樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

靖国神社について(8)(Y-63)

<富田メモ

富田メモ」とは、平成18年7月20日日経新聞が一面トップで「昭和天皇A級戦犯靖国

合祀に不快感」と報じる根拠となった、元宮内庁長官富田朝彦氏のメモのことです。

富田氏は平成15年に亡くなりましたが、手帳14冊、日記13冊の記録を残していました。

その資料を遺族から預かった日系の記者が、問題のメモを発見しスクープしたのです。

走り書き4枚のそのメモは、手帳の昭和63年4月28日、つまり昭和天皇最後の誕生日の前

日に当たる頁に貼り付けられていたということですが、最初に公表されたのは4枚目の

後半部分のみでした。

丁度その当時は、小泉首相靖国参拝が議論を呼んでいる最中であったこともあり、全

メディアが取り上げる騒ぎとなりましたが、メモ自体は断片的で本物かどうかを疑う声

も少なくありませんでした。やがてその前半部分が、さらには3枚目も明らかになりま

したが、これは本来公文書として扱われるべきものだとして富田家への批判も強くな

り、それ以上の情報は閉ざされてしまいました。

3枚目の頭には、63.4.28 ☆「Pressの会見」と書かれており、“昨年は”という言

葉ではじまっています。そして62年の記者会見のことや、ご自分の健康状態などに関

するご発言が記録されています。

そして問題の4枚目、いわゆる「富田メモ」と呼ばれるのがこれです。

 

 *富田メモ

  前にもあったがどうしたのだろう

  中曽根の靖国参拝もあったが

  藤尾(文相)の発言

  =奥野は藤尾と違うと思うがバ

  ランス感覚のことと思う 単純な

  復古ではないとも

 (最初に報道されたのはこのあとからの部分)

  私は或る時にA級が合祀され

  その上松岡、白取(ママ)までもが

  筑波は慎重に対処してくれたと

  聞いたが

  松平の子の今の宮司がどう考え

  たのか

  易々と

  松平は平和に強い考えがあった

  と思うのに

  親の心子知らずと思っている

  だから私あれ以来参拝していな

  い

  それが私の心だ

 

*真贋論争

 このメモについては“偽物ではないか”という意見や、本当に昭和天皇の本心なのかと

いう疑問の声も数多く上がりました。

 有力な指摘や疑問点を挙げれば、次のようなものが挙げられます。

・記者会見が行われたのは4月25日であり、そもそも怪しい。

・4月28日に記者会見しているのは、徳川侍従長なので、彼の発言ではないか。

・それまでの昭和天皇のご発言や性格とあまりにもかけ離れている。

・健康上の問題が影響している。(前年すい臓がん手術、会見から約8か月後に崩御

・富田長官が歴史に疎く誤解がある。(彼のフィルターがかかっている)

これに対し、日経新聞は「富田メモ研究委員会」を設置し、「不快感以外の解釈はあり

得ない」と結論付けました。日経新聞としては当然の主張で、委員には御厨貴、秦郁

彦、保坂正康といったまあ信頼できる識者が選ばれており、半藤一利磯田道史といっ

た人たちも”本物“と断定しているので、このメモが偽物でないことは間違いないと思わ

れます。

しかし、このメモが概ね昭和天皇のご発言に近いものであるとして、その解釈について

は、通説に対する私なりの異論があります。それは後に述べるとして、その前にメモに

書かれている事柄や人物等について調べてみましょう。

<メモの分析>

私は或る時にA級が合祀され

 合祀されたのは昭和53年10月17日で、その10日前の10月7日に上奏名簿により、宮内

庁を通じて報告が上がっているはずです。多くの資料や記事などに“秘密裏に合祀”と書

かれており、このメモの空白部分にも“全く関係者知らず”という縦書きの言葉が加えら

れていますが、それはもともと公表しないという取り決めだったのです。

松岡

 松岡洋右外務大臣は、昭和天皇が懸念されていた三国同盟を推進した人で、専門家

の間では、天皇から特に嫌われていた人物として知られています。しかし天皇は個人批

判をなさらない方なのに、専門家ほど騙されそうな事実(松岡を嫌っている様子)を潜

ませるのは、贋作づくりの常套手段ではないかと怪しがる向きもあります。松岡洋右

判決前に病死したので、厚生省からの合祀予定者名簿には入っていませんでしたが、

法務死」扱いとなっていたことから合祀名簿に加えられたのではないでしょうか。

前回述べたように、先の大戦における犠牲者の勧請(招魂)の儀式は既に“一括招魂”の

形で終えています。

*白取

 白鳥敏夫元駐伊大使のことで、単なる誤字ではなく富田元長官が“歴史音痴”だったの

ではないかという説の根拠にされています。白鳥元大使も三国同盟の推進者で、終身刑

の判決を受けましたが、受刑中に死亡しました。昭和天皇との直接の対話機会はあまり

なかったのではないかと思われます。

*筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

 筑波藤麿第5代宮司のこと。山階宮菊麿王の第3王子で東京帝大国史学科卒。昭和3年

臣籍降下が認められ筑波の姓を賜ります。昭和21年から靖国神社宮司を務め、34年BC級

戦犯を合祀、A級についてはいずれ合祀するが時期については慎重に判断するというこ

とになり、結局在任中には合祀しませんでした。つまり、合祀を決定したときの宮司

筑波宮司でありA級の合祀に反対していたわけではありません。

松平の子の今の宮司

 松平は松平慶民のこと。福井藩松平慶永の3男で1908年オックスフォード大卒。

大正元年(1912)侍従となり以降一貫して宮内省に努める。皇族や上級華族に対しても

遠慮なく発言し「昭和の殿様」「閻魔大王」と称された皇室の御意見番のような人。

今の宮司とは慶民の子松平永芳宮司のことで、海軍機関学校から海軍少佐で終戦を迎

え、戦後は陸上自衛隊に入り1等陸佐で退官します。

昭和53年筑波宮司の死去に伴い、最高裁元長官で「英霊にこたえる会」会長石田和外氏

の強い勧めで第6代宮司に就任。就任からわずか3か月後の10月17日、保留状態にあった

A級戦犯の合祀を断行しました。彼の言い分は次の通りで、”易々と”かも知れませんが

むしろ筋が通っているようにも感じられます。

国際法的に認められない東京裁判で戦犯とされ処刑された方々を、国内法によって戦

死者と同じ扱いをすると政府が公文書で通達しているから、合祀するのに何の不都合も

ない。むしろ祀らなければ、靖国神社は僭越にも祭神の人物評価を行って、祀ったり祀

らなかったりするのかとなる”

*奥野は藤尾と違うと思うが

前段に名前がある奥野は、奥野誠亮元法相のことで、このメモが書かれた直前の4月22

日、「戦後43年経ったのだから、もう占領軍の亡霊に振り回されることは止めたい」な

どと発言しました。彼は「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の初代会長でも

あります。

また、藤尾は藤尾正行元文相のことで、入閣直後に「東京裁判は勝者の裁判であり不

当」、「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任があ

る」などと発言し、中曽根首相から罷免されました。他にも、靖国神社参拝を見送った

中曽根首相を「そうしなければわかってもらえないというのは外交がいかに拙劣かを示

している」と批判するなど「放言大臣」とも呼ばれました。

*私なりの解釈

富田メモから窺える昭和天皇はそれまでのイメージを覆すものです。高齢で体調もすぐ

れなかった昭和天皇が”本音(?)“を語られたものであるとするならば、表面的に受け

取るのではなく、その真意を探らなければなりません。

次のエピソードは一つの参考事例です。

敗戦直後、日本政府は先手を打って日本側で戦犯を裁こうとしたことがあります。

そうすれば、連合国も無茶なことはしにくいだろうという作戦です。このとき昭和天皇

はどういう態度を示したのでしょうか。実はこれに反対されたのです。その理由は、

「敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠をつくしたる人々な

るに、之を天皇の名において処断するは不忍ところなる故、再考の余地はなきや」

というものでした。

政府はそれを押し切って裁判をすると決めたのですが、GHQににべもなくはねつけられ

ます。“連合国はいかなる点においても、日本と連合国を平等と見なさないことを日本

が明確に理解することを希望する、日本は文明諸国間に地位を占める権利を認められて

いない。敗北せる敵である”とまで言われ、この策は木っ端みじんに砕かれました。

他にも、昭和天皇A級戦犯と呼ばれる人たち全員に対して、”不快感“を抱かれていた

わけではないことを示すエピソードはいくつも存在します。

櫻井よしこ氏は、”あの不当な東京裁判で自らの命を差し出すことによって天皇と皇室

を守り、日本国を守ったのがA級戦犯だった。88年4月当時の昭和天皇は体調も悪く、

メモのような発言があったとしても、ご自分の真意を十分に伝えることが出来ていなか

ったのではないか“と語っています。

以上、これらの事実や意見を参考にすると、富田メモの読み方も少し変わってきます。

キーワードは、“松岡、白鳥までも”と”易々と“というご発言です。つまり、昭和天皇

は、この二人が日本の針路を誤らせる元となった三国同盟の推進者であるばかりでな

く、病死した文官なのだから靖国に祀るのはどうか、というお考えを述べられたのでは

ないかということです。

”までもが“という言葉からは、他にもあまりふさわしくない人物がいることを匂わせて

いますが、全員ではないという意味にもとれると思います。

また、合祀そのものは、筑波宮司の時代に決定している事項ですから、”易々と“という

のは、”今がその時(合祀祭を行うタイミング)ではない“という意味でしょう。

天皇靖国神社御親拝は、元来さほど頻繁ではありません。勅使を派遣するという形が

通例です。最後の御親拝は昭和50年で、それは40年に戦後20周年の節目として参拝した

例に倣い、30周年を期して行われたものです。”だからあれ以来参拝していない“という

のは、靖国神社が政治外交の争点になり、静謐な環境が失われつつあった中で、A級戦

犯合祀問題がダメ押しになったという意味ではないか、私にはそう感じられるのです。

 

色々あった末に、身動きが取れなくなった感のある靖国問題ですが、はたして解決策は

あるのでしょうか、次回はそのことについて考えてみたいと思います。おそらく、それ

が最終回になるでしょう。

                       2023.11.22