ので、潜在的に衝突事故の可能性を孕んでいる。

国交省は9日、

  • 出発順を伝える運用を当面見合わせる(海保機がNO.1を離陸許可と誤解した可能性があるため)
  • 滑走路誤侵入防止の注意表示画面を常時監視する担当者を配置する

という二つの緊急対策を発表した。

つまり、事故原因として、①パイロットと管制官の意思疎通における問題 ②注意表示

システムと人間の関係における問題 の二つがあると判断したわけである。

しかし、その通りであるとしても、緊急対策は完璧ではない。

柳田邦夫は「航空事故」(1975)の中で“機械やシステムの欠陥や弱点をオペレーター

の注意やマニュアルによって補おうとすると必ず破綻する”と言い残している。それ

が、様々な事故原因を分析してきた彼のいわば遺言だ。事故の多くはシステムの欠陥と

人間の欠陥が重なることによって起きる。今回の事故をもう少し掘り下げてみよう。

先ず、事故直前の状況がどうであったかというと、着陸進入態勢にあったのはJAL516

(事故機、NO.1 )とその後ろに続くJAL166((NO.2)で、出発機としては海保機

(NO.1)、デルタ航空276(NO.2)、JAL179(NO.3)が離陸準備を終えて待機してい

た。つまり、NO.1とNO.2は、この時点で空中にも地上にも存在していたわけである。

そして、地上走行と離着陸の管制は周波数が異なっており別の管制官が担当している。

(小さな空港では両者とも同じ周波数でタワーがコントロールする)

そのような状況において、次のような交信が交わされた。(要点のみ記述)

 

17:44:56 タワー  ⇒ JAL516 「着陸を許可する」

  45:01 JAL516    ⇒   タワ  -   「了解(復唱)」

  45:11 海保機  ⇒ タワー 「タワーこちらJA722 」(最初の交信)

      タワー  ⇒ 海保機  「こちらタワー、NO1.待機位置まで進め」

      海保機  ⇒ タワー  「了解(復唱)」

[  海保機がタワーに周波数を切り替えたのが45:01よりも後だとすれば、JAL機の着陸許

可を傍受できておらず、着陸機が直前に迫っていることを知らない可能性が強い]

 

  45:56 タワー  ⇒ JAL166 「NO.2着陸進入を継続せよ、出発機あり、速度を

                 160kノットまで減速せよ」

[ここまでのやりとりから判断すると、タワーは、JAL516を着陸させた後に海保機を離

陸させ、その後にJAL166を着陸させるというプランを持っていたとみられるが、海保機

はJAL516の存在を知らずに、JAL166がNO.2 であり、速度を下げるよう指示されている

のを傍受し、自分に与えられたNO.1は滑走路使用の順番と誤解したのではないか]

 

真相はやがて明らかになるが、それだけでは事故にならない。誰かが危機状態に気づけ

JAL機に着陸のやり直しをさせる手段が残されているからである。羽田を始め7つの

大きな空港には、着陸機が接近中の滑走路に別の機体が侵入するとモニター画面の機体

が赤に変わり滑走路が黄色(点滅)に代わる警報装置が配備されているという。そのシ

ステムは正常に作動しており、警告を見逃したのは確かに管制官の不注意ではある。

しかし、その責任を管制官に押し付けたところで事故は防げない。

仏教用語で言えば人間のセンサーは、眼・耳・鼻・舌・身・意(六根)であるが、無意

識の反射行動を除けば、意識しなければ“見れども見えず”で感知したことにならない。

中でも、目は最も多くの情報を取り入れるセンサーではあるが、目は視界に入らないも

のは見えないし、視界に入っていてもすべてが見えているわけではない。試しに、今読

んでいる文章で目を動かさずに読める範囲がどれだけ狭いかを確かめていただけるとよ

くわかるはずだ。そこに注意が向かなければ見えないのである。注意を引くために、色

の変化や点滅などの情報技術(認知工学)も進化してきているが、それらの表示が正常

な状況下でもしばしば発生するようなケースでは、慣れっこになってしまって、効果は

薄れてくる。人間の脳は情報処理における省力化が進化しており、それがしばしばミス

を誘発するのである。未熟は当然ミスの原因になるが、熟練した作業でもミスを犯して

しまうのが、“人間らしさ”のひとつなのだ。

だから、事故防止には人間が介入しないシステムが必要になる。たとえば、交差点や踏

切の事故は立体交差にすることで防げるし、今回の航空事故は離陸/着陸を専用の滑走

路にすれば防げる。

それが無理ならとりあえずAIに頼るしかない。かつて「交通戦争」とまで言われた自動

車事故は、近年著しく減少しており、その主役は自動化である。

幸いにもLAL機の乗客が無事であったことが、改善のエネルギーを弱めることになら

ないことを願うばかりだ。

 

さて、地震被害の方ははより深刻である。

地震には①海溝型②内陸型③火山性の三種があるが、日本ではそのいずれもが頻発す

る。地震統計でM5.5 以上の地震が最も多いのは中国であるが、面積あたりにすると日

本は中国の約13倍にもなる。人口が密集し津波被害も受けやすいことから被害はより大

きくなりやすい。さらに言えば、地形上孤立集落が発生しやすく、直後の救助支援に困

難が生じることが多い。

地震ばかりではない。台風による被害も毎年のことだ。それがいかんともしがたい日本

の宿命なのである。

大災害が起きるたびに感じるのは、被災直後における苛立たしさと無力感である。

何とかならないものかと思う。勿論被災地にも自治体組織や消防や警察がある。しかし

それらの能力は限定的であり、大災害への対処は無理としか言いようがない。第一それ

らの組織や機能そのものが被災していることが多いのだ。

ほとんどのインフラが破壊され、通信や交通網が遮断された中で、的確な救助支援活動

は困難を極める。その状況はみんなが知っている。

多くの場合、頼る先は自衛隊ということになる。法的には都道府県知事等(他に海上

安庁長官、空港長など)の要請に基づき自衛隊が“災害派遣”という名目で出動する。

ところが、自衛隊にとっては本来の任務ではないので災害派遣に特化した人員装備があ

るわけではない。さらには、自衛隊(部隊や自衛官)が市中に姿を見せることを嫌う風

潮が一部にある。

嘗ては自衛隊記念日のパレードは神宮外苑で行われていたし、市中でも制服姿をよく見

かけたものだが今ではすっかり姿を消している。都市部では通勤するのも私服で、制服

に着替えるのは職場についてからだ。笑い話にもならないが、阪神淡路大震災の時は村

山(社会党)政権で、東日本大震災の時は菅(民主党)政権であったため、自衛隊の出

動にためらいがあり、うまく活用できなかったという指摘もある。誰とは言わないが、

それは知事の中にも存在している。つい先日も陸上自衛官が集団で靖国神社を参拝した

という一件が俎上に載せられている。休暇を取り私服で行動したにもかかわらずであ

る。このような状態を改めるには、やはり憲法改正が必要である。

いつでもどこでも大規模災害発生の恐れがあるという国土にあって、災害対処機能の充

実は最も優先すべき課題の一つである。しかし、各自治体に必要十分な機能を持たせる

ことは、いかにもコスパが悪い。造ったとしても、その組織や機能そのものが被災して

使い物にならない可能性が高い。となれば、機動性を有する組織を常設するしかない。

その組織は、やはり自衛隊の一部として編成するのが最も効率的だ。離島防衛と災害支

援は似たところも多く、必要に迫られているところも共通している。3000t~5000t級

のヘリ搭載艦として、ホバークラフトや工事車両、ドローンなども搭載する。医療設備

も備えるならば感染症の水際作戦にも利用できるだろう。そのような任務に特化した船

を2~3隻装備し、横須賀、舞鶴佐世保あたりに配備しておけばよい。時と場合により

海外支援にも使う。平時における自衛隊のタスクは、ほとんどが教育訓練であるが、い

かに実践に近づけるかが課題である。災害派遣を“助っ人”から“本来任務”の一つに格上

げすれば、様々な効果を期待できるだろう。

                         2024.01.14

 

 

 

 

 

OECDのPISA結果をどう読むか(J-135)

OECDが2000年から3年毎に実施している国際学力調査がある。

正式名称は「Programme for International Student Assessment」(国際学習到達度調査)

で、多くの国で義務教育が終了する15歳を対象としている。本来なら2021年に実施さ

れ るはずの第8回目調査が新型コロナの影響で1年延期され、日本では183校の高校1年

生約6000人が参加した。参加国は一貫して増加傾向にあり、今回はOECD加盟国37か国

と44の非加盟国・地域から約69万人が参加し、その結果がこの12月5日に公表された。

これに対し、毎日新聞が早速6日の記事で大きく報道した。1面トップに加え、3面の

「CU クローズアップ」さらに12面に特集記事という力の入れようである。

調査結果については、国立教育政策研究所が詳細な分析結果を公表しており、毎日新聞

の記事はいわば毎日新聞の“読解力”を示したものともいえる。

まずは記事の内容を見てみよう。

1面のタイトルは「日本の読解力3位に躍進」で、「数学5位 上位維持 科学2位」とい

う言葉が並ぶ。そして、3面には前回(2018年)調査と比較したデータを誇らしげに

掲げている。記事はトップ20までのデータであるが、10位以下になるとあまり点差がな

くてあまり順位の意味がないので省略すると次のような表になる。

 

数学的リテラシー     読解力       科学的リテラシー

順位 前回 国・地域 得点   順位 前回 国・地域  得点  順位 前回 国・地域 得点    

 1  2   シンンガポール   575       1   2    シンガポール  5 43   1      2       シンガポール 561

  2      3      マカオ   552          2     8        アイルランド 516   2   5  日本   547

  3   5      台湾    547           3   15        日本   516         3      3       マカオ  543

  4  4   香港      540           4     9        韓国   515         4    10       台湾   537

  5   6      日本    536           5   17       台湾    515         5     7        韓国   528

  6   6      韓国    527           6    5        エストニア  511    6  4     エストニア       526

  7     8      エストニア   510     7 3     マカオ    510         7     9         香港   520

 8   11     スイス    508        8    6       カナダ    507         8     8        カナダ   515

 9   12  カナダ    497        9   13    米国     504          9    6       フィンランド  511

 10 9   オランダ   493         10   12       ニュージランド 501        10   17     オーストラリア   507

 

この表の通り、日本は3分野すべてで順位を上げている。とくに読解力においては、前

回の15位から3位に上がったということで、毎日新聞が「3位に躍進」と報じたわけであ

る。そして、好成績の背景として次の要因を挙げている。

1.07年に「全国学力テスト」を復活させ、「脱ゆとり」にも舵を切ったことで、読解 

     力は06年の15位から09年の8位、12年4位と回復した。しかし、18年にはスマホ

     SNSの 普及に伴う読書量の減少のためか再び15位に転落した。

    この状況を踏まえ、文科省は「アクティブラーニング」を重視した学習指導要領を21

 年度から実施し、今回その成果が表れた。

2.日本は新型コロナの影響を最小限にとどめることができた

3.学校におけるICT環境の整備が進み生徒が機器の使用に慣れてきた

4.大学入学「共通テスト」や高校入試でもPISA型の問題が多くなった

3,4項については、異論はないのだが、1,2についてはどうだろうか。

少々面倒な作業になるが、第1回(2000年)からの得点と順位を並べてみよう。

       < PISAにおける日本の得点と順位の変化 >

       読解力           数学         科学

           順位           順位         順位

年度  参加国 得点 全体 OECD    得点 全体 OECD  得点  全体 OECD

2000  31   522    -    8    557     -      1            550         -         2

2003    40         498    14      12            534        6        4             548        1         1

2006    57         498    15      12            523      10        6             531        6         3

2009    65          520     8       5             529        9        4             539        5         2

2012    65          538     4       1             536        7        2             547        7         2

2015    70          516     8       6             532        5        1             538        2         1

2018    77          504    15      6             527        6        1             529        5         2

2022    81          516     3       2             536        5        1             547        2         1

           

この表で、OECD加盟国における日本の順位を見ると、日本は第1回調査からほぼトップ

クラスを維持し続けている。2003 ,2006年の読解力は”特異“な現象とみるべきであり、

また全体における順位の変動は、非加盟国・地域の影響を受けたものなので、過敏にな

る必要はない。今回不参加であった中国の「北京・上海・江蘇・浙江」が参加していれ

ば、おそらくすべての国・地域が一つ順位を下げたと思われるが、マカオや香港もトッ

プ5の常連で、こういった地域のみの参加は、いわば雑音のように全体像を曇らせてい

る。「北京グループ」の今回の不参加理由は、新型コロナの影響だそうだが、調査が行

われた時期(2022年夏頃)におけるコロナ感染者数はアメリカが1日15万人、日本が

1万~5万人程度であったのに対し、中国は数百人程度で”コロナは終結した“と宣言し

ていたくらいなので、なんだかおかしな言い訳だ。真の理由は他にあるのだろう。

OECDは、レジリエントな国として、日本、韓国、リトアニア、台湾を挙げている。

レジリエント(resilient)とは、厄災などからの回復が早い、逆境を跳ね返す力が強

い、といったような意味である。それが毎日新聞の2番目の理由、“日本はコロナの影響

を最小限にとどめた”に結び付いている。

しかし、日本の成績はそれだけでは説明できない。OECDの平均点がなべて下降してい

るのがコロナのせいだとしても、日本はコロナの影響を最小限にとどめて順位を上げた

たというよりも、得点そのものが大幅に上昇しているのである。

日本の成績上昇を分析してみると、最もレベルの高い層の割合が増え、最も低い層の割

合が減少している。これが平均点の上昇に寄与していることは間違いない。その現象が

コロナに関係しているとすれば、休校の期間において、教師と生徒が個人的に接する機

会がむしろ増加したのではないかという仮説が成立する。

日本の義務教育における懸念の一つは、日教組が行ってきた”悪平等主義“である。いわ

ゆる”お手手繋いでゴールイン“方式は、個人差のある生徒たちに一律均等の教育を行う

ことによって、レベルの高い生徒とレベルの低い生徒の双方を置き去りにしてきた。

ところが、新型コロナのせいで休校が増えると、必然的に教師は生徒と個々に接しなけ

ればならない状況が生まれた。期せずして、個々のレベルに合わせた教育が行われるこ

とになったというわけだ。本来、「平等」とはそういうことなのである。

日本の義務教育レベルは世界のトップクラスにある。勿論いいことには違いない。

しかし、それは単に“平均点が高い”ということでしかない。平均点が高い大きな理由

は、地域差が少ないからである。全国レベルでランダムにピックアップして試験をすれ

ば、人口の多い国の平均点はなかなか高くならない。人口1億人以上で3部門とも20位以

内にあるのは日本だけである。それは誇るべきことかもしれない。しかし、それでいい

というものでもない。日本人の学びに対する情熱は年を取るにつれ薄らいでゆくという

指摘もある。実際、大学のレベルとなると自慢できるものではないし、社会人になって

からの学びは貧弱だ。

近年、日本のスポーツ界が元気になったと感じている人は多いと思う。その象徴が大谷

翔平であり、翔平効果により、さらに全体がレベルアップしそうな雰囲気だ。そうなっ

た大きな要因は、先駆者たちが”憧れるのをやめて”レベルの高い環境に飛び出していっ

たからである。それは教育にも当てはまる。レベルの高いものにはレベルの高い“場”が

与えられるべきなのである。

義務教育の場においてそれを実現するのはムリだろうか。レベルに応じたクラス分けや

飛び級制度には弊害があるという考えもある。しかし今のままでも、ICTの活用などで

十分可能なのではないだろうか。そして、それは生涯教育にもつながって行く。

手段は色々ある。要は“公平”とか“平等”に対する意識の問題だと思う。

                       2023.12.17

 

 

  

靖国神社について(9)(Y-64)

ここまで。靖国神社に関する経緯や問題点などについて、長い話を続けてきましたが、

現在も問題解決の方向は定まっていません。これまでに提案された解決策は、いずれも

各方面全体からの支持を得るには至らず、今は完全に手詰まりの状態です。それらの解

決策のどこが問題なのか、それらを克服する解決策はあるのか、及ばずながらそんなお

話しをして最終回にしたいと思います。

 

<これまでにあった問題解決への提案>

靖国問題を解決しようとした試みは次の4つに集約されるかと思います。

これらの対策案はことごとく実りませんでしたが、何が問題だったのでしょうか。

<靖国神社廃止案>

この提案は、終戦直後に石橋湛山が唱えた説です。

石橋湛山は、在職わずか65日という短期間ながら第55代の総理大臣となった人で、”元

祖リベラル”といってもいいような政治家です。彼が提唱した「小日本主義」は、ある

意味理想主義的なところもあり、その思想は脈々と現在も受け継がれているようにも思

われます。

新党さきがけ」を立ち上げた武村正義などはその典型で、彼のキャッチフレーズ

“小さくともきらりと光る国”はまさに「小日本主義」を言い換えたようなものです。

“小さくてもキラリ”に該当する国といえば、スイス、イスラエルといった国がまず頭に

浮かびますが、それらの国と日本を世界の順位で比較してみましょう。

           面積    人口   GDP

    日本      61位       12位   3位 

    スイス      131         100        20

    イスラエル    148          97         29

単純に面積、人口、GDPを世界ランキングで見ればわかるように、スイスやイスラエル

は小さくとも光る国と言えるでしょうが、日本は決して小さくはありません。それどこ

ろか、結構大きな国なのです。

話があらぬ方向に発展しそうなのでこれ以上は止めますが、“靖国廃止論者”は概して“小

日本主義”の影響を受けており、“中国寄り”の傾向があるような気がします。

いずれにせよ現行法の下では、よほどの犯罪行為でもない限り、靖国神社に対し解散命

令を出すことなど不可能です。

仮に、共産党が政権を獲ればできるのかもしれませんが、それはかなり非現実的な世界

なので、靖国廃止論もまた非現実的な話としか言いようがありません。

 <A級戦犯分祀

靖国問題A級戦犯合祀から始まったのだから、A級戦犯分祀すれば解決する」とい

う単純な発想ですが、不思議なことにメディアや評論家・学者などいわゆる知識階級に

支持されている解決策です。しかしこの解決策は、更なる混乱を引き起こす可能性があ

ります。中国や韓国が靖国批判を始めたのは、A級戦犯合祀からかもしれませんが、多

くの場合「“戦争犯罪人”が祀られているからダメ」と言っているからです。A級を分祀

したら次は、B・C級をどうするのかと言い出すことは間違いありません。この案を持ち

出す勢力の狙いは、いつまでも”靖国カード“を持ち続けることにあるのではないかと疑

ってかかる必要があります。

そもそも、靖国神社側は“分祀”というのは、いわば同じものをコピーするようなものと

言っており、一体化した祭神から元の“個”を選別して取り出すことは出来ないと断言し

ていますので、この案は端から成立しないのです。

この案の補強材料として、横井正一、小野田寛郎、その他いくつかの例のように、合祀

されたが実は生きていたという事実が持ち出されることが在ります。しかし、これは単

純に、“生きている人は最初から招魂されていない”わけだから問題になりません。また

遺族側から、“合祀には反対だ、本人もそれを望んでいない”という訴えがあります。こ

れも、“本人が望んでいなければ勧請(招魂祭)に応じていない”と神社側は説明してい

ます。つまり、合祀されるか否かは神社と御霊の関係のみで決まるということを理解す

る必要があります。

靖国神社国家護持法案>

この案は、靖国神社を宗教法人から特殊法人に変え、国の管理下に置くというもので、

昭和44年(1969)、自民党がこの法案を提出しました。この年は審議未了で廃案となり

ましたが、その後も毎年提出を繰り返し、6回目の49年ようやく衆院を通過しました。

しかし、これも参議院を突破できず廃案となりました。

この法案提出は、神社本庁及び遺族会の活動に押されたものではありましたが、神社神

道以外の各宗教団体のすべてから反対され、さらには肝心の靖国神社からも反対されて

いるので、仮に国会を通過したとしてもその実行には困難が予想されます。

<国立追悼施設の設置>

この案を最初に言いだしたのは、昭和49年(1974)に財団法人(現在は公益財団法人)

として設立された「協和協会」ではないかと思います。初代会長は岸信介でした。現在

は会長不在で、清原淳平(北村昌之)氏が代表理事となっていますが、活動の実態はほ

とんどないものと思われます。協和協会の案は、靖国はそのまま存続させながら新たに

追悼施設を設け民間の犠牲者も含めて追悼するというものでした。

これとは別に、平成17年(2005)超党派議員連盟として「国立追悼施設を考える会」

が発足しました。自民・民主・公明等から100名を超えるメンバーが集まりましたが。

実現には至りませんでした。実はこの案には、”遺族会が反対“という致命的な欠陥があ

りました。“そんなものを造っても誰も参拝しない”というわけです。

他にも、“それは新たな「国のための死者」を受け入れる装置に過ぎない”といった反対

の声(田中伸尚)”もありました。

<靖国神社側(松平永芳宮司)の見解>

靖国神社側は、国家護持法案には断固反対、国立追悼施設には冷ややかな態度をとり続

けています。それは何故なのか、A級戦犯の合祀を断行した松平永芳宮司宮司の言葉

からその理由を探ってみましょう。

彼が宮司就任の際に心に決めたのは、“決断を要する場合は、祭神の意に沿うか沿わな

いか、遺族の心に適うかかなわないかを第一に考える”であり、次の三原則を守ること

を決心したのだそうです。

  • 日本の伝統の神道による祭式で御霊をお慰めする
  • 鳥居や神殿などの神社のたたずまいを絶対に変えない
  • 明治天皇命名された社名を変えない

そして、彼はこう述べています。

“戦前と異質な戦後の国家による国家護持では危険なので、靖国神社は国民一人一人の

「個の連帯」に基づく「国民護持・国民総氏子」で行くべきである。明治以来靖国神社

の収入のほとんどは、玉串料やお賽銭などの社頭収入であり、実質的に民営であった。

この考えに至ったのは、1985年の中曽根首相公式参拝で、首相が伝統の儀礼をことご

とく無視し、これに従わなかったときからである。“

このような方針を打ち立てた松平宮司(第6代)は平成4年に退任し、その後は概ね5年

毎の交代があって現在は山口宮司(第13代)となっています。現在の靖国神社側の考え

が当時のままであるかどうかは分かりませんが、大きくは変わっていないとすれば、こ

こに上げた四つの解決策は、何れも実現の可能性が低いものと考えざるを得ません。

では靖国問題を解決するための妙案はあるのでしょうか。

<期待できない司法決着>

昭和54年ごろ、各地方議会から「総理大臣などの靖国神社公式参拝を求める決議」が一

種のブームとなったことが在りましたが、これに岩手県から反対の声が上がりました。

政教分離を守る会」という市民グループが、「公式参拝を求める決議」に賛成した議

員ら40名を相手取り、「被告らは岩手県に対し7万1,657円(決議文の印刷費や持参の交

通費)を支払え」という訴えを起こしたのです。この訴訟の途中において、県が昭和37

年から毎年玉串料などを支出していたことがわかり、その公費の返還要求も併せて審議

されることになりました。

提訴から約8年の審議を経て、昭和62年3月、盛岡地裁の判決は何れも合憲判断がなされ

訴えは全面的に退けられました。しかし、55名の大弁護団を組織して臨んだ仙台高裁に

おける控訴審(H.3.1.10)では、同じく市民グループ側の敗訴ながら、“公式参拝憲法

20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲行為と言わなければならない”という傍論

が付けられました。これに対し、県側は直ちに上告しましたが、“全面勝訴している以

上上告の理由はない”として却下されました。これに対して県側はさらに「特別抗告」

をしましたが、「抗告の理由がない」ということで却下されました。

その後、時の首相の参拝などをめぐって「靖国関連訴訟」が何度もありましたが、いず

れもこの岩手県靖国訴訟と概ね同じような判決が繰り返されています。つまり、原告に

対する法的利益の侵害はない(被告側勝利)。尚、判決とは無関係ながら、政教分離

則に関しては違憲又はその疑いがあるというものです。そして、尚書きの部分(傍論)

を不満として被告側が上訴すると、裁判に勝っている側がとやかく言う権利はないとし

て打ち切られるのです。実は、原告側は最初からこれを狙っていて“違憲判決が下され

た”と言って、快哉を叫ぶという筋書きです。前例がこれほど積みあがった状態で、今

後司法に画期的な判断が生まれる筈もなく、司法による決着は期待できません。

<靖国神社の意義>

中国や韓国などからことあるごとに反日カードとして利用され、国内にもその存在に疑

問の声がある中で、はたして靖国神社に未来はあるのでしょうか。その存在意義はどこ

にあるのか、それが現在の我々日本人に問いかけられているわけですが、私は次のよう

な意義があると考えます。

*反省の場として

A級戦犯として裁かれた人たちの人物像を改めて個々に眺めてみると、昭和天皇に名指

しされた松岡、白鳥のように、国益優先のナショナリズムから判断を誤った人もいます

が、世界征服を夢見て”共同謀議“を重ねた人などどこにいるのでしょうか。本当の姿と

して見えてくるのは、むしろ平和主義、親米派親中派と呼ぶべき人たちが多いので

す。少なくとも、対米戦は避けようと努力していた人たちがほとんどです。それが何故

対米戦に踏み切ったのかと言えば、一つには挑発に乗せられたこともあるでしょうが、

最大の理由はやはりマスメディアと国民の圧力ではないでしょうか。中でもマスメディ

アの影響を見逃すことは出来ません。指導者たちはその空気に押されてしまったのです。

敗戦当初は、国民もそのことを感じていたと思われますが、“君たち国民は悪くない、

天皇も悪くない、悪いのはこいつらだ”というGHQプロパガンダにすっかり乗せられ

てしまいました。

何が言いたいのかと言えば、“本当に反省しなければならないのは、むしろマスメディ

アと一般国民ではないか”ということです。そして、そのことを自覚させるためにA級戦

犯を靖国に合祀する意義があるのではないかということです。「和をもって尊し」とす

る日本人の協調性は“付和雷同”しやすいという欠陥にもつながっていることを自覚しな

ければなりません。そして、マスメディアが揃って同じことを云いだしたら警戒が必要

です。現時点でマスメディアは、同じような方向を向いているようにも見えます。それ

は”要注意“の状態かもしれないのです。

*鎮守の杜として

“現在我が国の直面する国難の大半は祖国愛の欠如に起因する”

これは数学者であり人気エッセイストでもある藤原正彦の言葉です。祖国愛とは、祖国

の文化、伝統、歴史、自然などに誇りを持ち、またそれらをこよなく愛する精神をい

い、英語ではペトリオティズムといって、同じ愛国心でも国益主体のナショナリズム

は違うと述べています。

“国破れて山河在り”は、唐が滅んだ時に杜甫が詠んだ詩の一節ですが、靖国神社は東京

が焼け野原になった後も残っていました。靖国の杜(もり)は残っていたのです。

靖国神社軍国主義者などに利用された時期があったことは否定できませんが、元

来“国靖かれ”という願いが込められた神社なのです。靖国は、まさに鎮守の杜であり、

ペトリオティズムのシンボルなのです。

<現状に堪え憲法改正を目指す>

日本には、“憲法教”の信者かと思わせる人たちがいます。まるで唯一絶対神のごとく憲

法を崇拝し、「憲法が禁じる○○」、「憲法が保障する○○」といった言い方をする特

徴があります。しかし、本当は憲法が禁じているのではありません。誰が禁じているか

と言えば、その憲法が生まれた時代の多数派です。その時の国民が(そうとも言えない

ことが問題ですが)国家権力に暴走を防ぐための枠をはめたものなのです。

だから、「憲法によって禁じられている○○」というべきであり、言い換えれば「多数

派によって禁じられている○○」なのです。したがって、時代とともに或いは環境の変

化に合わせて憲法の加筆修正が必要で、たいていの国でそれが行われています。しかし

ながら、日本の憲法改正は極めて難しい条件となっているうえに、憲法の条文を戒律の

ごとく守ろうとする“憲法教”の信者たちがいるので、未だにただの一度も改正されたこ

とが在りません。世界的に見れば、これは珍しいどころか異常な状態なのです。

憲法はそれ以前の明治憲法の改正手続きに従って行われましたので、一応国家として

の継続性があると考えられますが、内容的には一種の革命です。そしてこの憲法は一度

も国民の審査を受けていません。それでも国民に支持され愛されてきました。それなり

に時代を先取りした、すぐれたところも多かったからでしょう。

ところが、元々GHQが1週間ほどで書き上げ、それをおそらく未熟な担当者が翻訳した

ものなので、前文などは気持ちの悪い日本語ですし、流石にぼろが出始めました。と同

時に、世界環境が変化したので、足りないところや辻褄が合わない箇所が多くなってい

ます。

有体に言えば、世の中が“憲法違反だらけ”になっているのです。憲法最高法規なの

で、それを糺す手段がありません。つまり憲法は死にかけているのです。

今ここで話題にしている憲法20条もすでに死んでいると言わざるを得ません。裁判所

は、この条文を靖国神社だけに適用しています、それも極めて厳密にです。外国には、

完全休暇(休暇中は代行者が務める)制度を持つ国もありますが、日本の要人は常に緊

急事態に対応しなければなりませんので、完全に私的な時間はありません。公用車、ボ

ディーガードなどを使えば公用と言われても元々純粋な私用というものがないのです。

ところが、伊勢神宮参拝や皇室行事については何も文句を言いません。国が関係する事

業で地鎮祭や起工式が行われても問題にしません。憲法7条で定められている10項目の

天皇の国事行為には、「儀式を行うこと」という項目がありますが、その儀式は神社神

道の祭式と深く関係しています。しかし、立憲君主国のなかで、宗教的な儀礼を完全に

排除している国があるでしょうか。共和国でさえ宗教的な儀礼を取り入れています。

前にも言ったと思いますが、明治憲法では神社神道を宗教の埒外に置き、国家の管理と

しました。再びその方策をとることは無理かと思いますが、20条の適用外に置くことは

可能かもしれません。私たちの感覚として、「神社神道は日本古来の習俗であって宗教

ではない」ということにさほど違和感はないと思います。

そのためには、もはや憲法を改正するしか完全解決の道はないのかもしれません。

そして外国からのクレームに対しては、”内政干渉“の一点張りではねつけるしかありま

せん。そうすれば100年もたたないうちに何も言わなくなるでしょう。

とはいうものの、肝心の憲法改正の目途は立っておらず、改正されるとしても20条が対

象となるのはそのまた先のことになるでしょう。それまでどうすればいいのか、下手な

妥協は危険です。だからそれまでは、このままの状態に耐えていくしかない、

私はそう思います。

主権は国民にあります。その総意(大多数の意思)に基づくシンボルが天皇です。天皇

の国事行為が国民の総意に基づくものと考えるならば、この矛盾を解決するには憲法

改正するしかないではありませんか。

2か月考えて情けない結論になりましたが、これで靖国問題を終わります。

                        2023.12.1

靖国神社について(8)(Y-63)

<富田メモ

富田メモ」とは、平成18年7月20日日経新聞が一面トップで「昭和天皇A級戦犯靖国

合祀に不快感」と報じる根拠となった、元宮内庁長官富田朝彦氏のメモのことです。

富田氏は平成15年に亡くなりましたが、手帳14冊、日記13冊の記録を残していました。

その資料を遺族から預かった日系の記者が、問題のメモを発見しスクープしたのです。

走り書き4枚のそのメモは、手帳の昭和63年4月28日、つまり昭和天皇最後の誕生日の前

日に当たる頁に貼り付けられていたということですが、最初に公表されたのは4枚目の

後半部分のみでした。

丁度その当時は、小泉首相靖国参拝が議論を呼んでいる最中であったこともあり、全

メディアが取り上げる騒ぎとなりましたが、メモ自体は断片的で本物かどうかを疑う声

も少なくありませんでした。やがてその前半部分が、さらには3枚目も明らかになりま

したが、これは本来公文書として扱われるべきものだとして富田家への批判も強くな

り、それ以上の情報は閉ざされてしまいました。

3枚目の頭には、63.4.28 ☆「Pressの会見」と書かれており、“昨年は”という言

葉ではじまっています。そして62年の記者会見のことや、ご自分の健康状態などに関

するご発言が記録されています。

そして問題の4枚目、いわゆる「富田メモ」と呼ばれるのがこれです。

 

 *富田メモ

  前にもあったがどうしたのだろう

  中曽根の靖国参拝もあったが

  藤尾(文相)の発言

  =奥野は藤尾と違うと思うがバ

  ランス感覚のことと思う 単純な

  復古ではないとも

 (最初に報道されたのはこのあとからの部分)

  私は或る時にA級が合祀され

  その上松岡、白取(ママ)までもが

  筑波は慎重に対処してくれたと

  聞いたが

  松平の子の今の宮司がどう考え

  たのか

  易々と

  松平は平和に強い考えがあった

  と思うのに

  親の心子知らずと思っている

  だから私あれ以来参拝していな

  い

  それが私の心だ

 

*真贋論争

 このメモについては“偽物ではないか”という意見や、本当に昭和天皇の本心なのかと

いう疑問の声も数多く上がりました。

 有力な指摘や疑問点を挙げれば、次のようなものが挙げられます。

・記者会見が行われたのは4月25日であり、そもそも怪しい。

・4月28日に記者会見しているのは、徳川侍従長なので、彼の発言ではないか。

・それまでの昭和天皇のご発言や性格とあまりにもかけ離れている。

・健康上の問題が影響している。(前年すい臓がん手術、会見から約8か月後に崩御

・富田長官が歴史に疎く誤解がある。(彼のフィルターがかかっている)

これに対し、日経新聞は「富田メモ研究委員会」を設置し、「不快感以外の解釈はあり

得ない」と結論付けました。日経新聞としては当然の主張で、委員には御厨貴、秦郁

彦、保坂正康といったまあ信頼できる識者が選ばれており、半藤一利磯田道史といっ

た人たちも”本物“と断定しているので、このメモが偽物でないことは間違いないと思わ

れます。

しかし、このメモが概ね昭和天皇のご発言に近いものであるとして、その解釈について

は、通説に対する私なりの異論があります。それは後に述べるとして、その前にメモに

書かれている事柄や人物等について調べてみましょう。

<メモの分析>

私は或る時にA級が合祀され

 合祀されたのは昭和53年10月17日で、その10日前の10月7日に上奏名簿により、宮内

庁を通じて報告が上がっているはずです。多くの資料や記事などに“秘密裏に合祀”と書

かれており、このメモの空白部分にも“全く関係者知らず”という縦書きの言葉が加えら

れていますが、それはもともと公表しないという取り決めだったのです。

松岡

 松岡洋右外務大臣は、昭和天皇が懸念されていた三国同盟を推進した人で、専門家

の間では、天皇から特に嫌われていた人物として知られています。しかし天皇は個人批

判をなさらない方なのに、専門家ほど騙されそうな事実(松岡を嫌っている様子)を潜

ませるのは、贋作づくりの常套手段ではないかと怪しがる向きもあります。松岡洋右

判決前に病死したので、厚生省からの合祀予定者名簿には入っていませんでしたが、

法務死」扱いとなっていたことから合祀名簿に加えられたのではないでしょうか。

前回述べたように、先の大戦における犠牲者の勧請(招魂)の儀式は既に“一括招魂”の

形で終えています。

*白取

 白鳥敏夫元駐伊大使のことで、単なる誤字ではなく富田元長官が“歴史音痴”だったの

ではないかという説の根拠にされています。白鳥元大使も三国同盟の推進者で、終身刑

の判決を受けましたが、受刑中に死亡しました。昭和天皇との直接の対話機会はあまり

なかったのではないかと思われます。

*筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

 筑波藤麿第5代宮司のこと。山階宮菊麿王の第3王子で東京帝大国史学科卒。昭和3年

臣籍降下が認められ筑波の姓を賜ります。昭和21年から靖国神社宮司を務め、34年BC級

戦犯を合祀、A級についてはいずれ合祀するが時期については慎重に判断するというこ

とになり、結局在任中には合祀しませんでした。つまり、合祀を決定したときの宮司

筑波宮司でありA級の合祀に反対していたわけではありません。

松平の子の今の宮司

 松平は松平慶民のこと。福井藩松平慶永の3男で1908年オックスフォード大卒。

大正元年(1912)侍従となり以降一貫して宮内省に努める。皇族や上級華族に対しても

遠慮なく発言し「昭和の殿様」「閻魔大王」と称された皇室の御意見番のような人。

今の宮司とは慶民の子松平永芳宮司のことで、海軍機関学校から海軍少佐で終戦を迎

え、戦後は陸上自衛隊に入り1等陸佐で退官します。

昭和53年筑波宮司の死去に伴い、最高裁元長官で「英霊にこたえる会」会長石田和外氏

の強い勧めで第6代宮司に就任。就任からわずか3か月後の10月17日、保留状態にあった

A級戦犯の合祀を断行しました。彼の言い分は次の通りで、”易々と”かも知れませんが

むしろ筋が通っているようにも感じられます。

国際法的に認められない東京裁判で戦犯とされ処刑された方々を、国内法によって戦

死者と同じ扱いをすると政府が公文書で通達しているから、合祀するのに何の不都合も

ない。むしろ祀らなければ、靖国神社は僭越にも祭神の人物評価を行って、祀ったり祀

らなかったりするのかとなる”

*奥野は藤尾と違うと思うが

前段に名前がある奥野は、奥野誠亮元法相のことで、このメモが書かれた直前の4月22

日、「戦後43年経ったのだから、もう占領軍の亡霊に振り回されることは止めたい」な

どと発言しました。彼は「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の初代会長でも

あります。

また、藤尾は藤尾正行元文相のことで、入閣直後に「東京裁判は勝者の裁判であり不

当」、「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任があ

る」などと発言し、中曽根首相から罷免されました。他にも、靖国神社参拝を見送った

中曽根首相を「そうしなければわかってもらえないというのは外交がいかに拙劣かを示

している」と批判するなど「放言大臣」とも呼ばれました。

*私なりの解釈

富田メモから窺える昭和天皇はそれまでのイメージを覆すものです。高齢で体調もすぐ

れなかった昭和天皇が”本音(?)“を語られたものであるとするならば、表面的に受け

取るのではなく、その真意を探らなければなりません。

次のエピソードは一つの参考事例です。

敗戦直後、日本政府は先手を打って日本側で戦犯を裁こうとしたことがあります。

そうすれば、連合国も無茶なことはしにくいだろうという作戦です。このとき昭和天皇

はどういう態度を示したのでしょうか。実はこれに反対されたのです。その理由は、

「敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠をつくしたる人々な

るに、之を天皇の名において処断するは不忍ところなる故、再考の余地はなきや」

というものでした。

政府はそれを押し切って裁判をすると決めたのですが、GHQににべもなくはねつけられ

ます。“連合国はいかなる点においても、日本と連合国を平等と見なさないことを日本

が明確に理解することを希望する、日本は文明諸国間に地位を占める権利を認められて

いない。敗北せる敵である”とまで言われ、この策は木っ端みじんに砕かれました。

他にも、昭和天皇A級戦犯と呼ばれる人たち全員に対して、”不快感“を抱かれていた

わけではないことを示すエピソードはいくつも存在します。

櫻井よしこ氏は、”あの不当な東京裁判で自らの命を差し出すことによって天皇と皇室

を守り、日本国を守ったのがA級戦犯だった。88年4月当時の昭和天皇は体調も悪く、

メモのような発言があったとしても、ご自分の真意を十分に伝えることが出来ていなか

ったのではないか“と語っています。

以上、これらの事実や意見を参考にすると、富田メモの読み方も少し変わってきます。

キーワードは、“松岡、白鳥までも”と”易々と“というご発言です。つまり、昭和天皇

は、この二人が日本の針路を誤らせる元となった三国同盟の推進者であるばかりでな

く、病死した文官なのだから靖国に祀るのはどうか、というお考えを述べられたのでは

ないかということです。

”までもが“という言葉からは、他にもあまりふさわしくない人物がいることを匂わせて

いますが、全員ではないという意味にもとれると思います。

また、合祀そのものは、筑波宮司の時代に決定している事項ですから、”易々と“という

のは、”今がその時(合祀祭を行うタイミング)ではない“という意味でしょう。

天皇靖国神社御親拝は、元来さほど頻繁ではありません。勅使を派遣するという形が

通例です。最後の御親拝は昭和50年で、それは40年に戦後20周年の節目として参拝した

例に倣い、30周年を期して行われたものです。”だからあれ以来参拝していない“という

のは、靖国神社が政治外交の争点になり、静謐な環境が失われつつあった中で、A級戦

犯合祀問題がダメ押しになったという意味ではないか、私にはそう感じられるのです。

 

色々あった末に、身動きが取れなくなった感のある靖国問題ですが、はたして解決策は

あるのでしょうか、次回はそのことについて考えてみたいと思います。おそらく、それ

が最終回になるでしょう。

                       2023.11.22

 

靖国神社について(7)(Y-62)

靖国問題とは>

靖国問題」で検索するとウィキペディアに次の6項目が挙げられています。

しかしこれらの問題は、個別に存在しているわけではなくて、結局は「憲法」と「歴史

認識」の二つに束ねることも可能であり、さらに言えばすべては「歴史認識」の問題で

あると言えそうな気もします。

となれば、もう一度「サンフランシスコ条約」に戻らねばなりません。

前回、“戦争の終結講和条約の発効による”という国際常識についてお話ししました。

従って、講和条約の締結以前に行われた連合国による軍事法廷及び刑の執行は戦争行為

の一環であるということになります。であるならば、講和条約(平和条約)とともに一

切の戦争行為が終結されなければなりません。

世界は幾度もの戦争を繰り返した末に、“講和条約によって取り決められた事柄の外

は、すべて水に流すことにする”という国際常識(慣例)をつくりあげたのです。

とはいえ、現実の講和条約にはあいまいな部分があり、その解釈や範囲をめぐる問題が

しばしば発生しています。

サンフランシスコ条約についても、とくに11条の解釈が分かれ、議論が生じています。

正文は英語、仏語、スペイン語の3種ですが、日本では英文を外務省が翻訳した次の条

文が一般的に知られています。

サンフランシスコ条約第11条

 “日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内および国外の他の連合国戦争犯罪法廷

の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を

執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる

権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定、及び日本国の勧告に基

づく場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者につい

ては、この権限は裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づ

く場合の外行使することができない。”

この条文は、主権を回復した日本政府が、拘禁されている戦犯を国際的慣例に従い釈放

することを禁ずるために設けられたものだと考えられますが、これにより日本政府は既

に死刑が執行された者を除く受刑中の戦犯に対する禁固刑等の執行を引き継ぎ、赦免、

減刑仮出獄等については関係国と協議しなければならないという義務を負わされたわ

けです。

この条文に従い、日本政府は関係国と協議のうえ、昭和33年末までにすべての戦犯の仮

出獄を認めさせ、刑期を満了させました。実はこの時、釈放を求める国民の署名活動が

あり、延べ4000万人を超える署名があつまったのだそうです。

本来ならば、“これにて一件落着”となるべきなのですが、そうはなりませんでした。

日本が「受諾」したのは、裁判の結論(刑の宣告)だけではなく判決文の全てであり、

つまり歴史認識そのものを指すのだという解釈が生まれ、そしてそれが主流となってゆ

くのです。そのカギとなるのが「Judgements」という用語です。

議論は完全に二つに分かれ、適当な言葉が見つからないので仮に右翼系/左翼系と呼ば

せていただきますが、右翼系は「Judgements」は「判決」であり裁判全体を受け入れた

のではないと言い、左翼系は判決文の中には理由などの詳細が含まれているので「裁

判」と訳すことはむしろ正しいと主張します。しかしこの論争は、正文として認められ

ている仏語・スペイン語の原文を見ればはっきりしてきます。

仏語のこの部分は、「judgements prononc」(言い渡されたジャッジメント)と書かれ

ており、スペイン語では「sentencias」(判決)と書かれているからです。この二つの正文

からみれば、「judgements」は「諸判決」と訳すべきことが分かります。

とは言え、この論争はあまり意味がないようにも思われます。そもそもこの裁判はポツ

ダム宣言が法的根拠とはいえ、マッカーサー元帥が有無を言わせず開設したもので、日

本側に受諾するか否かを対等な立場で判断する機会などなかったからです。

「Japan accepts the judgements of・・」とあるように、「受諾」は現在形で書かれて

います。事実上裁判を受け入れた(受け入れさせられた)のは過去のことですから、や

はり「裁判」と訳したのは誤訳なのではないでしょうか。

さて、東京裁判の判決が下された直後、日本側はこれをすんなりと受け入れたのでしょ

うか。実はそうではありません。弁護側からマ元帥には減刑などの訴願があり、米国最

高裁に対しても、マ元帥に米国憲法違反の疑いがある(承認を得ずに新たな罪状のある

裁判所を開設)として提訴したのです。そして、以外にもこれが受理されたのですが、

結局マ元帥は連合国の代表として行ったものであるから、米国裁判所の管轄外であると

して却下されました。

当時、国民の間に戦犯に対する同情の声が少なくなかったのは、彼らが日本(人)を代

表してその罪を背負ってくれたという意識があったからでしょう。しかし肝心の被告人

たちは国体護持のために命を捧げる決意を固めていたこともあって、運動は盛り上がら

なかったようです。

東京裁判では、昭和21年4月29日すなわち「天皇誕生日」に28名が起訴され、その全員

(公判中に死亡した2名と精神障害免訴の1名を除く)が有罪となり、いずれ次の天皇

誕生日となる予定の皇太子(平成天皇)の誕生日に7名の死刑が執行されました。

それを偶然とみるほどの”お人よし“ではありませんが、取り立てて云々するのも却って

むかつきますのでこれ以上は言いません。

日本政府が「判決文全体を受諾した」という姿勢を示したこともあり、その後は次第

に、戦前の日本は”悪“である、しかしその責任は一部の(軍国主義)指導者にあり、騙

されていた国民に罪はないといういわゆる「東京裁判史観」=「自虐史観」が国内にも

浸透してゆきました。

 

A級戦犯とは>

論者の中には、“A級戦犯の合祀から騒ぎが起きたのだから、靖国問題A級戦犯問題

であるという人もいます。それはどういうことなのでしょうか。

A級とは、米国政府の日本人戦犯に関する基本政策文書で定められた呼称で、次のよう

な類型となっています。単なる類型なので、罪の軽重とは関係ありません。

 A級:平和に対する罪  B級:通例の戦争犯罪  C級:人道に対する罪

東京裁判は、侵略戦争を主導した国家指導者を裁くという名目で開設されましt。だか

ら被告全員が「A級戦犯」と呼ばれます。(但し、松井岩根陸軍大将の訴因はBのみ)

A級の”平和に対する罪”というのはそれまで存在しなかった罪です。だから、”事後法で

裁いてはならない“という最も基本的な法の原則を破るものだとして、東京裁判そのも

のが正当性に欠けるという批判もあります。しかし、これは平時における裁判ではな

く、戦時(休戦状態)における軍事法廷なので仕方ないのかもしれません。”この裁判

は復讐と弁解と宣伝に過ぎない“と発言したO・カニンガム弁護士(大島元駐独大使担

当)のような弁護人もいましたが、直ちに解任されてしまいました。

A級戦犯容疑者の逮捕は、昭和20年9月11日の東条英機元首相とその閣僚たちを皮切りに

4次に分けて93名(?)が逮捕され、さらに翌年にも個別の逮捕や外地での逮捕もあり

総計約100名が拘束されました。そのうち28名が起訴され、公判中に死亡した2名(松岡

洋右、永野修身)と精神障害免訴となった1名(大川周明)を除く全員が有罪とされ

ました。約2年半にわたる裁判がようやく結審を迎えたのは、昭和23年(1948)11月

で、4日から判決文の朗読が始まりました。判決文は10章1,212頁の長文で、1週間はか

かるだろうと予想されたとおり、最後の刑の宣告が始まったのは、8日後の12日午後3時

55分でした。

起訴された28名の判決と死刑判決に対する判事11名の賛否、及び靖国神社合祀について

は以下の通りです。下表の中で、死刑判決に関わる各判事の賛否は公表されてはいませ

んが、投票結果については、ほぼ間違いないものと思われます。(「東京裁判」児島襄

によれば、11名の判事のうち、豪・ソ・仏・印の判事はすべて死刑反対、逆に英・中・

フィリピン・ニュージランドはすべて賛成と思われるため、結局、米、加、蘭の3国で

死刑か否かが決まる構成となっていて、広田は米、加の票で死刑となり、嶋田は逆に

米・加の反対票で死刑を免れました。同様に、木戸は米・蘭、大島、荒木は加・蘭の反

対票で終身刑となったようです。広田元首相が死刑になったのは、土肥原・板垣・広田

の3人はどうしても死刑にする必要があると頑強に中国が主張したからだと言われてい

ます。そこに松井大将の名がないのは不思議な感もしますが、おそらく松井大将は南京

事件の責任者としてB級で死刑が確定的であったからでしょう。

 *A級戦犯の判決等

                      11判事の票

  東条英機  元首相     死刑    (7:4)

  広田弘毅  元首相     死刑    (6:5)

  土肥原賢二 陸軍大将    死刑    (7:4)

  板垣征四郎 陸軍大将    死刑    (7:4)

  木村兵太郎 陸軍大将    死刑    (7:4)

  松井岩根  陸軍大将    死刑    (7:4)

  武藤章   陸軍中将    死刑    (7:4)

  平沼騏一郎 元首相     終身刑          刑期中に病死

  白鳥敏夫  元駐伊大使   終身刑          刑期中に病死

  小磯国昭  元首相     終身刑          刑期中に死亡

  梅津美治郎 陸軍大将    終身刑          刑期中に死亡

  東郷茂徳  元外相     禁固20年           刑期中に死亡

  永野修身  元帥        (判決前に病死)

  松岡洋右  元外相       (判決前に病死)

(以上14名が靖国神社に合祀されている)

  木戸幸一  元内大臣    終身刑   (5:6)  1953仮釈放

  賀屋興宣  元蔵相     終身刑             〃

  島田繁太郎 海軍大将    終身刑   (5:6)     〃

  大島浩   陸軍中将    終身刑             〃

  荒木貞夫  陸軍大将    終身刑   (5:6)     〃

  星野直樹  元国務相    終身刑             〃

  畑俊六   元帥      終身刑             〃

  南次郎   陸軍大将    終身刑      (1955獄中死)

  鈴木貞一  元企画院総裁  終身刑           1956釈放

  佐藤賢了  陸軍中将    終身刑             〃

  橋本欣五郎 陸軍大佐    終身刑          1955釈放 

  岡敬純   海軍中将    終身刑          1954釈放

  重光葵   元外相     禁固7年          1950仮釈放

 

A級というのは「平和に対する罪」で、日本の世界征服を企図して「共同謀議」を行っ

た犯罪人ということですから、全員(松井大将を除く)が訴因①の「平和に対する罪」

に該当するとされました。当初検事側は、「共同謀議」の始まりとして「田中上奏文

昭和2年に当時の田中首相が世界征服のプランを陛下に上奏したとする中国語訳の怪

文書)を証拠資料に上げようとしたようですが、偽書と分かり広田内閣の「国策の基

準」に変えました。広田元首相は、その前は岡田内閣の外相でしたが、2.26事件で岡田

首相が暗殺されたため思いがけなく首相に指名されることになりました。外相時代は、

「私の在任中に戦争は断じてない」(中国戦は事変でした)といって「協和外交を進め

ていた人物です。ただ一つ汚点があるとすれば、広田内閣の時に、陸軍及び海軍大臣

現役武官制を認めてしまったことで、それ以降軍に反対されると組閣できない状態にな

ってしまったことです。総理就任時、天皇が新総理へ要望した要件は、

“1.憲法の規定遵守 2.外交は摩擦を避ける 3.財界に急激な変動を与えない” 

であって、世界征服の気配など微塵もありません。そもそも、ここに上げられた人たち

は一堂に会したこと等一度もなく、中には話をしたこともない人が混じっているはずで

す。実際、陸軍と海軍は常時と言っていい程いがみ合っており、文官たちも交えて三つ

巴のような状態で、それが敗戦の一因でもあるわけですから「共同謀議」と聞いて被告

たちはさぞかし面食らったことでしょう。と同時に、この裁判が容易ならざるものであ

ることを覚悟したに違いありません。

被告たちもはじめの頃は、全員無罪を主張し戦う姿勢を見せていましたが、やがてその

姿勢に変化が現れてきます。「結論ありき」の裁判であることを感じ取ったのです。

それは、被告だけではありませんでした。 開廷から日も浅い5月18日、広田弘毅夫人

(静子)が「パパを楽にしてあげる方法がある」と言い残して自殺を遂げるのです。

おそらく、何回かの面会で夫の覚悟を感じ取っていたからだと思います。

また、“軍人は命令に従うのが本文である”式の自己弁護は、必ず天皇の責任問題を呼び

起こします。元々起訴さえ不当だと思われていた広田元首相や松井岩根被告が真っ先に

自己主張を止めてしまったので、他の被告たちも一部を除き、「国体護持」のために不

名誉に甘んじる姿勢に変わります。

被告たちの中で―おそらく東条・広田元首相や松井大将など-は長く獄中生活を強い

られるよりは死刑を望んでいたと思われますが、数年後に釈放されるならば勿論その方

を望んだことでしょう。1票の差はあまりにも大きな差であったと思わざるを得ません。

以上がA級戦犯のあらましですが、B・C級戦犯については、延べ5,423名が米・英・豪・

蘭・中・仏・フィリピンでの軍事法廷で裁きを受け、920名が死刑になっています。

公正な裁判が行われたとは想像しがたく、それを思うと心が痛みます。

せめてもの救いは、その人たちが靖国神社に祀られていることではないでしょうか。

しかし「A級戦犯だけは別だ、靖国合祀などとんでもない、昭和天皇だってそうおっし

ゃっているではないか」という意見があります。その主張は、いわゆる「富田メモ」の

強力なインパクトにより、いまや反論を許さぬ定説になりつつあります。

しかし、本当にそうでしょうか。

次回は富田メモA級戦犯の合祀について掘り下げてみたいと思います。

                     2023.11.15

 

 

 

靖国神社について(6)(Y-61)

<占領下の靖国

靖国神社の一郭に「招魂斎庭(跡)」という一郭があり、そこはかつて御霊を合祀する

前の「招魂祭」という儀式を行うために設けられた聖なる場所でした。元は約7000坪ほ

どの広さでしたが、今は使用されないため、そのほとんどが駐車場になっています。

合祀の手順は、この招魂斎庭の祭壇に”招魂“された御霊を「御羽車」と呼ばれる神輿で

本殿に運び、「霊璽簿」(れいじぼ)の名前を御神体である「鏡」に写しとることで完結します。

英霊の御霊は、招魂斎庭までは「人霊」であり、合祀されて「神霊」となるのです。

しかし、招魂斎庭が事実上”遺跡“扱いになっているということは、”今後の合祀予定がな

い“ということを暗示しています。自衛隊隊員の殉職(公務中における死亡)などは合

祀の対象になっていませんし、日本は戦争をしないことになっているからです。

 

昭和20年(1945)8月14日、日本は「ポツダム宣言の受諾を連合国に通知、翌15日正午

には「玉音放送」により日本の敗北と再起を期す旨を国民に伝え、9月2日に「降伏文書

に調印」して、敗戦が確定しました。この経緯から日本は8月15日を「終戦記念日」と

し、連合国の多くは9月2日を「戦勝記念日」としています。ただ、ロシア(ソ連)は、

9月2日は日本の北方領土を侵略している最中だったので、1日遅らせて9月3日(戦闘行

為は9月5日まで継続)としています。それも目立つと思ったのか、メドベージェフが

2010に9月2日に変更したことがありますが、プーチンが2020年に再び9月3日に戻し、

さらに2023年には名称を「軍国主義日本に対する勝利と第2次世界大戦終結の日」に変

更しました。ウクライナ侵攻に対する経済制裁に反発したものでしょうが、元々プーチ

ンは第2次世界大戦を終わらせたのはロシア(ソ連)であると言いたいのです。

ところが国際法的に言えば、占領下の日本は「休戦状態」であって、終戦ではありませ

ん。正式な終戦は、「講和条約」の締結をもってなされるものなのです。このことは、

よく理解しておく必要があります。つまり、占領下における種々の改革や、新たに設け

られた制度等は、日本に主権がない状態で決定されたものだということです。

日本が連合国の戦闘行為を中止してもらうために受諾したポツダム宣言は、13条に及び

ますが、原文そのものが武士道精神のかけらもないような品のない文章なので、それら

しく要約すれば次のような内容です。

“もうお前たちに勝ち目はない。これ以上の抵抗は無益である。新秩序成立までは占領

下に置き、拡大した領土は元に戻し、戦争犯罪人は厳罰に処する。日本国政府が全日本

軍の無条件降伏を宣言し、責任ある政府が樹立されれば占領軍は撤退する。以上の要求

を受け入れなければ日本は壊滅すること必定である”

ここに無条件降伏という言葉が登場します。これをもって一般に、“日本は無条件降伏

した”と言われますが、無条件は日本軍隊に対するもので、政府が消滅したドイツとは

違って、日本政府はポツダム宣言の13か条に示される条件を受け入れるという”条件付

き降伏“を受諾したわけです。いわゆる”白紙委任“ではないのです。

さて、そこで敗戦の経験を持たない政府や国民がとりあえず何をしたのか、或いは何を

しようとしたのでしょうか。上層部と心ある人たちの頭には”国体護持”があり、一般人

にとっては衣食住、とくに「食」の確保が喫緊の問題であったろうと思われます。

しかし、それよりも優先されたかのような活動が、実はあるのです。

終戦からわずか三日後の8月18日、政府は「進駐軍」(占領軍はイメージが悪いとして

こう呼んだ)向けの特殊慰安施設の設置に関する内務省通牒を発し、26日には「特殊慰

安施設協会=RAA」が設立されます。そして、早くも28日にはその一部が営業を開始す

るという恐るべきスピードで、最大時には5万人以上の売春婦を擁した巨大売春事業が

活動を始めます。

そしてもう一つが、国に命を捧げた人たちの靖国神社合祀への行動です。

靖国神社はおそらく廃止されるだろう”という憶測が流れる中で、陸海軍の関係者たち

は、靖国に祀られることを信じ、靖国で会おうと言いかわして散っていった同胞の思い

を何とか叶えたいと考えていました。そこで編み出したのが“一括招魂逐次合祀”とでも

言うべき方法です。個人が特定できていない段階で、とりあえず一括して招魂してお

き、のちに(主権を回復後)個人を特定しながら順次合祀していこうというのです。

そして急遽、昭和20年(1945)11月19~21日にかけて「臨時大招魂祭」を挙行しま

す。実に素早い動きです。この招魂祭にはGHQからも3名が参列しているようですの

で、なかなかの策士がいたものだと感心させられます。

それからわずか1か月にもならない12月15日、GHQはいわゆる神道指令(「国家神道

神社神道ニ対スル政府ノ保証・支援・保全監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)を発し、

靖国神社は国の管理を離れて一般宗教法人となります。

その後の占領期間中、名簿公示のない合祀祭がどこからも非難されることなく、数万人

単位で逐次実施されてゆきます。

食うや食わずの混乱の中で行われたこの二つの行動は、当時の日本人が何を護ろうとし

たのかを知るうえで重要なヒントを与えてくれるものではないでしょうか。

約7年間に及ぶ占領期間の中で、日本はGHQ主導の新憲法を携え、昭和27年「サンフラ

ンシスコ講和条約」によって主権を回復します。(この時ソ連は米軍の駐留が継続する

ことに反対して署名せず、未だに平和条約が結ばれていません)

 

<戦後の靖国

講和条約が発効(S.27.4.28)し主権を回復した政府は、早くも翌5月には、“戦犯は日本

の裁判で判決を受けた者と同様に扱われる”という占領下における解釈を変更し、戦犯

公民権回復を認める通牒を発します。そして翌年には、「戦傷病者戦没者遺族等援護

法」を制定し、従来の援護対象を軍人軍属以外の民間人にまで大幅に拡大します。民間

人の多くは、地上戦闘があった沖縄の住民が多く、学童疎開で移動中に潜水艦に撃沈さ

れた対馬丸事件や、ひめゆり、白梅などの学徒隊、そして渡嘉敷島などで起きたいわゆ

る「集団自決」なども「戦闘に参加した民間人」の枠内に入れられています。

余談になりますが、「集団自決」という言葉は「鉄の暴風―現地人による沖縄戦記」の

執筆者太田良博の造語です。この自決行為が軍の命令によるものとして援護法が適用さ

れ、自動的に合祀の対象にもなっているのですが、真実は真逆で援護法の適用を受ける

ために軍命令ということにしてもらったという有力証言があります。おそらくその方が

真実だろうと思われますが、非情な命令を下した人物(赤松隊長)をこれ以上ないよう

な表現で「沖縄ノート」に記した大江健三郎氏や教科書を執筆した家永三郎氏らは謝罪

も訂正もせずに逝ってしまいました。

また、同じく昭和28年の8月3日には、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」

衆院本会議に上程され全会一致で可決されます。(議長の「ご異議なしと認めます」

が全会一致の根拠であって共産党の1名は反対したという異論有)

この採決により援護法も改正され、国内外で実施された軍事裁判によって処刑された人

たちを「法務死者」と呼んで援護法の対象者に加えました。靖国神社もこれに倣い「昭

和殉難者」と呼んで合祀しています。

しかし、その対象者があまりにも多いため、昭和31年靖国神社、政府(厚生省)、自治

体の協力体制が作られます。そうして合祀は逐次進められ、昭和34年(1959)にはB,C

級戦犯の合祀予定者名簿が靖国神社に送られます。以降4次に分けて昭和42年10月まで

にB,C級984柱の合祀が完了します。この間、昭和41年には、A級戦犯についても12名

(判決前に病死した2名を除く)の名簿が厚生省から靖国神社に送付されますが、両者

は“合祀はするが発表は控える”ことで合意します。しかし当時の筑波宮司は先延ばしに

するという処置をとりました。

実はこのころ、日本には大きな変化が起きていたのです。その要因の第一はいわゆる

GHQによる「公職追放」です。日本の政・財・言論・教育界などあらゆる階層から、述

べ20万人以上の保守的な有力者が昭和23年5月までに公職追放となります。そして、そ

れらの後継には主として左翼的な人物が充てられました。言論関係や教育界への影響は

大きく、戦前をすべて悪と見なす空気は次第に強まっていたのです。靖国神社と厚生省

の関係も当然非難の対象となり、昭和41年(1971)には、厚生省から各自治体に対し

「合祀事務強力の廃止」が通知されます。

昭和53年3月、A級戦犯の合祀には慎重な姿勢を取り続けていた元皇族の筑波藤麿宮司

急逝します。後を継いだのは松平春嶽の孫にあたる松平永芳宮司で、彼はその年の10月

17日、判決前に病死した松岡、永野を含む14名のA級戦犯を秘密裏に合祀してしまいま

す。それが測年4月に新聞報道で明らかになりますが、意外にもその時はさほど大きな

騒ぎにはなりませんでした。ところが、昭和60年(1985)8月15日、その前日に予告し

た上で当時の中曽根首相が公式参拝をすると、それまでも一貫して靖国を批判してきた

朝日新聞が、ここぞとばかりに大きく取り上げ、“中国が厳しい目で見つめている”と報

じました。すると中国がこれに呼応したかのように激しく反発し、韓国も同調して外交

問題に発展してしまいます。中曽根首相はどのような形式にすれば憲法20条の「信教の

自由」に抵触しないかを十分吟味し、神道の参拝儀礼に従わず宮司のお祓いも受けませ

んでしたが、それはいわば国内対策で、まさかこれまで何も言わなかった中・韓がそれ

ほど反発するとは予想していなかっただろうと思われます。参拝儀礼に従わなかったこ

とは国内的にも批判を浴び、中国では国民が沸騰して中曽根首相と信頼関係が深かった

胡耀邦主席の立場まで脅かされかねない事態になると、中曽根首相は以降の参拝を止め

てしまいました。

こうして、一大決心の末に決行した中曽根首相の“予告付き公式参拝”大作戦は失敗にお

わるとともに、いわゆる“靖国問題”がここから始まります。

ということで、次回は「靖国問題」についてお話しします。

                        2023.11.7

                     

 

 

 

 

靖国神社について(5)(Y-60)

靖国神社に祀られる英霊>

靖国神社に祀られている英霊の総数はなんと246万6千余柱にも上ります。

「英霊」という呼び名になったのは日露戦争の後からで、それ以前は「忠霊」或いは

「忠魂」と呼ばれていました。靖国神社の前身である東京招魂社創立の趣旨には、将来

における殉国者も対象とすることが決められていましたが、その当時、これほどの犠牲

者が積みあがるとはだれも想像していなかったでしょう。約80年の間に何があったの

か、英霊たちの歴史をたどりながら考えてみたいと思います。

まずは、 以下に事件ごとの英霊者数 を示します。              

                   事件等        英霊

     ・戊辰戦争明治維新    7751 柱

     ・西南戦争         6971

     *台湾出兵         1130

     *江華島事件          2

     *壬午事変(壬午軍乱)    14

     *京城事件(甲申政変)     6

     ・日清戦争         13,619

     *義和団事件        1.256

     ・日露戦争         88,429

     ・第1次世界大戦      4,850

     *青山里戦闘          11

     *中村大尉事件他        19

     ・満州事変          17,176

     ・支那事変         191,250

     ・大東亜戦争        2,133,915

この表の通り、大東亜戦争の犠牲者が全体の約86%を占め、その詳細も複雑なので別途

項を改めて取り上げることにしますが、あまり馴染みのない事件も歴史的に重要な意味

があると思われますので、簡単に説明しておきたいと思います。

明治維新

明治維新とあるのはいわゆる幕末の志士たちのことで、「維新殉難者」として、吉田

 松陰、坂本龍馬高杉晋作中岡慎太郎武市半平太、橋本佐内、大村益次郎、久坂

 玄瑞が 祀られています。この中で、禁門の変で自決した久坂玄瑞は賊軍の立場であ

 りながら祀ら れています。一方、西南の役西郷隆盛は、当然のごとく対象外とな

 っています。この事は、招魂社創立を主導したのが長州出身者であることを示唆して

 います。もう一つ付け加えると、西南の役からわずか3年後には、西郷隆盛を祀る南

 洲神社が建てられ今に続いているという事実に日本人の宗教観の一端がうかがえるか

 と思います。

台湾出兵

 1871年(M4)、台風に遭い台湾に漂着した宮古島八重山島民66名の内54名が先住

 民(パイワン族)に殺害されるという事件が発生しました。当時の沖縄は琉球王国

 いって薩摩藩と中国(清)の両者に臣従するという中途半端な状態にありましたが、

 明治新政府は自国民が被害に遭ったとして清に責任と賠償を求めました。ところが清

 は、化外(管轄外)の地であるとして責任を回避しようとします。そこで日本は”懲

 罰”の要ありとして軍隊を派遣します。軍人軍属併せて5900人余の大軍を、通告なし

 に派兵するという暴挙とも問われかねない措置ですが、結果的に清は見舞金(現在の

 価値で150億円)を支払うことになりました。実はそれよりも大きな成果として、琉

 球は日本領として認められることになり、やがて沖縄県となって行くのです。

 またこの時の兵員輸送において、当初政府は英米の船会社に委託しようとしましたが

 拒否され、急遽大型船を購入します。そして国有の「日本国郵便蒸気船会社」に運航

 させようとしましたがこれも拒否され、最後に「郵便汽船三菱会社」が引き受けるこ

 とになりまし。これで一気に三菱のシェアが拡大し、日本郵便の方は解散することに

 なりました。

 

江華島事件

 1875年(M8)、朝鮮の開国を迫る日本が「朝鮮西岸から清国に至る海路研究」と称

 して 軍艦2隻を派遣し示威行動を展開中、そのうちの一隻「雲揚」が「江華島

 台」と交戦した事件のことです。いわばアメリカがペリー艦隊を日本に派遣した「黒

 船効果」を踏襲したもので、「日朝修好条規」締結の契機となりました。

 

壬午事変(壬午軍乱)

 朝鮮王朝の閔氏政権(王妃である閔妃の一族が実権を握っていた)は、日本の支援を

 得て新式軍隊(別枝軍)を組織するなどの改革を進めていましたが、旧来の兵士たち

 には給与が長期にわたり滞るといった状態が放置され、不満が募っていました。そし

 て1882年7月、13か月ぶりに支給された俸禄米は腐っていたり砂が混じっていたりし

 たために、不満は爆発して暴動に発展しました。反乱軍は閔氏政権と対立していた国

 王の父大院君を頼り、その指示により日本公使館を焼き討ちし、王宮に押し入って高

 官たちを殺害しました。追い詰められた国王高宗はやむなく政権を大院君にゆだねる

 ことを宣言しました。ところが、この事件は大院君の陰謀であり、これを放置すれば

 日本が介入してくる恐れがあると清国政府に訴えたものがあり、それはまずいと清は

 軍隊を出動して大院君を捉え、難を逃れて生き延びていた閔妃を復帰させました。

 日本は復活した閔氏政権と交渉し「済物浦(現仁川)条約」を結び、賠償金と日本軍

 の駐留を認めさせましたが、清はより強力な不平等条約を締結して朝鮮を属国化しま

 した。

*甲申政変。

 壬午軍乱後の閔氏政権は、保守派の大院君派を排除して開化派と結ぶことになります

 が、開化派の中は日本と結んで清の宗主権からの独立を目指す急進的一派と、清と妥

 協しな がら政治を行おうとする穏健派に分かれていました。しかし、次第に清の影

 響力が強 くなり、急進開化派は焦り始めます。そして遂に金玉均・朴泳孝をリーダ

 ーとする独立党(日本党)がクーデターを決行します。この時日本は在留の1個中隊

 が竹添公使の命により(?)独立党を支援しクーデターは成功しますが、またも清軍

 が介入し少数の日本軍は撤退、金玉均は日本に亡命して開化派政権はわずか三日で崩

 壊します。日本の福沢諭吉は以前から金玉均らを応援していたので韓国では嫌われ者

 になっています。(1万円札の肖像に使用されたとき反対されましたが、来年発行予

 定の渋沢栄一も反対されていますね)

 このクーデター失敗により、宗主国としての清の力は一層強くなりましたが、事後処

 理的に日本と清の間に結ばれた「天津条約」ではほぼ対等の条件となっています。そ

 の中には、「朝鮮軍の訓練には日清両国が共に当たること」といった、新たな火種を

 生みそうな条項も含まれています。

義和団事件(北清事変)

 何だかわかりにくい事件ですが、広辞苑ではこのような記述になっています。

 “日清戦争後の1899年、キリスト教及び列国の中国侵略に反抗、山東省で蜂起。翌年

 北京に入城し各国公使館区域を包囲したため、日・英・露・独・仏・伊・墺の8か国

 は連合軍を組織してこれを鎮定。1901年に結ばれた講和に関する北京議定書により清

 朝に4億5千万両(テール)の賠償金を支払わせた。拳匪。団匪。”

 この説明では、清国政府がどのように動いたのか、そしてその後にどのような影響を

 及ぼしたのかが分かりません。

 清国政府は、「扶清滅洋」「興清滅用」をスローガンにキリスト教会などを襲撃する 

 この集団の鎮圧にはあまり熱心ではありませんでしたが、次第に大きくなってきたた

 め山東省に軍を派遣しましたが時すでに遅く、燎原の火のごとく暴動は拡大して遂に

 北京に迫り、同地の公使館区域を包囲する事態に発展します。そこで清国政府がどう

 したかというと、なんと義和団側について各国に宣戦布告したのです。その事態につ

 いて渡部昇一は”最初からグルだった“と断定していますが、驚いた各国は軍隊を派遣

 し”内乱“は”戦争“の様相に発展しました。その意味では日本での呼称「北清事変」の

 方が適切な呼び名かもしれません。”狂気の沙汰“とも言われる「宣戦布告」の要因に

 ついてははいくつかの説がありますが、積もり積もった列強への恨みに加え、列強が

 西太后の引退を求める文書の存在が決め手になったと言われています。しかし、その

 文書は”偽物“であったことが分かっています。

 8か国連合軍の総勢は約2万人で清と義和団の10分の1に満たない程でしたが、装備は 

 圧倒的で、苦も無く北京を占領してしまいます。西太后は庶民に変装して紫禁城を脱

 出し、甥の光緒帝を連れて西安に逃れました。北京が陥落すると清朝の態度はまたも

 180度変わり、義和団を「拳匪」あるいは「団匪」と呼び反乱軍と認定しました。

 これによって義和団のスローガンは、「扶清滅洋」から「掃清滅洋」に代わり、民衆

 の心も離れて清は弱体化してゆきます。

 また、日本に次いで兵力を派遣したロシアは、事変に乗じて東三省(満州)を占領し

 日露戦争の火種を残します。その逆に日本軍の規律正しさや、控えめな賠償金の要求

 などがイギリスに好感され、「日英同盟」への道が開かれます。

 ここに、朝鮮の壬午事変・甲申政変から中国の義和団の乱、そして清が崩壊する辛亥

 革命にかけて、権謀術数を駆使しながら遂にトップにのし上がった一人の人物がいま

 す。初代中華民国大統領にになった袁世凱です。

 彼は河南省の生まれですから「漢人」です。科挙の試験に合格できず軍人となり、朝

 鮮に派遣されます。そこで閔妃の要請を受け壬午事変・甲申政変で手腕を発揮し、朝 

 鮮内で強力な権力を持つ存在になります。その後、1894年「甲午農民戦争(東学の

 乱)」をき っかけに始まった日清戦争で清は大敗を喫し、袁世凱は軍の近代化に力

 をつくし成果を挙げます。そして、1898年光緒帝を中心とする変法派に身を置きなが

 らこれを裏切って西太后に密告し、クーデターを未然に防いで太后の信頼を得ます。

 ところが、間もなく始まった義和団の乱では終始義和団のみと闘い、連合軍と闘った

 他の部隊が壊滅した中で、彼の部隊だけはほぼ無傷状態で残ります。1904年の日露戦

 争では、清は表面上中立でしたが、袁世凱は日本に協力します。

 しかし、1908年に光緒帝が崩御し、その翌日に西太后も病没すると、袁世凱の立場は

 一変します。即位した宣統帝はわずか2歳で、その父が摂政となりますが、袁世凱

 裏切られた光緒帝の弟である彼はここで恨みを晴らし、袁世凱はすべての職を解かれ

失脚します。ところが1911年辛亥革命が勃発すると、これを鎮圧できるのは袁世凱しか

いないということで再び呼び戻されます。しかし、袁は部下を鎮圧に向かわせながら自

らは革命派と通じ、又も寝返るのです。そして中華民国臨時政府の大統領に収まり、清

は滅亡します。1914年第1次世界大戦が勃発すると中国は中立を宣言しますが、ドイツ

が敗れるとそれまでドイツが持っていた利権を奪うべく日本が「対華か21ケ条要求」を

突き付けます。これを吞んだために(実際は丸呑みしたわけではなく、13か条に削った

上に日本のイメージダウンにもある程度成功したのですが)袁は現在でも「漢奸」と呼

ばれる悪役です。

その袁世凱が現在の中国でネット検索の規制対象になっているという話があります。

それは習近平袁世凱になぞらえる説があるからだそうですが、そこまで気にしなけれ

ばならないとは習近平体制も盤石ではないということなのでしょうか。

 

*青山里戦闘

 1920年満州の青山里付近で日本軍と朝鮮人独立運動武装組織及び中国人の馬賊

 の間で勃発した戦闘を指します。日本側の戦死は11となっていますが、韓国の資料で

 は、年を追うごとに増加し、1975年には連隊長以下死傷3,300人となっているそうで

 す。実際は加納連隊長は1922年まで連隊長を務めているので、でたらめなのですが、

 こ れも建国神話の一つなのでしょうか。

 

*中村大尉事件

 1931年6月、陸軍参謀中村大尉他3名が軍用地誌調査のため農業技師と身分を詐称して

調査旅行中張学良配下に殺害された事件。中村大尉以下が「護照」(日本が発行した身

分証明)を提示したにもかかわらず、裁判もなしに殺害されたことが8月に報道される

と日本国内は沸騰し、9月には満州事変へと発展してゆきます。

 

このように、靖国神社に祀られる英霊たちの歴史をたどってみると、日清・日露戦争

いった大きな戦争はもとより、その前後に起きた事件のほぼすべてが対中・露・朝(

韓)との関係で生じたものです。そしてその関係は、中国の中華思想と、それに反発す

る日本と、隙あらば南に勢力を伸ばそうとするロシアと、それらの間に在ってどちらに

付こうかと揺れ動く朝鮮という図式に変わりはありません。一帯一路は姿を変えた中華

思想と見ることもできます。長い歴史の中で、一度たりと真の同盟を結んだことがない

これら4か国の、真の友好関係を結ぶのは夢物語なのかもしれません。

 

大東亜戦争の犠牲者はあまりにも多く、また合祀基準にも変化がありますので次回取り

上げることとします。

                         2023.10.31