樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

靖国神社について(5)(Y-60)

靖国神社に祀られる英霊>

靖国神社に祀られている英霊の総数はなんと246万6千余柱にも上ります。

「英霊」という呼び名になったのは日露戦争の後からで、それ以前は「忠霊」或いは

「忠魂」と呼ばれていました。靖国神社の前身である東京招魂社創立の趣旨には、将来

における殉国者も対象とすることが決められていましたが、その当時、これほどの犠牲

者が積みあがるとはだれも想像していなかったでしょう。約80年の間に何があったの

か、英霊たちの歴史をたどりながら考えてみたいと思います。

まずは、 以下に事件ごとの英霊者数 を示します。              

                   事件等        英霊

     ・戊辰戦争明治維新    7751 柱

     ・西南戦争         6971

     *台湾出兵         1130

     *江華島事件          2

     *壬午事変(壬午軍乱)    14

     *京城事件(甲申政変)     6

     ・日清戦争         13,619

     *義和団事件        1.256

     ・日露戦争         88,429

     ・第1次世界大戦      4,850

     *青山里戦闘          11

     *中村大尉事件他        19

     ・満州事変          17,176

     ・支那事変         191,250

     ・大東亜戦争        2,133,915

この表の通り、大東亜戦争の犠牲者が全体の約86%を占め、その詳細も複雑なので別途

項を改めて取り上げることにしますが、あまり馴染みのない事件も歴史的に重要な意味

があると思われますので、簡単に説明しておきたいと思います。

明治維新

明治維新とあるのはいわゆる幕末の志士たちのことで、「維新殉難者」として、吉田

 松陰、坂本龍馬高杉晋作中岡慎太郎武市半平太、橋本佐内、大村益次郎、久坂

 玄瑞が 祀られています。この中で、禁門の変で自決した久坂玄瑞は賊軍の立場であ

 りながら祀ら れています。一方、西南の役西郷隆盛は、当然のごとく対象外とな

 っています。この事は、招魂社創立を主導したのが長州出身者であることを示唆して

 います。もう一つ付け加えると、西南の役からわずか3年後には、西郷隆盛を祀る南

 洲神社が建てられ今に続いているという事実に日本人の宗教観の一端がうかがえるか

 と思います。

台湾出兵

 1871年(M4)、台風に遭い台湾に漂着した宮古島八重山島民66名の内54名が先住

 民(パイワン族)に殺害されるという事件が発生しました。当時の沖縄は琉球王国

 いって薩摩藩と中国(清)の両者に臣従するという中途半端な状態にありましたが、

 明治新政府は自国民が被害に遭ったとして清に責任と賠償を求めました。ところが清

 は、化外(管轄外)の地であるとして責任を回避しようとします。そこで日本は”懲

 罰”の要ありとして軍隊を派遣します。軍人軍属併せて5900人余の大軍を、通告なし

 に派兵するという暴挙とも問われかねない措置ですが、結果的に清は見舞金(現在の

 価値で150億円)を支払うことになりました。実はそれよりも大きな成果として、琉

 球は日本領として認められることになり、やがて沖縄県となって行くのです。

 またこの時の兵員輸送において、当初政府は英米の船会社に委託しようとしましたが

 拒否され、急遽大型船を購入します。そして国有の「日本国郵便蒸気船会社」に運航

 させようとしましたがこれも拒否され、最後に「郵便汽船三菱会社」が引き受けるこ

 とになりまし。これで一気に三菱のシェアが拡大し、日本郵便の方は解散することに

 なりました。

 

江華島事件

 1875年(M8)、朝鮮の開国を迫る日本が「朝鮮西岸から清国に至る海路研究」と称

 して 軍艦2隻を派遣し示威行動を展開中、そのうちの一隻「雲揚」が「江華島

 台」と交戦した事件のことです。いわばアメリカがペリー艦隊を日本に派遣した「黒

 船効果」を踏襲したもので、「日朝修好条規」締結の契機となりました。

 

壬午事変(壬午軍乱)

 朝鮮王朝の閔氏政権(王妃である閔妃の一族が実権を握っていた)は、日本の支援を

 得て新式軍隊(別枝軍)を組織するなどの改革を進めていましたが、旧来の兵士たち

 には給与が長期にわたり滞るといった状態が放置され、不満が募っていました。そし

 て1882年7月、13か月ぶりに支給された俸禄米は腐っていたり砂が混じっていたりし

 たために、不満は爆発して暴動に発展しました。反乱軍は閔氏政権と対立していた国

 王の父大院君を頼り、その指示により日本公使館を焼き討ちし、王宮に押し入って高

 官たちを殺害しました。追い詰められた国王高宗はやむなく政権を大院君にゆだねる

 ことを宣言しました。ところが、この事件は大院君の陰謀であり、これを放置すれば

 日本が介入してくる恐れがあると清国政府に訴えたものがあり、それはまずいと清は

 軍隊を出動して大院君を捉え、難を逃れて生き延びていた閔妃を復帰させました。

 日本は復活した閔氏政権と交渉し「済物浦(現仁川)条約」を結び、賠償金と日本軍

 の駐留を認めさせましたが、清はより強力な不平等条約を締結して朝鮮を属国化しま

 した。

*甲申政変。

 壬午軍乱後の閔氏政権は、保守派の大院君派を排除して開化派と結ぶことになります

 が、開化派の中は日本と結んで清の宗主権からの独立を目指す急進的一派と、清と妥

 協しな がら政治を行おうとする穏健派に分かれていました。しかし、次第に清の影

 響力が強 くなり、急進開化派は焦り始めます。そして遂に金玉均・朴泳孝をリーダ

 ーとする独立党(日本党)がクーデターを決行します。この時日本は在留の1個中隊

 が竹添公使の命により(?)独立党を支援しクーデターは成功しますが、またも清軍

 が介入し少数の日本軍は撤退、金玉均は日本に亡命して開化派政権はわずか三日で崩

 壊します。日本の福沢諭吉は以前から金玉均らを応援していたので韓国では嫌われ者

 になっています。(1万円札の肖像に使用されたとき反対されましたが、来年発行予

 定の渋沢栄一も反対されていますね)

 このクーデター失敗により、宗主国としての清の力は一層強くなりましたが、事後処

 理的に日本と清の間に結ばれた「天津条約」ではほぼ対等の条件となっています。そ

 の中には、「朝鮮軍の訓練には日清両国が共に当たること」といった、新たな火種を

 生みそうな条項も含まれています。

義和団事件(北清事変)

 何だかわかりにくい事件ですが、広辞苑ではこのような記述になっています。

 “日清戦争後の1899年、キリスト教及び列国の中国侵略に反抗、山東省で蜂起。翌年

 北京に入城し各国公使館区域を包囲したため、日・英・露・独・仏・伊・墺の8か国

 は連合軍を組織してこれを鎮定。1901年に結ばれた講和に関する北京議定書により清

 朝に4億5千万両(テール)の賠償金を支払わせた。拳匪。団匪。”

 この説明では、清国政府がどのように動いたのか、そしてその後にどのような影響を

 及ぼしたのかが分かりません。

 清国政府は、「扶清滅洋」「興清滅用」をスローガンにキリスト教会などを襲撃する 

 この集団の鎮圧にはあまり熱心ではありませんでしたが、次第に大きくなってきたた

 め山東省に軍を派遣しましたが時すでに遅く、燎原の火のごとく暴動は拡大して遂に

 北京に迫り、同地の公使館区域を包囲する事態に発展します。そこで清国政府がどう

 したかというと、なんと義和団側について各国に宣戦布告したのです。その事態につ

 いて渡部昇一は”最初からグルだった“と断定していますが、驚いた各国は軍隊を派遣

 し”内乱“は”戦争“の様相に発展しました。その意味では日本での呼称「北清事変」の

 方が適切な呼び名かもしれません。”狂気の沙汰“とも言われる「宣戦布告」の要因に

 ついてははいくつかの説がありますが、積もり積もった列強への恨みに加え、列強が

 西太后の引退を求める文書の存在が決め手になったと言われています。しかし、その

 文書は”偽物“であったことが分かっています。

 8か国連合軍の総勢は約2万人で清と義和団の10分の1に満たない程でしたが、装備は 

 圧倒的で、苦も無く北京を占領してしまいます。西太后は庶民に変装して紫禁城を脱

 出し、甥の光緒帝を連れて西安に逃れました。北京が陥落すると清朝の態度はまたも

 180度変わり、義和団を「拳匪」あるいは「団匪」と呼び反乱軍と認定しました。

 これによって義和団のスローガンは、「扶清滅洋」から「掃清滅洋」に代わり、民衆

 の心も離れて清は弱体化してゆきます。

 また、日本に次いで兵力を派遣したロシアは、事変に乗じて東三省(満州)を占領し

 日露戦争の火種を残します。その逆に日本軍の規律正しさや、控えめな賠償金の要求

 などがイギリスに好感され、「日英同盟」への道が開かれます。

 ここに、朝鮮の壬午事変・甲申政変から中国の義和団の乱、そして清が崩壊する辛亥

 革命にかけて、権謀術数を駆使しながら遂にトップにのし上がった一人の人物がいま

 す。初代中華民国大統領にになった袁世凱です。

 彼は河南省の生まれですから「漢人」です。科挙の試験に合格できず軍人となり、朝

 鮮に派遣されます。そこで閔妃の要請を受け壬午事変・甲申政変で手腕を発揮し、朝 

 鮮内で強力な権力を持つ存在になります。その後、1894年「甲午農民戦争(東学の

 乱)」をき っかけに始まった日清戦争で清は大敗を喫し、袁世凱は軍の近代化に力

 をつくし成果を挙げます。そして、1898年光緒帝を中心とする変法派に身を置きなが

 らこれを裏切って西太后に密告し、クーデターを未然に防いで太后の信頼を得ます。

 ところが、間もなく始まった義和団の乱では終始義和団のみと闘い、連合軍と闘った

 他の部隊が壊滅した中で、彼の部隊だけはほぼ無傷状態で残ります。1904年の日露戦

 争では、清は表面上中立でしたが、袁世凱は日本に協力します。

 しかし、1908年に光緒帝が崩御し、その翌日に西太后も病没すると、袁世凱の立場は

 一変します。即位した宣統帝はわずか2歳で、その父が摂政となりますが、袁世凱

 裏切られた光緒帝の弟である彼はここで恨みを晴らし、袁世凱はすべての職を解かれ

失脚します。ところが1911年辛亥革命が勃発すると、これを鎮圧できるのは袁世凱しか

いないということで再び呼び戻されます。しかし、袁は部下を鎮圧に向かわせながら自

らは革命派と通じ、又も寝返るのです。そして中華民国臨時政府の大統領に収まり、清

は滅亡します。1914年第1次世界大戦が勃発すると中国は中立を宣言しますが、ドイツ

が敗れるとそれまでドイツが持っていた利権を奪うべく日本が「対華か21ケ条要求」を

突き付けます。これを吞んだために(実際は丸呑みしたわけではなく、13か条に削った

上に日本のイメージダウンにもある程度成功したのですが)袁は現在でも「漢奸」と呼

ばれる悪役です。

その袁世凱が現在の中国でネット検索の規制対象になっているという話があります。

それは習近平袁世凱になぞらえる説があるからだそうですが、そこまで気にしなけれ

ばならないとは習近平体制も盤石ではないということなのでしょうか。

 

*青山里戦闘

 1920年満州の青山里付近で日本軍と朝鮮人独立運動武装組織及び中国人の馬賊

 の間で勃発した戦闘を指します。日本側の戦死は11となっていますが、韓国の資料で

 は、年を追うごとに増加し、1975年には連隊長以下死傷3,300人となっているそうで

 す。実際は加納連隊長は1922年まで連隊長を務めているので、でたらめなのですが、

 こ れも建国神話の一つなのでしょうか。

 

*中村大尉事件

 1931年6月、陸軍参謀中村大尉他3名が軍用地誌調査のため農業技師と身分を詐称して

調査旅行中張学良配下に殺害された事件。中村大尉以下が「護照」(日本が発行した身

分証明)を提示したにもかかわらず、裁判もなしに殺害されたことが8月に報道される

と日本国内は沸騰し、9月には満州事変へと発展してゆきます。

 

このように、靖国神社に祀られる英霊たちの歴史をたどってみると、日清・日露戦争

いった大きな戦争はもとより、その前後に起きた事件のほぼすべてが対中・露・朝(

韓)との関係で生じたものです。そしてその関係は、中国の中華思想と、それに反発す

る日本と、隙あらば南に勢力を伸ばそうとするロシアと、それらの間に在ってどちらに

付こうかと揺れ動く朝鮮という図式に変わりはありません。一帯一路は姿を変えた中華

思想と見ることもできます。長い歴史の中で、一度たりと真の同盟を結んだことがない

これら4か国の、真の友好関係を結ぶのは夢物語なのかもしれません。

 

大東亜戦争の犠牲者はあまりにも多く、また合祀基準にも変化がありますので次回取り

上げることとします。

                         2023.10.31