樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

靖国神社について(4)(Y-59 )

この回は<靖国神社に祀られる英霊>について述べる予定でしたが、その前にその前身

である「東京招魂社」が誰の発案であったのか、またその目的が何であったのかを確か

めておきたいと思います。一般的には、発案は大村益次郎で、その目的は戊辰戦争にお

いて官軍側で命を落とした人々の慰霊ということになっているようですが、調べてみる

とそれを裏付ける証拠がなかなか見つからないばかりか、通説に対する疑問も生じてき

ました。そこで今回は、誰が靖国神社を創ったかをテーマにしてお話しします。

 

<誰が靖国を創ったのか>

靖国神社の前身「東京招魂社」には、頭に「東京」の文字がついています。それは、他

にも招魂社があることを示唆しています。実はその通りで、日本初の招魂社は長州藩

誕生しています。

1863年長州藩高杉晋作は、攘夷思想の下に生起した長州藩英米仏蘭との武力衝突

(下関戦争)における戦没者の霊を慰め、また奇兵隊の団結を高めるために自分たちの

招魂場をあらかじめ設けておくことを提案しました。そうして下関の地に日本初の櫻山

招魂場が設置されたのです。2年後には社殿が完成して招魂社となり、この生前の身分

に拘わらず戦没者を人神(ひとがみ)として祀る招魂社の発想は全国に広まって行きま

した。

靖国神社のホームページ「靖国神社史」には、創建時のいきさつがこのようにかなり詳

しく記されています。

明治2年5月 戊辰の役終結(18日)

    6月 軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王の命により同副知事大村益次郎らが東京九 

      段坂上三番町の旧幕府歩兵屯所跡に赴き招魂社建設地を検分(12日)

      九段坂上招魂社・社地を東京府から受領、仮本殿・拝殿を起工(19日)

      29日から5日間、招魂祭執行の旨、軍務官より在京諸藩に通達(23日)

      招魂社鎮座、第1回合祀祭(29日)

      鎮座祭に併せて相撲奉納

ところが、それ以降の出来事については戦争や事件などのタイトルが淡々と記述されて

いるだけで、このような詳しい記述は全くありません。

何故この部分だけが詳しいのか、逆に何故他の部分では詳しい説明がないのか、その理

由は分かりませんが、どこかの時点(戦後?)で削除されたか、或いは本当の社史は非

公表とされてしまったのか、いずれにせよ不自然な感じは否めません。

それはさておき、社史の記述を手掛かりに少し掘り下げてみたいと思います。

まず、軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王の経歴ですが、嘉彰親王伏見宮邦家親王の第8王

子として誕生します。12歳の時に仁孝天皇(120代)の猶子となって親王宣下を受け、

仁和寺の門跡となりますが、1867年還俗を命じられ仁和寺宮嘉彰親王を名乗ります。

そして、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執ります。明治3年から3年間英

国に留学し、その影響を受けたのでしょう、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、

自らも率先垂範しました。明治15年小松宮彰仁と名を変えたので、一般にはこちらの

名で知られているようです。西南戦争では旅団長として出征し、日清戦争では征清大総

督として旅順に出征しています。また、英国王の戴冠式明治天皇の名代として臨席し

たり、日本赤十字社の総裁を務めるなど、大変才能のある”飾り物でない“宮様であった

ようです。

しかし、当時23歳の嘉彰親王が招魂社の創設を発議するとは考えにくい気がします。

では、一般に信じられている大村益次郎の発案なのでしょうか。

大村益次郎は、元は村田蔵六といい長州の村医者でした。その彼が緒方洪庵の下で蘭学

を学んだことから、西洋の科学や軍事に関する知識を身に着け、やがて見出されて維新

戦争における官軍の指揮を執ることになり、ことごとく勝利して最大の功労者となるの

です。その生涯は司馬遼太郎の「花神」という小説に描かれ、1977年の大河ドラマにも

なりました。

花神」とは「花咲爺」のことで、司馬遼太郎はこの小説のなかで、このように自身の

歴史観を語っています。

“大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死を遂げる。日本では吉

田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆

盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者であ

る。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担

当したような軍事技術であってもいい。”

この説に異論を唱えるつもりはありませんが・・と言いながら異論を言わせてもらうの

ですが、村田蔵六大村益次郎)もまた維新道半ばの明治2年海江田信義(有村俊

斎)の手の者と思われる浪士たち暗殺されてしまいますので、「花神」というよりは、

二番目の「戦略家」の部類に入れられるような気がします。私の感覚からすれば、

花神」の名にふさわしいのは岩倉具視大久保利通ではないかと思うのです。

靖国神社の境内に銅像が建てられていることからしても、大村益次郎靖国神社に深い

かかわりを持っていることは否定できませんが、理性と合理主義の権化のような大村益

次郎が、最も多忙を極めていた時期に招魂社に建設を優先するということも考えにくい

のです。また、もしそれが事実であったならば、司馬遼太郎が「花神」のなかで触れな

いはずがないとも思います。

では発案者は誰なのか、この時期、政治の中枢には当然薩摩・長州出身者が多くを占め

ていましたが、薩摩出身者の中には思い当たる人物はいません。いるとすれば、やはり

長州出身者でしょう。となると、「情」の人、木戸孝允あたりが浮かんできます。

また、軍務と会計を担当して実質的には岩倉内閣が形成されていたかにも見える岩倉具

視も候補者の一人ですが、その可能性委は低そうです。

色々調べているうちに、「岩倉公実記」という資料を見つけました。これは岩倉具視

秘書であった多田好問という人がまとめた全3巻に亘る膨大な資料集です。

有難いことに、これを「国会図書館デジタルコレクション」が閲覧サービスをしている

ので読むことができます。

その下巻1、133項に「招魂社ヲ建設スル事」というタイトルがあったのです。

しかしそこには、「癸丑以来の殉国者の霊魂と伏見開戦以来の戦死者の霊魂を祭祀すべ

く東山に一社を新たに建設するので各藩主はその趣意を理解し遺漏なきようつとめるべ

し」といった内容が書かれているだけでした。癸丑は1853年にあたりますので、ペリー

来航以来という意味になります。残念ながら、誰の発議かに関する情報は得られません

でしたが、収穫もありました。それはこの布告に“今後王事に身を滅ぼした者は速やか

に合祀手続きを取りなさい”という指示が加えられていることです。私は、招魂社建設

当初においては、後のことは考慮していなかったのではないかと考えていましたので、

その誤りを正してくれる資料となりました。実はこのとき新政府は、まだしばらくは犠

牲者が出ることを予想していたということです。つまり、不満分子の反乱なり戦争なり

があることを覚悟していたということです。

結局、発案者は見つかりませんでしたが、もしかすると招魂社を建てるかどうかの議論

は最初からなかったのかもしれません。つまり、みんなの頭の中にはすでに「招魂社」

がが存在していて、“どこに建てるか”の段階にあったのではないかということです。

敢えて言えば、発議したのは“死せる高杉晋作”ではなかったかということです。

東京招魂社は明治12年靖国神社」となります。

すでに述べた通り、命名されたのは明治天皇とされています。

そして、昭和14年3月15日に公布された「招魂社ヲ護国神社ニ改称スルノ件」により、

日本各地の招魂社は一斉に護国神社となります。しかし靖国神社だけは改称されません

でした。それはやはり明治天皇命名ということがあったからでしょう。その意味で

は、靖国神社を創ったのは明治天皇であると言うことも出来ようかと思います。

 

次回は<靖国神社に祀られる英霊>の予定です。

                           2023.10.21

靖国神社について(3)(Y-58)

<神社の種類と格付け>

明治新政府は、慶応4年(明治元年)「神道国教化」の方針を採用し、本地垂迹説に代

表されるそれまでの神仏習合を禁じる太政官布告神仏判然令)を発しました。

本地垂迹説とは、日本の神々は仏が化身したものだという一種の神仏同体説で、平安時

代に始まり、次第に一般化していました。たとえば、天照大御神大日如来秋葉権現

観音菩薩大国主神は大黒天といったような組み合わせが出来ていたのです。(宗派

によって組み合わせには違いがあります) そのため、神社に仏像が祀られていたり、

その逆に寺院に神体が納められていたりする例は数多くありました。

神仏判然令」の内容は、塗装した鳥居は白木に変えること、神社にある仏像は寺院

に、寺院にある神体は神社へそれぞれ渡すこと、神社の狛犬はそのままでよいが唐獅子

は取り除くことといったもので、「仏教排斥」を企図したものではありませんでした

が、これをきっかけに全国各地で「廃仏毀釈」運動が広がり、多くの文化遺産が破壊さ

れるという事態に発展しました。

政府の当初の方針は、神官と僧侶を共に教導職に補任して両者による国民の教化を考え

ていたようですが、それはうまく機能せず、結果的には多くの寺院とともに僧侶の数も

激減してしまいました。

明治4年5月14日(1871.7.1)、政府は太政官布告のかたちで「近代社格制度」を発令

しました。これは、967年に制定された「延喜式」に倣い、新たに神社を等級化した制

度で、「式」というのは、律令の施行細則にあたります。

この社格制度で、神社は「官社」・「諸社」に分類され、伊勢神宮は特別の存在として

すべての神社の上位に置かれます。

また、官社は神祇官(のちに宮内省)が祀る「官弊社」と国司(後に知事)が祀る「国

弊社」に分類され、それぞれがさらに大・中・小に区分されました。格付けの順位は、

伊勢神宮官幣大社国幣大社官幣中社国幣中社官幣小社国幣小社>別格官幣

社となりますが、当初(明治4年)の時点では、官幣小社国幣大社及び別格官幣社

列せられた神社はありませんでした。

その詳細は省略しますが、官幣社は35社、国弊社は62社で合わせて97社というものでし

た。それが1946年GHQ神道指令によって国の管理を離れる直前には、官幣社84、国

弊社92となり、別格官幣社も0から28に増えて、その総数は2倍以上の208にまで膨れ上

がっていました。朝鮮、台湾はもとより、パラオにも神社が立てられていたのです。

靖国神社が格付けされた「別格官幣社」は、功績のある忠臣や国家に命を捧げた武将・

志士・兵士などを祭神として祀るために創設され、楠木正成を祀った湊川神社がその第

1号(M.5)となりました。日光東照宮(家康)、建勲神社(信長)、豊国神社(秀

吉)、上杉神社(謙信)、尾山神社利家とまつ)などはみな、この別格官幣社になり

ます。社格としては最も低い格付けですが、実態としては官幣小社と同等に処遇されて

いたようです。菅原道真を祀る「天満宮」も本来は別格官幣社とすべきところですが、

「雷神」として例外的に官幣中社に格付けされています。

話を再び明治初期に戻します。

明治4年、神社は太政官布告により国家の宗祀とされました。つまり、明治政府は神社

を国の祭祀を行う公共施設として位置づけたのです。一方、江戸後期あたりから国学

儒教の影響を受けた新興の神道系宗派が勢力を伸ばしていました。それらの新興宗教

は教祖が存在し、それぞれ教義があって、従来の神社神道とは根本的に異なる部分があ

りました。そこで政府は、それらを「教派神道」としてまとめ、明治15年に従来の「神

神道」から分離した上、「神社神道」を法制上“非宗教”扱いにしてしまいました。

“神社は一般の宗教とは別物“ということになったのです。

明治22年に制定された「帝国憲法」において、「信教の自由」は次のように条件付きで

保障されています。

  28条: “日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ

       信教ノ自由ヲ有ス”

この条文において、国が特定の宗教を管理又は支援することが憲法違反に当たるかどう

かは分かりませんが、いずれにせよ「神社神道」が”非宗教”である限り、この条項には

無関係な立場となったわけです。

そしてこの宗教観は、日本人に大きな影響をもたらしたと考えられます。

つまり、一つ屋根の下に神棚と仏壇が同居していることに何の違和感もないという感覚

が生まれたのです。そして、その感覚はさらに拡大し、七五三の宮参り、教会で結婚

式、お寺で葬式などといったことはごく普通の行動となってゆきます。 その行動は、

とくに一神教を信じる外国人には理解しがたい宗教観であろうと思いますが、それが自

然の行動として行えるのは、つまるところ、日本人にとってはキリストも仏も「カミ」

仲間に見えるからではないでしょうか。

2020年(令和2年)のデータによると、日本の宗教法人は180,544に上り、その内

訳は、文部科学大臣所轄の神道系が212、仏教系483、キリスト教系328、その他諸教

124、都道府県知事所轄の神道系84,361、仏教系76,572、キリスト教系4,492、諸教

13,972となっています。その信者を総計すると、2億人を超えるそうですが、その原因

は明らかに、法人の多くが大幅な水増し報告をしているからです。しかしそれは、必ず

しも間違いではないのです。現代の日本人の多くは、特定の宗教組織に対する帰属意識

は薄いものの、生活の中では様々な宗教的行事や儀式に参加しています。法人側はそれ

を信者と数えるわけです。3割程度あるいはそれ以上いるといわれる「信ずる神も宗教

もない」という人たちも、「無神論者」ではないのです。

二宮尊徳の「二宮翁夜話」には、“真理は一つだが入口はいくつもある”という話が納め

られています。いわば、「宗教多元主義」の思想です。

宗教多元主義とは、様々な宗教がお互いの価値を認め共存していこうという思想です

が、日本人の伝統的な宗教観はこれに近いのではないでしょうか。

最後に一つ言い忘れていたことを付け加えます。

現行憲法において「信教の自由」は、”信教の自由は何人に対してもこれを保障する”

(20条)として、無条件に保障されているようにみえますが、そうではありません。

実はその前の12条において、”この憲法が保障する自由及び権利は、これを濫用しては

ならないのであってに常に公共の福祉のためこれを利用する責任を負う(一部省略)”

と条件を付しているのです。

”常に公共の福祉のため”という条件は、帝国憲法の”安寧秩序を妨げない限り”よりもむ

しろ厳しい条件のようにも思われますが、(自由=わがまま)と誤解して日常的に憲法

違反をしている人もいるようです。これも戦後教育のなせるわざでしょうか。

 

次回は「靖国神社に祀られている英霊」についてお話ししたいと思います。

                          2023.10.11

靖国神社について(2)(Y-57)

靖国神社の創設>

靖国神社のホームページには、その創建についてこのように記されています。

靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂

社が始まりです。明治7年(1874)、明治天皇が初めて招魂社に御親拝の折にお詠みに

なられた 「我國の為をつくせる人々の名も武蔵野にとむるたまかき」 の御製からも

知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊(みたま)を慰

め、その事跡を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。”

ここでは、“国家のために尊い命を・・”と将来の英霊をも祀る神社にすることを念頭に

建てられたかのような表現になっていますが、実のところは、戊辰戦争で官軍となって

戦い命を落とした人たちの霊を祀るための「招魂社」であったのではないでしょうか。

その招魂社が、明治12年には「靖国神社」へと改称され、「別格官弊社」に格付けされ

ることになります。

神社のホームページでは、“靖国という社号は「国を靖(安)んずる」という意味で、

靖国神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められて

います。”

とあります。その背景には、明治7年の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連・秋月・萩の

乱」に続く明治10年の「西南の役」といった士族の反乱があって、維新政府が必ずしも

順風満帆ではなかったという事情を考慮する必要があります。つまり、「国を安んず

る」とは「国内の安泰」を意味していたものと考えられます。

それはともかくとして、1867年の大政奉還から始まった「御一新」の大改革において、

明治天皇がまず行った事業は、保元の乱で讃岐に配流となった崇徳上皇の霊を京都に迎

えることでした。崇徳上皇(の霊)は、菅原道真平将門と合わせた“3大怨霊”の一人と

して恐れられていたのです。

日本の歴史の中で、「黒船来航」(1953)は衝撃的な事件でしたが、実はその頃、日本

は次に挙げるような天災地変や疫病に苦しめられていました。

 ・1853 小田原地震

 ・1854 7.伊賀上野 12.東海(日露交渉中のロシア戦艦が大破沈没)・南海(稲村の

     火で有名)・豊予海峡地震

 ・1855 3.飛騨 9.陸前 11. 江戸地震

 ・1856 8.八戸地震 9.台風(死者10万)

 ・1857 10。芸予地震

 ・1858 飛越地震 コレラ大流行(江戸だけで死者数万)

 ・1862 はしか大流行(江戸だけで死者24万)

このような厄災は、怨霊のなせる業と半ば信じられていた時代ですから、崇徳上皇の怨

念を感じた(とおもわれる)孝明天皇は、都への帰還を強く望みながら憤死した崇徳院

の霊を京都にお迎えしなければならないと考えていました。しかし、それを果たせぬま

ま孝明帝は疱瘡に罹り崩御されます。明治天皇は、何よりも先に父帝の遺志を継いで、

京の地に崇徳院の御霊をお迎えするという行動を起こしました。それが白峯神宮です。

その場所は、「蹴鞠」の公卿宗家「飛鳥井家」の邸宅跡地であったため、白峯神宮は球

技の神様として崇められるようになり、駐車場もない小さな神社ではありますが、近年

ではスポーツ全般の守り神としてにぎわっています。有名になったきっかけは「なでし

こジャパン」ではなかったかと思いますが、以来日本のスポーツ界が活気づいているよ

うな気がしないでもありません。

この白峯神宮に続き、翌年の1969年(M2)には招魂社を建てるということで、明治維

新は、いわば「鎮魂の祈り」からスタートしたとも言えるわけです。

靖国神社を定義すれば、「勅命により創建された東京招魂社が、明治12年に「靖国

社」と改称された旧別格官幣社」ということになろうかと思いますが、実は神社への昇

格には大きな意味があると考えられます。そこには、

“ 慰霊を受ける御霊が崇められる神へと変身する”

という、いわば主客の逆転があるからです。

また、「別格官幣社」とはどういうものでしょうか。

次回は神社の種類と格付けについて記述したいと思います。

                         2023.10.7

 

靖国神社について(Y-56)

はじめに

先月半ばにこんな夢を見ました。

自分はまだ現役で、仕事を終えて家に帰ると5,6人の若者が私を待ち構えていました。

訳を聞くと、“「靖国神社」について意見を聞きたい”というのです。彼らの中では、意

見が分かれてまとまらないので教えてほしいというわけです。

「まあ上がれ」と言って、随分長い話し合いをしたような気がしますが、具体的な内容

はあまり思い出せません。ただ、しばしば返答に窮したことだけが重々しい感覚として

残りました。その後2,3日、なんだかモヤモヤした気分でしたが、スッキリさせるため

には、やはりきちんと自分の頭を整理するしかありません。そこで、いろいろと調べな

おしているうちに2週間が過ぎてしまいました。長い物語になりそうですが、なんとか

自分だけでもスッキリさせたいと願いながら話を進めてゆきたいと思います。

<神社と神道

靖国神社の話に入る前に、まず神社とは何かについて考えてみましょう。

広辞苑には、神社とは “神道の神を祀るところ” とあります。

また、神社庁のホームページには、「日本人の暮らしの中から生まれた神々への信仰が

祭りという形となって表現され、その祭祀の場所として神社が作られ、6世紀に伝来し

た仏教に対する日本固有の信仰を神道と表現するようになった」といった趣旨の説明が

あります。

神道には経典や戒律がありません。”唱えことば“もありません。”他の神を信じてはなら

ない”という戒律もありません。そこが一神教と根本的に異なっているために、外国か

ら誤解されやすい一因となっていると思われます。

かつて、小渕総理の急死を受けてその後を継いだ森喜朗首相が、“日本は神の国”と発言

してメディアなどから糾弾されたことが在りました。(於「神道政治連盟国会議員懇談

会」2000.5.15) 問題とされた発言は、一部が切り取られたものであり、全体を読め

ば、元総理は、「信教の自由とはどの神も仏も大事にしようということ、排他主義を止

め命の大切さを子供たちに教えなければならない」という趣旨の発言であったことが分

かります。それを国粋主義者と決めつけるのは、”誤解”ではなくて”イデオロギー”とい

うべきかもしれません。だから両者には、冷静な議論はおろか分かりあおうとする努力

さえも生まれないのです。その根底には、”世界の神は共通ではない“という問題が横た

わっています。

<Godと神とカミ>

“世界の神は別物”という問題について、

“Godを日本語では「神」と訳しカミと発音する。これが間違いかも知れない”

という言葉で切り出した東工大橋爪大三郎名誉教授はこのように続けます。

“Godは一神教の神のこと。世界で一つしかないものだから英語の習慣で大文字で書く。

小文字でgodと書くと、あっちこっちにいる多神教の神という意味になってしまう。

漢字で書くと中国語の「神」の意味になる。精神、神経という場合は、人間の精神現象

という意味、神のような存在も表すが、決してランクの高い存在ではない。いちばんラ

ンクの高いものは天とか上帝とか呼ぶことになっている。

日本古来の「カミ」は、ひとことで言えば自然現象を人格化したもの。古事記・日本書

紀に登場するカミや神社に祀られるカミはむろんのこと、太陽や月や風や雨や海や大き

な木や岩や動植物も人間も並外れたものはみなカミである。“

この考え方は、江戸中期の国学者本居宣長の説に基づいています。本居宣長は、「古事

記伝」のなかでこう述べています。

“凡て迦微(カミ)とは古御典等(いにしえのふみども)に見えたる天地の諸の神たち

を始めて、其を祀れる社に座す御霊をも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐ

ひ海山など、其与(そのほか)何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(か

しこ)き物を迦微とは云なり。優れたるとは、尊きこと、功(いさお)しきことなどの

優れたるのみを云に非ず、悪しきもの奇しきものなどもよにすぐれて可畏きをば神と云

なり。”

要するに、本居宣長は”並外れたものはみなカミである“であると定義したのです。

将に八百万の神で、愛知県には男根をまつる神社もあります。また、疫病神や貧乏神と

いった災いをなすカミもあり、それらを総称する禍津日神(まがつひのかみ)という言

葉もあります。しかし、ここで一つ大切なことを付け加えなければなりません。

それは、海、山、鳥獣、木草といったものは、それ自体がカミではないということで

す。カミに神像はありません。神社には依り代(よりしろ)すなわちカミが宿る物(場

所)が安置されますが、そこにカミが常駐しているわけではないのです。カミは目に見

えるものではなく、“宿るもの”なのです。

それは、誰もが知る「千の風になって」という歌のイメージに似ているかもしれませ

ん。この歌は、元電通社員で芥川賞作家の新井満が、友人の妻の死をきっかけに作詞作

曲したもので、実は元歌があります。つまり訳詞したものです。後に南風椎はえ

い)という作詞家が私の訳詞をパクったものだと主張して話題にもなりましたが、それ

にもかかわらず多くの人に支持されたのは、日本人の心に響くものがあったということ

でしょう。

ちなみに元歌のさわり部分は、

  Do not stand at my grave and weep

     I am not there; I do not sleep

     I am a thousand winds that blow

というもので、その作者は不詳(ボルティモアの主婦 Mary Frye 説が有力)とされて

います。彼女が信ずる宗教が何かは分かりませんが、そこには死者の霊魂が残る、ある

いは残っていてほしいという共通の宗教観があるような気がします。

一方、旧約聖書にある「ノアの方舟」の神話は、私たちには何となく違和感があるかと

思います。

神(主)は堕落した人間を滅ぼすと決め、正しく生きているノアに方舟をつくるよう命

じます。ノアが命ぜられた寸法どおりの方舟を完成させ、妻と三人の息子夫婦とすべて

の動物のつがいを乗せると大洪水が起き、地上の生き物は全て滅んでしまいます。ノア

一家とひとつがいの生き物たちだけが生き延びるわけです。この神話は、一神教におけ

というよりる唯一絶対の神(God)と人間の関係を良く表しています。

「God」は自分を信じ、約束(戒律)を守るもののみを救うのです。というより、自分

を信じない者、戒律に背く者は殺してしまうのです。

 

日本の神道は江戸後期の平田篤胤のいわゆる「平田神道」と呼ばれる思想によってかな

り大きな変化を遂げます。本居宣長の弟子を自称する彼は、次のように唱えました。

「人間は死ぬと仏になるわけでも黄泉に行くわけでもない、霊となる。とりわけ国事に

殉じた人々の霊は、穢れのない英霊となって、後続する世代の人々を護っている。」

誰もが霊になるということは、仮に仏式の葬儀を行ったとしてもそれとは無関係に神道

式の慰霊の儀式を行うことができるということになります。明治政府はこの平田神道

採用し、明治2年に東京九段に「招魂社」が設けられ、それが後に靖国神社へと発展し

てゆきます。                       (続く)

                            2023.10.02

 

 

ALPS処理水の海洋放出について(J-134)

日本政府と東電はIAEAのお墨付きを得て、8月24日スペース的に限界に達しつつあった

福島原発ALPS処理水の海洋放出に踏み切った。これに対し、中国政府が猛反発し、それ

に呼応した中国国民からの嫌がらせや迷惑行為が拡大している。

これまで、どちらかといえば海洋放出には批判的な態度を示していた大手メディアも、

中国の度を越した迷惑行為にはさすがにあきれ果て、中国政府の責任ある対応を求める

論調となっている。

しかしながらメディアは、これまで国民の懸念を払拭するような報道をすることに必ず

しも積極的でなく、むしろ反対意見を無批判に流してきたように思う。反対意見は国内

にも存在し、もし中国の反応がこれほどでなければ、相変わらず政府批判を続けていた

かもしれない。

騒ぎが大きくなったおかげで、この問題を改めて考える機会が得られたわけだが、果た

して国民の頭の整理はついているのとかいうと、どうも心もとないようにも感じる。

勿論、自分を含めての話である。

というわけで少し整理してみることにした。参考になれば幸いである。

<政府の言い分>

経産相のホームページにはかなり詳しい説明がある。要点は次の通りだ。

・ALPS(Advanced Liquid Processing System=多核種除去設備)処理によりトリチウム

 以外の核種を基準値以下に浄化

・ALPSで除去できないトリチウムは海水で100倍以上に希釈し、1,500ベクレル/ℓ

 未満、トリチウム以外の核種は規制基準の1/100以下にさらに浄化

・放出するトリチウムの総量も事故前の基準(年間22兆ベクレル未満)とする。

 そのため すべてを放出するには約30年を要する。

・海域や水産物トリチウム濃度などのモニタリングを続け公表する。

 

この処理方法について、世界各国は概ね了承し、ロシアのコメントも完全な透明性と情

報の提供を求るのもで、反対している国は中国と北朝鮮だけである。

では、内外の反対理由がどういうものであるかみてみよう。

(1)日本政府並びに東電の言うことは信用できない

(2)事故由来の放射性物質と正常運転の原発から排出された放射性物質は別物

(3)トリチウム以外の放射性物質も混在している

(4)トリチウムそのものが危険.

(5)風評被害が心配だ

(6)漁業関係者などの同意が不十分

 

上記のうち、(5)は漁業関係者などの気持ちであり、(6)は専門家でないコメンテ

ーター等によく見られる意見であって危険性とは関係がない。また、(1)は概ね

(2)(3)(4)と抱き合わせの理由なので、畢竟(2)(3)(4)の懸念を払拭

することが”できるかどうかの問題ということになる。

<中国の主張>

中国は、処理水の海洋放出に対して直ちに反発し外交部汪報道官が声明を発表した。

“日本政府は国際社会の強烈な疑問と反対を顧みず一方的に「核汚染水」の海洋放出を

強行した。中国はこれに断固として反対と強烈な非難を表明する。日本は海洋を破壊す

るものとなり、生態系の破壊者となった”と激しく非難し、日本からの水産物の輸入を

全面禁止とした。北朝鮮の声明もこれにほぼ同じである。これは反対理由の(2)に

該当する。

要するに日本は「核汚染水」を世界共通の海にまき散らしているのであり、日本政府は

全く信用できないというスタンスである。さすがに日本国内でこれに同調する勢力はい

ないようだが、共産党議員の国会質問ではこれに似た反対論が述べられたことが在る。

これに対する日本側(経産省)の言い分は“国際安全基準では事故炉通常炉による区別

はなく、すべての放射性物質の影響の合計で安全性評価が行われる”と歯がゆい程に冷

静である。

中国側は5人の専門家による、“240日後には汚染水が中国沿岸に押し寄せる”との論文を

発表し、塩の買い占め騒動まで発生したが、そこまでやると中国の漁業そのものに悪影

響を及ぼすことは必至である。日本近海での荒っぽい操業も控えてくれればいいのだ

が、いったいどうやって矛を収めるつもりなのだろうか。

グリーンピースの主張>

放射性物質の中に炭素14という自然由来の物質がある。宇宙からの放射線に由来する中

性子と窒素14が反応して生成される。原発で使われる燃料の中にも窒素14が含まれてお

核分裂の際に派生する中性子と反応して炭素14ができる。半減期は5,730年でエネル

ギーの小さなβ線を出して安定な窒素14に戻る。光合成をするすべての植物に微量なが

らこの炭素14が含まれているため、動物もまた炭素14を体内に取り入れることになる。

これが処理水の中に残留していることがわかって、グリーンピースが目を付けた。SNS

炭素14を検索すると、グリーンピースが発する情報ばかりヒットする有様となってい

る。

グリーンピースは、“処理水に残るトリチウム炭素14は人間のDNAを損傷する可能性

がある”と警告する。これは全くのウソではないが極端に事実をゆがめている。

そもそも人間の体内には様々な放射性物質が取り込まれている。原子力安全協会の資料

によると、体重60㎏の日本人では、カリウム40が4000ベクレル、炭素14が2,500ベク

レル、その他を合わせると7000ベクレル程度になるという。つまり1秒間に7000個

(回)の放射線を浴びているということになる。放射線がDNAを傷つけるのは事実だ

が、DNAを傷つけるのは放射線だけではない。発がん物質や環境中の化学物質、活性酸

素など様々なものがある。そして細胞にはDNAを修復する機能がある。実際のところ、

毎日数万に及ぶ頻度でDNAは損傷を受けているのだという。つまり、損傷の程度が問題

なのである。

トリチウム炭素14からでる放射線β線である。β線α線よりもはるかにエネルギー

が低く、γ線ほどの透過力もない。皮膚さえも通過できないので外部被曝を考慮する必

要はない。もし心配するなら、β線γ線を出ししかも最大量のカリウム40に注目しな

ければならないが、そんな話は聞いたことがない。つまり、何ら影響がないという現実

があるからである。グリーンピースは、自らの正体を暴露しているだけだ。

トリチウムそのものが危険という説>

これは、北海道がんセンター名誉院長西尾正道氏の主張である。メディアなどにも登場

したことが在る有名人だが。肩書が肩書なので健康被害の実例などを交えた彼の講演に

はかなり説得力があるらしい。その内容を私が批判しても説得力がないので、ここは原

子力発電環境整備機構(NUMO)元理事の河田東海夫氏にご登場願うことにする。

河田氏の反論を要約するとつぎのとおりである。

“西尾氏の主張の要点は以下の3点に集約できる。

(1)有機結合型トリチウムは体内に長くとどまり、通常の水素に代わってDNAの分子 

  構造に取り込まれると、ヘリウムへの壊変で分子結合が破壊され、その損傷がβ線

の電離作用による損傷に上乗せされる。したがってβ線のエネルギーがいくら低いと言

っても安全なわけがない。

(2)実際に原発周辺でトリチウムによる小児白血病発症率の上昇などの健康被害がい

くつも出ている。

(3)そもそも政府や事業者が依拠する国際放射線防護委員会(ICRP)の放射線防護学

は、核兵器製造や原発推進のための非科学的な物語で構築されており、内部被ばくの深

刻さを隠蔽している。

・これに対する河田氏の反論

(1)については間違いではないがミクロな話に過ぎず、大事な事実を意図的に除外し

ている。それはDNAには損傷回復機能が備わっており、活性酸素などによる損傷に対し

て一日当たり数万回の修復が行われ、失敗したときはその細胞を自死させる作用がある

という事実である。仮に体内水がすべて処理水と同じ濃度のトリチウム水に置き換わっ

たとしても、細胞1個内でのβ線放出数は年間3個程度にしかならず、無視してよいレベ

ルであることは明白である。

(2)については、原発訴訟団体などが取り上げているものであるが、そのほとんどは

正規の疫学情報とはみなしがたいものばかりである。欧米の公的機関による調査結果

は、いずれも原発による放射線の影響は自然界からの被曝に比べて極めて小さいことか

小児がん発症変動の原因とする説は否定されている。

(3)は欧州放射線リスク委員会(ECRR)のクリス・バズビー氏の主張の受け売りであ

る。彼は福島原発事故のあった年の7月に市民団体に招かれ、各地で講演や記者会見を

行ったが、「200㎞圏で40万人の発がん増加」、「100㎞県内北西部の住民は直ちに非難

すべき」などと低線量被曝の危険性を煽った。しかしその裏で、被曝抑制効果があると

する怪しいサプリの日本販売に関わっていることが英国紙によって暴露され一挙に信用

を失墜した。彼はカナダが開発したトリチウム放出が格段に大きいタイプの原発周辺で

小児白血病などの上昇傾向があるという報告があったことも取り上げているが、その報

告の後に行われた本格的な疫学調査で有意な上昇傾向は認められないと結論された。周

辺住民の騒ぎなども起きていない。

西尾氏はそのことも知らないはずはないが意図的に伏せている。“

 

これを読むと、河田氏は口にしてはいないが、西尾氏の発言や行動は“原発反対運動”の

一環であると読み取れる。目標が正しければ手段は問わないというイデオロギーがかっ

た思想である。残念ながら私たちは、そういった偏りのある情報に触れる機会が多い。

出来れば両者が公開討論でもやってくれればありがたいのだが、誰もそれを企画しよう

ともしない。

注目すべきは韓国である。朝鮮日報は、“ソウル大学病院核医学科の姜健旭(カン・ゴ

ヌク)教授の「これまで私たちは日本の福島原発汚染水よりも高濃度のトリチウムを含

む水を平気で飲んできました。米国とソ連が出したトリチウムです。既に100万倍も多

い量のトリチウムを摂取していながら、『日本で作られた』という理由で危険と主張す

るのはばかげています。現実的には陸上の産物の方が水産物よりも濃度が高い。福島の

トリチウムは今後6000憶年全く問題がないレベルです”と言うコメントを掲載し、また

韓国原子力学会が発した公開討論の呼びかけに対し、危険だと主張する側の科学者が見

つからないため環境運動を展開する市民団体などにオファーしているという実情を記事

にしている。

これを見た日本のネットユーザーからは、今こそ学術会議の出番なのに何をしているの

かという非難の声が上がっている。

 

9月初めに中国訪問を予定していた公明党の山口代表は「タイミングが悪い」と中国側

から拒否され、直近では“いま中国に行けるのは日中友好議員連盟会長の二階俊博氏し

かいないだろうという声も上がっている。しかし、それはどうだろうか。焦ってはいけ

ない、時が経つにつれ困るのはむしろ中国の方だ。中国に輸出している程度の水産物

ら何とか対策がとれるはずだ。

第一、“海水浴シーズンの放出は避けた方がよい”と発言した山口氏や二階氏に専門知識

があるとは思われないし、変な妥協案を持ち帰られても困る。韓国で初期に見られた反

対運動が沈静化したように、真実を発信し続けることが肝要だ。中国のヒステリックな

反応にはさすがの日本メディアもついて行けないようで、雰囲気的には悪くない。

                          2023.09.02

 

 

 

マッカーサーの予言(J-133)

毎度のことだが、8月15日になると複雑な気分になる。

メディアはこの日を「終戦記念日」或いは「終戦の日」と呼ぶ。まずそれが気に入らな

い。8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」なのである。歴史的事実を言うな

らば、この日は「玉音放送により日本の降伏を国民に公表するとともに再興を促し、日

本軍の武装解除を命じた日」ということになる。連合国の多くは、9月2日の「降伏文書

に調印した日」を「戦勝記念日」としている。

ところがソ連は、日本の敗色が濃厚となった8月9日に「日ソ不可侵条約」を一方的に破

棄して参戦し、9月2日は歯舞攻略作戦を継続していた。だから、9月2日というわけには

いかず、とりあえず9月3日に戦勝記念式典を開いてお茶を濁した。ソ連崩壊後のロシア

もこれを引き継いでいたのだが、2010年7月、他の連合国に倣って9月2日を「WWⅡが

終結した日」とする法案を可決した。これによってソ連が連合国の一員であったことを

印象付けるとともに、様々な不法行為ソ連が行ったこととして帳消しにする二つの狙

いがあったらしい。だがそれもつかの間、西側陣営との関係が悪化すると2020年に再び

戦勝記念日を9月3日に戻し、2023年にはご丁寧にも「軍国主義日本に対する勝利と第二

次大戦終結の日」と敵意むき出しの名称に改称した。

しかしながら、9月2日の「降伏文書調印」は、いわば「休戦協定」なので、厳密に言え

ば、真の終戦は「サンフランシスコ講和条約」(締結:1951.9.8、発効:1952.4.28)

とするのが正しいかもしれない。さらに細かいことを云えば、この講和条約ソ連は署

名せず、内戦状態にあった中国は会議に招待されてもいない。だからこの講和は「単独

講和」と呼ばれている。実はそのことで、日本国内でも大論争があったのである。ソ中

を含む全面講和でなければならないと主張して譲らなかったのは、東大総長の南原繁

筆頭に、末川博(後に立命館名誉総長)、大内兵衛マルクス経済学者で後に法大総

長)丸山真男(南原の弟子で丸山学派を形成)、都留重人(後に一橋大学長)といった

錚々たるメンバーであったが、これを支持する国民は少なく、政府は単独講和に踏み切

った。この当時、既に米ソの対立は明白となっており、もし全面講和にこだわってずる

ずると引き延ばしていたならば、最悪朝鮮半島のような事態に発展していたかもしれな

い重大な局面であった。学会の重鎮たちが何ゆえにかくも外交音痴であったのかはわか

らない。しかし国民の多くは、彼らの主張は非現実的で、“選択肢は「単独講和」か

「占領継続」の二択しかない”ということを理解していたのではないだろうか。朝日新

聞の調査によると、全面講和に賛成する国民は2割強でしかない。

そんなわけで、日露間には未だ平和条約が結ばれていない。つまり「終戦」とは言い難

いのである。ならばいっそのこと、「サンフランシスコ講和条約」発効の4月28日を

「主権回復の日」とでもして、祝日にすればどうだろうか。その方が意義深い大型連休

になる。

話は変わるが、先に万歳してしまったドイツとイタリアは、「解放の日」と呼んで祝日

扱いになっている。独裁政権から“解放された記念日”というわけだ。それも品のない話

である。品がないというのがまずければ、“身勝手な”と言い換えてもいい。なぜなら、

ヒットラームッソリーニも元はといえば“選ばれた人”であるからだ。

しかし、えらそうなことは言えない。実は日本も”五十歩百歩“なのである。

日本は、東京裁判A級戦犯として断罪された一部の指導者たちに、国民はもとより天

皇までが騙されて侵略戦争を行ったというストーリーに乗った。すべての責任は彼らに

あり、天皇も国民も実は被害者なのだという”身勝手な“論法である。もしそれが真実な

ら、彼らを裁くのは日本国民でなければならない。彼らに責任がないわけではない。

しかし、事後法で裁くのは不法である。「平和に対する罪」という戦争犯罪はそれまで

存在しなかったのだ。

東京裁判が始まる前、連合国及び米国民の間には天皇の訴追を望む声も多く、初期の段

階ではGHQの腹も決まってはいなかったと思われるが。1945.9.27に昭和天皇がマッカ

ーサーを訪問し会談したあと、GHQの態度ははっきり天皇不起訴へと変わった。天皇

訪問を出迎えなかったマッカーサーが、退出の際には玄関まで見送りに出るという予定

外の行動がそれを示している。

マッカーサーはこのとき、おそらく天皇及び天皇と国民の関係を深く理解したに違いな

い。つまり占領政策を円滑に進めるには、天皇の協力が必要だと考えたのである。そし

てその判断は正しかったといえよう。”国体護持“は国民の怒りを鎮めるとともに、安心

感を与え、戦犯として裁かれる被告たちの口まで閉じてしまったのだ。こうして、日米

双方の”身勝手“が理不尽に泣く少数の犠牲者を踏み台にして決着を図ったのである。

この論法は現在に続いている。

あるTV番組では、コメンテーターとして山極寿一氏が登場し、こう発言した。

“一番大切なのは憲法前文にある「日本国民は政府の行為よって再び戦争の惨禍が起こ

ることのないやうにすることを決意し」という言葉です”

言うまでもなく、この文言のキモは“政府の行為によって”という部分であり、これによ

って一般国民は一種の”アリバイ“を得たことになっている。

山極氏といえばゴリラ研究でおなじみだが、元京大総長にして前(29代)日本学術会議

会長を務められた、言うならば学会のトップである。本当は“平和を愛する諸国民の公

正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した”というくだりも

付け加えたかったのかもしれないが、さすがにウクライナの状況はそれを許さなかった

のであろう。

今や既に、国民の大半が戦後生まれとなってはいるが、否、であるがゆえに、このまま

でいいのだろうかとつくづく思う。

アメリカの占領政策は、建前としては”日本の民主化“であるが、本音は”日本が二度と再

アメリカの脅威にならない“ようにすることであった。そのためマッカーサーは次の

五つの方針を掲げた。

 1.婦人解放 2.労働組合の助長 3.教育の自由化・民主化 

 4.秘密的弾圧機構の廃止 5.経済機構の民主化

具体的には、選挙制度の改正、財閥解体、農地改革、教育基本法の制定、国家神道の廃

止などである。その総仕上げが「新憲法の制定」というわけだ。

これらの改革は痛みを伴うものではあったが、その痛みは主として既得権益を有する者

に向けられたものであり、多くの国民はむしろ歓迎した。

人間宣言”をして”象徴“となられた天皇は、全国を巡幸されて国民を勇気づけ、日本は

奇跡の復興を遂げてゆく。そして1964年10月、20年足らずで新幹線を走らせ、オリンピ

ックを開催するのである。

吉田茂は、後にマッカーサーを“天皇制を護った恩人”と評したが、国民もそれをうすう

す感じていた。わずか前まで憎悪の対象であった連合国軍最高司令官が、”人気者“に

なったというのがその証である。当然ながら彼の人気はアメリカ国内においても絶大で

あった。

開戦時の大統領ルーズベルトは、史上最も長い13年目を迎えていたが、日本の敗戦が色

濃くなった1945年4月12日に脳卒中で急死し、副大統領のトルーマンが後を継いだ。

マッカーサールーズベルトにはまあまあ協力的であったが、トルーマンとは全くそり

が合わなかった。元々政治に関心があり大統領の座を狙っていた彼は、1948年の共和党

代表候補者となることを目指していた。しかし、代表選においてライバルのトーマス・

デューイに大差で敗れ、さらに本選では民主党トルーマンが勝って33代の大統領に就

任したので二人の溝はさらに深まった。そして朝鮮戦争の方針をめぐって対立し、

1951.4.11の深夜、トルーマンは電撃的にマッカーサーを解任した。突然の解任劇は、

辞任を許さないための処置であった。

羽田から帰国の途につくマッカーサーを見送る群衆は20万を超え、本国でも大観衆が英

雄の帰国を歓迎した。この時点では、人気で言えばトルーマンよりもマッカーサーの方

が上だったかもしれない。だがこの後すぐに劇的な変化が起きる。

発端は4月19日の上下両院合同会議における彼の退任演説である。そのさわりの部分は

こんな内容だ。

“戦後、日本国民は近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。

見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は戦後の焼け跡

の中から立ち上がって、個人の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち

立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、社会正義の推進を

誓う真に国民を代表する政府が作られました。今や日本は、政治的にも経済的にも、そ

して社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。世界の信頼を裏切る

ようなことは二度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれなが

らもこれに対処し、前進の歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い

止めた際の見事な振る舞いは、日本がアジアの趨勢に極めて有益な影響を及ぼすことが

期待できることを立証しています。私は占領軍の4個師団を全て朝鮮半島の戦場に送り

ましたが、それによって生じる日本国内の力の空白にはいささかの懸念もありませんで

した。結果はまさに私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで、秩序正しく、勤

勉な国を私は知りません。また人類の進歩に貢献するという意味において、これほど大

きく期待できる国を他に知りません。“

この演説は、戦後の日本を称賛することによって自分の占領政策の成功をアピールし、

政治的手腕が優れていることを示そうとしたものとも受け止められるが、米国内では素

直には受け止められなかったであろう。極め付きは2週間後(5.3)に開かれた、米上院

軍事・外交合同委員会の聴聞会における発言である。テーマは「極東の軍事情勢とマッ

カーサーの解任」で、トルーマン政権に打撃を与える狙いを持って共和党のヒッケンル

ーパー議員が質問に立った。

“五つ目の質問です。赤色中国の海空封鎖という貴官の提言は、太平洋作戦において日

本軍に勝利した戦略と同じではありませんか?」

この質問はトルーマンの不拡大戦略は間違っている」という回答を期待するものであっ

たが、マッカーサーの答弁は意外なものであった。

“皆さんには、日本が抱える8千万人に近い人口は四つの島々に詰め込まれていたことを

理解していただかねばなりません。そのおよそ半分は農業人口で、残りは工業に従事し

ていました。潜在的な日本の労働力は、質量ともに私が知る限り何処にも劣らぬ優れた

ものです。何時のころからか、彼らは労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つま

り、人間は何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っている時の方がしあわせだ

ということをです。

そして、このような膨大な労働力の存在は、何か働くための対象が必要であることを意

味していました。彼らは工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材(basic

materials)を持っていませんでした。日本には蚕を除いては国産の資源はほとんど何も

ありません。

彼らには綿がなく、羊毛がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、錫がなく、ゴムがな

く、その他にも多くの資源が不足しています。それらの全てのものはアジア海域に存在

していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では1千万人から1千2百万人

の失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた目的

は主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。“

下線部分の原文は、Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security である。

のちに渡部昇一が、“なぜか日本のメディアが無視したこの言葉を、是非英語のままで

記憶してほしい”と訴えているとおり、極めて重大な発言だ。当然ながら、共和党さえ

もあきれ果て、マッカーサー人気は地に落ちた。

更にマッカーサーは、日本での人気をも急落させる発言を行った。

アングロサクソンを45歳とすればドイツ人も同程度に成熟していた。日本人は我々の

45歳に対して12歳のようである”と言ったのである。この発言は日本人の知るところと

なり、当然のごとく日本でのマッカーサー人気もガタ落ちした。

しかしながら、その前後では、“日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受

容力がある”とも述べているので、日本人は“12歳の少年のように純真で頭が柔らかく伸

びしろがある”と言いたかったのかもしれない。そして前の部分と合わせるとその方が

つじつまが合っている。12歳というのは、いわゆるティーンエージャー(13~19)に満

たない年齢なので、より純真さを強調したものと考えられる。

そして、マッカーサーはこんな予言めいた発言もした。

“太平洋において、米国が過去100年間に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国

において強大にさせたことだ。次の100年でその代償を払わねばならないだろう-”

質問者の意向を全く無視したこれら一連の答弁の意図がどこにあったか、それをうかが

い知る資料は残されていない。あるいは未だ発見されていないので分からない。

目立ちたがり屋特有の失言だったのか、単に空気が読めない人だったのか、或いは大統

領の目がなくなったことを感知しての開き直りだったのか・・・。

元々彼はとびぬけて優秀ではあったが、士官学校で上級生のいじめに遭っているよう

に、態度がでかく、あまり好かれるタイプではなかったらしい。日本でも最初は”無礼

な奴“と見られていた。その後次第に人気が高まったのは、彼には差別意識がなかった

からではないかと思う。

いずれにせよ、その後の世界は、概ねマッカーサーの発言(予言)の通りに推移してき

たようにも見えるのだが、それは私だけだろうか。

                         2023.8.25

 

 

 

国歌は語る(最終回)=関係五か国の総まとめ(Y-55)

このシリーズでは、国名や国旗・国歌にはその国の成り立ちや性格、或いは民族の願い

などが内包されているという前提に立ち、我が日本と関係の深い4か国について個々に

述べてきましたが、最後に総まとめとして、分析比較してみたいと思います。

この作業は、本来“人を「束ねない」「仕分けない」”という私のモットーに反するもの

ではありますが、敢えて誇張気味に、そしてやや意地悪にまとめてみたいと思います。

要素として取り上げたのは、サイズ(面積、人口、GDP、軍事費)、第一印象(真っ先

に思い浮かぶ特質)、精神的支柱(規範)、価値判断(何で動かされやすいか)、外交

(歴史的に見た外交姿勢)の5項目で、出来上がった結果が次の表です。

              <5か国の比較表>

 

サイズ(日本を1としたとき)

 

 第一印象

 精神的支柱

(規範)

 

価値判断

 

外交

面積

人口

G

D

軍事費

地形的或いは歴史的な

特質

評価・判断或いは行為などのよりどころ

何で動かされやすいか

歴史的に見た時の外交姿勢

 日

島国

辺境

美と和

空気

外的圧力

忖度

Ignore

26

19

新興

皆の衆

理想/現実の波

独善的公正

Contract

 中

25

12

中華

共産

イデオロギー

損得

以夷制夷

wolf of war

 露

45

0.3

極北

化外

猜疑心

恫喝

Spy

0.3

0.4

0.3

半島

事大

儒教

自大

Turn

 

<表の解説>

サイズ :日本を1とした時のサイズで、特に目立つのは、ロシアのGDPに対する軍事 

    費の大きさです。また、今回北朝鮮は対象から外しましたが、仮に南北朝鮮が

    統一されると面積、人口は0.6になり、GDPや軍事費がどうなるかは不明です。

第一印象:私の頭に真っ先に浮かんでくるその国の特徴です。

     日本の「辺境」は内田樹氏、米国の「皆の衆」は渡部昇一氏の説からの引用

    ですが説明は省略します。ロシアの極北、化外というのは、グーグルマップで

    ロシアの国土を流し見したときの印象です。恐ろしく広大で、高緯度、国土の

    大半が樺太以北にあり、ウラル山脈より東は人の気配がほとんどありません。

    韓国の「半島」と「事大主義」には宿命的なものを感じます。

 

精神的支柱:われわれ日本人は規範となるべき宗教や思想哲学を持ちません。それに代

    わるものとして、「美」と「和」があると考えます。“日本人は善悪や正否を

    美醜で判断する”という傾向が確かにあり、また“和を以て貴しとなす”という心

    情は脈々と受け継がれ、それが日本の個性を形成しているような気がします。

    中国の「イデオロギー」は、歴史的に見れば”異質“で、この先何百年もという

    ことにはならないでしょう。

    ロシアは基本的に”力“の信奉者で、ナポレオンやヒットラーに勝ったことが国

    民のよりどころとなっています。

価値判断:いいタイトルがなく「価値判断」としましたが、”何に動かされやすいか“と

    いうことです。

   ・(日) 日本社会では、その場の雰囲気が物事を決めるとよくいわれ、また、な

    かなか決められないことは、究極的に外圧によって決することが多いように思

    います。コロナ禍におけるマスク着用や行動自粛、幕末の開国など、そのよう

    な例はいくらでも挙げられるのではないでしょうか。

   ・(米)アメリカは基本的に皆の衆国家で、一般大衆が理想と現実の波のなかで

    揺れ動いているように見えます。民主主義とはつまるところ “よりましなと

    ころ”を選択することであり、“現実の矛盾をどこまで許容するか” であること

    を示しているのがアメリカであると言えそうです。

   ・(中)中国はどちらかといえば商業民族で、価値判断の基準は「損得」ではな

    いかと思います。中国共産党は、当初の理想を失うというよりは自ら破棄し、

    いかにして「漁翁得利(漁夫の利)」を占めるかに集中しています。そして国

    民がそれを支持しているのは、もともと商業民族的な資質があったからだと考

    えます。

   ・(露)ロシア(人)は、“外から攻められた記憶”と”爪はじきにされた記憶“が

    深く刻まれており、基本的に外国に対する”猜疑心“から脱することができない

    ようです。国際社会において中国と歩調を合わせる例は数多くありますが、そ

    れは対米・欧政策上の方便であって、信頼関係を結んでいるわけではありませ

    ん。露はいかなる国とも対等の同盟関係は結ばず、兵器はほぼ純国産で最高レ

    ベルを保ち続けています。極論すれば、“猜疑心”が国を動かしているが如くに

    見えるのです。

   ・(韓)韓国はときに“情治国家”と呼ばれることが在ります。国際条約も国内法

    も裁判所の判決も”情“に左右されることがよくあるからです。良くも悪くも儒

    教的な思想が染みついており、”あるべき姿“が定められたルールを超越すると

    いう現象は国際的にも国内的にもしばしば軋轢を生んでいます。

外交 :・(日)一般的に、国民は自国政府の外交には不満を持つようですが、特に日

    本はその傾向が強いように思います。それは政府ばかりでなく民間の交渉にお

    いても言えることで、いわば国民性に根差した問題なのかもしれません。何故

    そうなるかといえば、日本人は交渉の際に最初から相手方の立場を考慮して、

    やや自分有利の条件を提示するのに対し、相手方は自分側最大有利の条件を出

    してくるからです。それが彼らにとっては、”フェア“な行動原則なのです。

    言い換えれば、日本の”美と和“の精神が”忖度“として作用し、不利な戦いを生

    んでいるのかもしれません。

    もうひとつ、[Ignore] と記しているのは、時に“知らぬ顔をする”という意味で

    す。“面従腹背”と言ってもいいかもしれません。これは“辺境”であればこその

    対応といえるでしょう。

   ・(米)40年ほど前、仕事の都合でアメリカに1か月ほど滞在しましたが、その

    当時は喫煙規制は極めて緩やかなもので、吸い殻のポイ捨てもお咎めなしとい

    った状況でした、ところが数年後に訪米したときには状況は一変し、工場内は

    全面禁煙、ホテルなども屋外の片隅で、移民と思しき有色人種が暗い表情で喫

    煙している姿をたまに見るといったほどの徹底ぶりでした。

    アメリカはかつて禁酒法を成立させた国です。その国が未だに銃規制をするこ

    とができません。西部劇では、悪漢がろくに銃を使えない市民をけしかけて、

    正当防衛の名のもとに殺害する場面がよくあります。“多様性の尊重”をうたい

    ながら、アメリカはあれこれちょっかいを出します。アメリカの「公正」は多

    分に独善的な香りを漂わせていると言わざるを得ません。但し契約はよく守る

    国民性でもあります。それは宗教からきているのかもしれません。

   ・(中)中国の伝統的な外交方針は「遠交近攻」と「以夷制夷」で、基本的に

    「漁夫の利」を求める姿勢であったと考えますが、コロナのあたりから態度が

    変わり「戦狼外交」(wolf of war)とも呼ばれる強気の姿勢や発言が目立つよ

    うになりました。これはまさに国力に対する自信の表れであり、いよいよ武力

    による台湾統一に踏み切るのではないかと懸念されていましたが、プーチン

    失敗を目の当たりにして、その懸念はやや遠のいたと見てもよさそうな気がし

    ます。

   ・(露)ロシアの強みといえば「資源」と「軍事力」、弱みは対外的には信頼感

    の欠如かと思いますが、対内的には種々の問題があります。しかしそれらは、

    つまるところ平均寿命に集約されています。ロシアの平均寿命は、最も高かっ

    たコロナ前の2019年で、男性68.2・女性78.2歳です。これは、183か国中の118

    位と74位ですから、開発途上国のレベルと言わざるを得ません。しかも各国が

    概ね順調に寿命を延ばしている中で、ロシアは1960年ごろから上下を繰り返し

    全く向上する気配がありません。短命に終わる最大の要因と目される「アルコ

    ールの過剰摂取」対策もなく、政府予算の多くは、資源開発と軍事力の増強に

    向けられ、社会保障関係は貧弱です。そして、強みである資源力と軍事力に物

    を言わせて「恫喝外交」と「スパイ活動」を続けていると言えば言い過ぎでし

    ょうか。

   ・(韓)第一印象の項に「事大」と書きましたが、この項には「自大」と入れま

    した。「事大」は孟子の言葉で、弱いものは“大に事(つか)える”ことを良し

    とする思想ですが、これを「自大」とセットにしているのが韓国の伝統的な外

    交です。「自大」は自らを大きく見せることですから、バランスをとるために

    必要なことなのかも知れません。もう一つ、「Turn」を挙げたのは、この国は

    ときに変節をするという意味です。つまり、“手のひら返し”です。これらはす

    べて、「半島」で生き延びるための“宿命”であったとして、同情してもいいの

    ですが、そうすればまた彼らはそれに反発するでしょうね。しかし、半島が

    中・露になることだけは阻止すべきであり、我が日本にとって極めて重要な国

    であることに変わりはありません。

    以上が最後のまとめですが、初めにお断りした通り、「誇張」と「意地悪」が

    出すぎましたでしょうか。

                          2023.07.26