樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

ジェンダーフリーと夫婦別姓について(Y-31)

3月8日が「世界女性デー」ということで、例年通り、日本の男女格差問題があちこちで話題となりました。

もはや聞き飽きた感もありますが、日本の男女格差は121位であるとか、女性の働きや

すさランキングが主要29か国中の28位であるとか、女性閣僚の割合が151位であると

か、そんないわば不名誉なデータが次々に発表されています。しかもそれらの順位は、

年々悪化する傾向にあるのだからたまりません。しかし日本の内情は、大臣であろうが

重役であろうが、家庭では奥方の尻に敷かれていたり、サラリーマンたちの多くが専業

主婦の妻に財布を握られていたりするわけで、日本男児としては、それらのランキング

に納得できない気持ちがあることも否定できません。

ジェンダーフリーという言葉は実は和製英語だそうですが、その主張や活動の中には、

その正当性が感じられないものも多々あるように思います。

例えば、アメリカに「ゲリラガールズ」というグループがあって、その主張の一つに、

“女は裸にならないと美術館に入れないのか!”という訴えがあります。

どういうことかというと、“メトロポリタン美術館にあるヌード絵画に描かれているの

は76%が女性なのに、女性アーチストの作品は4%しかない、不当な差別だ”というのです。

あるいは、プロ・スポーツの賞金額や選手の年俸に男女格差があるといった訴えや、

単純に平均賃金を比較して問題にするケースも見られます。

女性が広く社会に進出するのはいいことだし、意思決定の場により多く参画することも

いい方向で、クオーター制を取り入れることにも賛成ですが、やみくもに数合わせをす

ることは却ってよくない結果を生じることもありそうです。

例えば、旧ソ連では政策的に物理・工学分野の研究者を同数としたことが在りました

が、体制が崩壊して自由になると、多くの女性研究者が生物や医学系などの分野に専攻

を変えたという事実があります。

ジェンダーフリーの活動家たちの主張を聞いていると、二つの疑問を感じることがあり

ます。一つは、「男女平等」という大義名分の下に、実は「女性の特権」言い換えれば

実質的には「逆差別」となることを要求しているのではないかということ。もう一つ

は、女性が主要な役割を担っている家事や子育てを自ら「軽視」しているのではないか

ということです。

 

さてここに、それが男女差別に当たるかどうかは微妙で、保守系対リベラル系が長年に

わたり争ってきた重要なテーマがあります。

それは、「選択的夫婦別姓」の問題で、そろそろ国民として腹を決める必要に迫られて

います。というのも、日本のようなタイトな夫婦同姓を原則としている国は、今では

皆無という状況となり、国連機関からも数回の改善勧告を受けているからです。

保守系の言い分は、「日本の伝統」「家族の絆」「行政機関の都合」といったところ

で、リベラル側は、「ジェンダー平等」「世界の潮流」「憲法違反」といった理由です

が、双方とも国民の圧倒的支持を得るには至っていません。というより、国民自身が迷

っている状態と言っていいでしょう。

国民が迷っている原因は何処にあるのでしょうか。

それはおそらく保守/リベラル双方の言い分に説得力がないからです。

保守側が主張する「日本の伝統」が嘘であることは中学生でもわかります。

北条政子は源政子にはならなかったし、苗字がなかった秀吉が木下藤吉郎を名乗ったの

は正妻の「おね」が木下家だったからで、そのおねの父も、もとは杉浦姓の武将(?)

で、木下家に婿入りした男でした。秀吉はその後も「羽柴」「豊臣」と名を変えてゆく

わけですから、いわば自由であったわけです。そもそも天皇家に苗字はなく、庶民も

苗字が許されない状態が長く続いたわけで、保守派は明治21年の旧民法からの決まりを

日本の伝統と言っているにすぎません。

日本以外の国は皆家族の絆が破綻しているというわけではないし、逆に同じ苗字でいが

み合っている家族も稀ではなく、同姓を名乗ることと「家族の絆」にはさほどのつなが

りはないと考えられます。通常、家族は下の名で呼び合っているわけで苗字の違いは

さほど気にならないか、”慣れ”の問題だろうと思います。

また、「行政の都合」はマイナンバー制度を義務化すればほぼ解決できるでしょう。

リベラル側の主張も同様に、あまり説得力がありません。

ジェンダー平等」については、かつて小泉首相が答弁したように法的には男女差別が

あるとは言えないでしょう。民放750条には“夫婦は婚姻の際に定めるところに従い夫又

は妻の氏を称する”

と定められていますので、どちらを選ぶことも可能で男女差別はないのです。この考え

方は、実は明治の旧民法からあったのですが、実態としては嫁入り対婿入りの差で圧倒

的に夫の姓となることが多かったというだけのことです。

憲法違反」についても同様です。

最高裁の判決もありますが、もし「姓」による差別を受けている例があるとすれば、

それは男女とは別の問題です。

ただ、最後の「国際的な潮流」という理由だけはその通りかもしれません。比較的最近

まで粘った末に、ようやく2013年になって法律改正したオーストリアとスイスは、何と

一気に「原則夫婦別姓」に改正してしまいました。

では、日本のメディアはこの問題をどうとらえているのでしょうか。調べてみると、

どうやら選択的夫婦別姓制度に疑問を投げかけているのは産経新聞のみで、あとの全国

紙地方紙を合わせた30社以上は賛成の立場を表明しています。

国民の世論調査では、賛否が拮抗する状態が長く続いてきましたが、2016年に郵送方式

で朝日・読売が実施した調査では、読売では賛成38%反対61%、朝日では賛成58%反対

38%と全く逆の比率となりました。読売の結果は意外な気もしますが、要するに国民は

まだ迷っている状態だと思われます。

しかし、国民の気持ちが最もよく表れているのは、2015年の毎日の調査で示された

数字、「個人としては同姓を選ぶ73%」ではないでしょうか。つまり、この数字は、

国民の多くはすでに、“自分は同姓を選択するが、夫婦別姓を望む人がいるならそれを

認めてもよい”というところまで変化していることを示していると思うのです。

そこには、国際結婚や再婚・再再婚などの増加、女性の存在感や知名度の上昇といった

要素が影響しているものと思われます。

要は、改姓したくない人たちの理由をくみ取ってやる必要があるということです。

一人っ子と一人っ子の結婚では両家ともに家名を残したいという事情もあるでしょう。

両者が事業経営者であったりする場合や何度も姓を変えるのはイメージが悪いといった

理由もあるかもしれません。いずれにせよ、改姓による不利益に対する配慮がより求め

られる時代になっていることは間違いないと思うのです。

選択的夫婦別姓制度はいわば時代の要求で、いずれそう遠くない将来に法改正が行われ

るものと予想されます。それを遅らせているのは、むしろジェンダー平等活動家たちの

方で、この問題を男女差別と結び付けていることや、“亀井静香荒川静香が結婚した

ら夫婦が同姓同名になる”など、的外れなことばかりいっていることが国民を混乱させ

ているのではないでしょうか。

                         2021.3.12

 

楽観は母の形見(Y-30)

何となくではありますが、楽観論(者)・悲観論(者)あるいはオプチミスト・ペシミ

ストといった言葉を、最近はあまり見聞きしなくなったような気がします。

これに取って代わる言葉としては、ポジティブ・ネガティブが一般的で、若者たちの間

ではネアカ・ネクラが幅を利かせています。

タレントのタモリが流行らせたと言われているネアカ・ネクラは、元々は“見かけによ

らず根は明るい(暗い)”という意味合いが強く、なかなかいい造語センスだと思って

いたのですが、いつの間にか“根っから明るい(暗い)”という意味になって、とくに

“ネクラ”に対する評価は格段に下がってしまいました。つまり、”暗い“に含まれてい

た”深い“が消え、ネクラは”一目置かれる存在”から“いじめの対象”にまで転落してし

まったのです。

しかし、ヒトはそう簡単に二分化できるものとは思われません。楽観と悲観は、あたか

もDNAの二重らせん構造のように同一人物のなかで絡み合っています。

そして、人は概して楽観に支配されているように思われます。またそうでなければ、

起業家は生まれないし、結婚さえもできなくなってしまうでしょう。

 

自分自身はどうかと言えば、基本的にはオプチミストですが、ネクラ的要素もあるよう

に思います。たとえば、昨今のコロナ禍における悲観的な報道がいちいち引っかかると

いうことが在ります。ごく自然に、コロナのおかげで何かいい事が起きていないかと考

えてしまうのです。たとえば、ワクチン開発における新技術が格段に進歩するであろう

ことや、日本の弱点が浮き彫りになったことや、空気がきれいになったことや、オゾン

ホールが復活していること等に関心が向いてしまうのです。いわば“ノリの悪い楽天家”

です。

この性格は、紛れもなく母親の影響です。

幼いころ、母は私にこう言いました。

“お前は運のいい子だから、何が起きてもそれがいちばんいい事だと信じなさい”

母は、おそらく作り話を交えて、何度も何度もこの言葉を繰り返したので、私の頭は

すっかり洗脳されてしまい、この言葉は私の人生に大きな影響を及ぼしました。

”結果オーライ“ではありません。”結果がベスト“だというのです。

思いどおりにならないことや失敗があっても、実はそれがベストなのだというのです。

母はこの言葉を「塞翁が馬」の故事にヒントを得て私に教えたのかもしれませんが、

この言葉が私にどれほど勇気を与えてくれ、そしてどれほど危機を救ってくれた事で

しょう。この言葉は、いわば母がくれた”お守り袋”であり、”忘れ形見”なのです。

だから私は世の母親たちにこの話を伝えたいと思います。

是非、私の母の真似をしていただきたい。

“三つ子の魂百まで”という言葉もあるように、幼子の間に“洗脳”することが肝要で、

おそらくその役割は父親には向いてないのです。

                        2021.3.8

 

 

自転車のあおり運転と玉川発言から(J-53)

テレ朝玉川さんの発言が小さな波紋を広げている。

24日の「羽鳥慎一モーニングショー」で、自転車のあおり運転を”バカ中のバカ“と厳し

く断罪し、”どうすればこういう人がいなくなるのか・・分からない“とコメントしたらしい。

“らしい”というのはその番組を見ていないからなのだが、いつもの玉川さんらしくない

ではないか。さすがに“社会が悪い”とは言えなかったとしても、天下無双のコメンテー

ターが、”分からない“では済まされない。どこかから「喝!」の声がかかっても、文句

は言えませんぞ・・・。

 

そもそもの発端は、“ひょっこり男”とあだ名をつけられた30代の男が、埼玉県内で自転

車による煽り運転を繰り返し、昨年10月に逮捕された事件である。この逮捕は、6月の

道交法改正で新設された「あおり運転」の条項が自転車に適用された初の例でもある。

にもかかわらず、その後真似をする輩が多発しているというのである。

玉川氏はその理由が分からないという。そして、防止策として自転車にナンバープレー

トをつけることを提案している。しかし、理由もわからず対策を立てても効果は期待で

きまい。現に、車にはナンバープレートが付いているが、あおり運転防止の効果には?

がつく。何よりも膨大なコストと手間が予想される。

 

人の行為には何らかの理由がある。その理由を一括りすれば、“欲求を満たすため”と言

えるだろう。どのような欲求があるかは心理学の先生にお任せするとして、ここに

1936年から売れ続けている [How to Win Friends and Influence People] (邦題:人を

動かす)という本がある。

そのなかで著者のD.カーネギーこう述べている。

“心理学者ウィリアム・ジェームズは、「人間の持つ性情のうちで最も強いものは他人

に認められることを渇望する気持ちである」という。ここでジェームズが希望するとか

願望するとか、憧憬するとかいう生ぬるい言葉を使わず、あえて渇望すると言っている

ことに注意されたい。―中略― もしわれわれの祖先が、この燃えるような自己の重要

性に対する欲求を持っていなかったとすれば、人類の文明も生まれてはいなかったこと

だろう。”

つまり、“自己の重要感を満たす”という本能とも言うべき強い願望が、人の行動を支配

していると彼は主張するのである。ところがこの欲求は、いい方向・悪い方向のどちら

にもはたらく。

いい方向に向かえば、発明発見やスポーツ選手の新記録やその他もろもろの成功物語を

創出するが、悪い方向に向かえばパワハラやいじめなどにつながる。最悪のケースは

無差別殺人だ。

自転車のあおり運転は、子供がわざと危ないことをして親の気を引こうとする行為に似

ている。子供にとっては、親が駆けつけて叱ってくれれば成功だ。つまり、あおり運転

をする輩は、その行為がテレビで流れれば”大成功“なのである。

メディアはそのことに気づかねばならない。

“自己の重要感を満たす”という願望をを言い換えれば、“有名になりたい”に近い。

そこにメディアは大きく関係している。メディアは、おかしなことを流行らせている責

任の一端は自分たちにもあることを自覚し、基本的な姿勢を変える必要がある。

つまり、不幸なことや醜聞ばかりを報じるのではなく、美談や成功物語を報じるべきな

のである。

「どうすればいいのかわからない」という玉川氏も、本当はそのことに気づいているの

かもしれない。“しかしそれは自己否定になるので言えない”というのであれば、そこに

も「喝!」の声が飛ぶだろう。

                       2021.2.26

 

 

Naomi の時代(J-52)

大坂なおみ選手の2度目の全豪制覇から3つのことを感じた。

一つは、S.ウィリアムズの後継女王争いから、大阪が頭一つ抜け出したということだ。

年齢的に見て、彼女にはまだ“伸びしろ”があり、今後しばらくは大坂なおみの時代が続

きそうな気配が濃厚である。実際、今回の試合内容はそう思わせるほど充実していた。

何がどう変わったのか。

関係者の多くは、メンタル面の成長を挙げている。たしかに、相手に先にマッチ・ポイ

ントを握られてから逆転勝利した対ムグルサ戦や、苦手としていた謝選手に付け入るキ

を与えなかった準々決勝にその成長ぶりがはっきり表れている。

ミスをしても以前のようにイラつくことがなく、“少し違ったか”とでも言いたげな納得

のしぐさや、時に苦笑いをするなど、その表情には常に余裕があった。

パワーやテクニックについてはコメントする能力がないが、私にはフットワークが印象

的だった。彼女のフットワークの良さがプレッシャーとなり、相手が自滅する場面が多

く見られた。要するに総合力がアップしているということだろう。 

これまでの彼女は、芝と赤土のコートではいい成績を収めていないが、今までとは違うはずだ。

オリンピックが開かれれば、今年は特別な年になる。つまり、これまでシュテフィー・

グラフしか成し遂げていない ”ゴールデンスラム“(5冠達成)のチャンスがある。

その挑戦権を持つのは、女子では大坂なおみただ一人で、その可能性は十分ある。

もしそうなれば文句なし、世界のスーパースターとして、そしてトップクラスのインフ

ルエンサーとして、正しくNaomi の時代が確立する。

 

二つ目は、まだ微かではあるが、多民族国家への兆候を感じることだ。

大坂なおみはハイチ人の父と日本人の母から生まれたいわゆるハーフである。

3歳の時からアメリカで育ち、米国籍を選ぶことも可能であったが、彼女は日本国籍

選択した。アメリカで育ちながら彼女の醸し出す雰囲気はどことなく日本人的であり、

それを含めて、彼女が世界の人々に愛されていることを嬉しく思う日本人は多い。

今ふと思い出されるのは、室伏重信という人物である。

ハンマー投げで日本選手権10連覇アジア大会5連覇を成し遂げ”アジアの鉄人“とも呼ばれ

た男だ。その彼もオリンピックとなるとミュンヘン8位、ロス14位と世界には全く通じ

なかった。最高の技術を持っていると言われながらの惨敗である。限界を感じた彼が、そこで何をしたか。

彼はミュンヘンの1972年、ルーマニアやり投げの選手と国際結婚をするのである。

そうして生まれたのが息子室伏広治の金メダルだ。このメダルは、新たな血(DNA)を

求めた父重信の執念が実ったものだと巷では噂されている。父の記録は息子によって破

られたが、未だ息子以外の日本人には破られていない。

 

投擲競技の外にも日本人の金は無理だと思われている競技種目がいくつかある。

しかし、それらの種目も達成不可能な夢ではなくなりつつある。例えば陸上100m、

現実的には100×4リレーの方が先になりそうだが、手が届きそうなところまで接近して

いる。そのメンバーの中心になるのは、やはりサニブラウンとかケンブリッジ飛鳥のよ

うな、いわば海外遺伝子を導入した選手たちであろう。バスケットやバレーなどもおそ

らくそうなる。

日本の人口とオリンピックのメダル数は、どちらも世界的に見た順位で11位程度とほぼ

同じ位置にいる。今後は人口の順位が徐々に下がり、メダル数の順位は多分上がって行

くだろう。そして同時に多民族化が進む。

やがて、スポーツ界や芸能界以外の分野でも、黒い肌や青い目の日本人が活躍する日が

やってくる。いい悪いではない。それが先進国の自然の成り行きだ。

Naomi の時代は、その流れを加速するエンジンとして作用するかもしれない。

 

三つめは女性の社会進出が本格化するということである。

「日本は男性社会である」という説がまかり通っている。単純に議員の数や社長の数で

比較するのはいかがなものかとも思うが、その声に押されたかのようにオリンピックの

トップ3役(五輪担当相・組織委員会会長・都知事)がすべて女性となってしまった。

もしかすると、競技が始まっても、女性選手の方が主役になるかもしれない。

1964年、アジア初の大会となった東京オリンピックで日本は、金16、銀5、胴8、合わ

せて29個のメダルを獲得したが、女子選手が獲得したのはわずか2個(バレーの金、体

操団体の銅)しかない。ところが2004のアテネでは金が9/16、2016のリオでは金が

7/12と男子を上回り、金銀銅の総数においてもほぼ互角の成績であった。オリンピック

に限らず、日常のスポーツでも、テニス、ゴルフ、サッカー、卓球、バレーボール、

スキー、スケート、カーリング・・・浮かんでくる選手の顔は女性が多い。

しかし、誤解を恐れずに言うならば、女性は女性と闘っているのである。男性を相手に

するのは混合種目だけだ。

社会に男女格差があるのは事実である。そして不当な差別は是正すべきである。

しかし、やみくもに数の均衡を図ったり、いかなる分野にも女性の進出を促すといった

方策は、必ずしも女性を幸福にしない。兵士は男の仕事であり、ボクシングは男のスポ

ーツだ。完全なる男女平等は、女性のみに与えられている特権の排除にもつながる。

とはいえ、大義名分を得た男女平等の流れは、その行き過ぎに気づくまで当分続けられ

るだろう。そこにもまたNaomiの時代が、少なからぬ影響を与えそうな気がしてならない。

何故なら、彼女が身を置くテニス界こそ、最も男女平等が進んだ世界だからである。

                            2021.2.23

いい国の証明(Y-29)

思いのほか高い支持を得てスタートした菅内閣でしたが、その後は調査するたびに支持率が下がり、ようやくこの2月になって少し盛り返しました。

支持率を下げた原因には、コロナ対策の不手際などがあげられていますが、どうもそればかりではないようにも思われます。それは、当初から言われていたことなのですが、 “ヴィジョンがない” “国家観がない” ”発信力が弱い“といった物足りなさ、いわば根本的な不満があるからではないでしょうか。だとすれば、今後も発足時の63%に回復するのは夢物語で、40%台が関の山といったところかもしれません。

菅総理は就任時、“安倍内閣の政策を継承する”と表明しました。

ならば、安倍さんは日本をどんな国にしたいと考えていたのでしょうか。

安倍さんは、就任直前に著した自著に「美しい国へ」という表題をつけました。

しかし残念ながら、美しい国の要件について、具体的に示されたものはありません。

もっとも、それを示していたならば、日本を悪く言うことに生きがいを求める人たち

を中心に、大騒ぎになっていたことでしょう。

それを見越しての”美しい国へ“なのでしょうが、厳しい見方をすれば、それは、

 ”ずるいスローガン“ でもあります。反論のしようがなく、結果に対する評価も

難しいからです。

 

どんな国でも、その国民は、自分の国を「いい国」にしたいと願っています。

政治家ならなおのこと、その思いは強いに違いありません。

 ではこれまで、日本の政党や政治家たちはどのようなスローガンを掲げてきたので

しょうか。

思い出してみると、意外にも国家観やヴィジョンを示すものは少ないのです。

最も分かりやすいスローガンは、「所得倍増計画」(池田内閣)ですが、記憶に新しい

民主党の「コンクリートから人へ」と同じく、国家観を示すものではありません。

これは偏見かも知れませんが、どうも日本では国家的スローガンが忌避されているよう

な気がします。かつての「富国強兵」や「大東亜共栄圏構想」などに、必要以上に

イメージを重ねているのではないでしょうか。

ずいぶん前の話になりますが、いわゆる55年体制が崩壊した1990年代、非自民・非共産

8党派による連合政権が誕生したときのメンバーに「新党さきがけ」という政党があり

ました。

この政党が掲げたスローガン-「質実国家」(小さくてもキラリと光る国)-は、

一つの国家観を示すものとして珍しい例で、その思想は、言論界や教育界などに根強く

生き続けているようにも思います。

しかし残念ながら、この考え方は明らかに間違っています。それが成立するのはスイス

シンガポールのような国であり、日本は世界から見れば、決して”小さくない“国

なのです。

 

さて、「いい国」とは一体どんな国なのでしょうか。日本は何処を目指すべきなので

しょうか。

一つの尺度として、国民が幸福であるかどうかという考えが在ります。

そして都合のいいことに、2012年から、国連のSDSN(持続可能な開発ソリューション

ネットワーク)という機関が毎年「世界幸福度報告」を発表しています。

3月20日は「国際幸福デー」に指定されていて、そのころになると毎年「世界幸福度

ランキング」が話題になります。

ところが、信じがたいことに、日本のランキングは初回の40位が最高で、以降ランクを

下げ続け、2020年には韓国の下に並んで62位まで下がってしまいました。勿論、先進国

中では最下位というポジションです。

一体、この調査はどのように行われているのでしょうか。調べてみると、大いに問題が

あることが分かります。

調査対象としては、・一人当たりGDP ・健康寿命 ・社会保障制度 ・人生の自由度

・他者への寛容さ ・国への信頼度 ・主観満足度

といった項目なのですが、項目はともかく問題はその調査方法にあります。

最初の二つは客観的な数字で問題はありません。しかし、あとの項目は次のような質問

に対してキャントリルラダー方式(最悪を0最良を10としたときあなたはどの位置に居

ますか?)で回答させたものなのです。

<質問>

・困ったときに助けてくれる親せきや友人はいますか?(社会保障制度)

・人生で何をするか自分の意思で決められますか?(自由度)

・過去一か月に慈善団体に寄付したことが在りますか?(寛容さ)

・政府、企業内に腐敗が蔓延していますか(国への信頼度)

・あなたは今満足ですか(主観満足度)

日本はこれらの項目の中で、寛容さと主観満足度が極端に低いという特徴があります。

その説明は後で述べますが、そもそもの問題は、幸福度という極めて主観的な問題を数

値化しようとするところに無理があるのではないかと思います。

項目的にはよく似た調査で、イギリスのシンクタンクが発表している「レガタム繁栄指

数」というのがあります。

こちらのランキングでは、総合点で20位前後というのが日本の定位置で、そのあたりが

概ね妥当な日本の立ち位置なのかもしれませんが、経済に重点が偏っているようにも見

えます。

 ところが、アメリカのUSニューズ&ワールドが発表している「最高の国ランキング」

になると日本の評価はガラリと違ってきます。

このランキングで不動の1位はスイスなのですが、毎年2位争いを繰り広げているのは、

日本とカナダ、ドイツの3国なのです。

そして、ランキングの順位以上に注目すべきは、次のコメントです。

“日本人自身は自国を低く評価している。日本国民はその他の世界の人々よりもずっと

ネガティブに悲観的に自国を捉えている。日本以外の国はほとんど他国民よりも自分た

ちをポジティブに見ている。(中略)自信がない国民は自国の悪い面を伝える「逆PR」

をしかねない“

このコメントこそが、最初に取り上げた「幸福度ランキング」の「?」を解消させてく

れるものであり、また日本の悪口を言いたい人たちが好んで「幸福度ランキング」を取

り上げる訳を納得させてくれるものだと思います。

 

実は、私が最も注目するのは、昨年の暮れ(2020.12.10)に発表された「理想の移住

先」ランキングです。これは米国のレミトリー社が、世界101の国と地域で行われた

グーグル検索を分析したもので、従来の調査手法とは全く異なるものです。データ数

などの詳細が分からないので、その信ぴょう性に疑問があるかもしれませんが、評価

対象に魅力があります。つまり外国人が「移住したくなる国」というのは、その一点

だけで「いい国度」を表していると思うからです。

このランキングで断トツの1位を占めたのはカナダですが、2位には何と日本がランク

されています。一般的に、言語的・距離的に近い国が好まれる傾向がある中で、日本

が2位に居るのはなかなかではありませんか。それにもう一つ付け加えると、断トツの

1位となったカナダ人が選んだ移住先は日本なのです。

 

私は、日本の国づくりを考えるとき、目標と成果が定量的に認識できる(数値的に把握

できる)ものがあった方がいいのではないかと思っています。

例えば、次のような項目を総務省あたりがデータ化して、ホームページ上に載せたら

どうでしょう。

・世界の人が移住したいと思う国(さらに信頼できる調査が必要)

・健康長寿国

・国際的な賞を数多く受賞する国

 

それらの中には、安全で、差別がなく、快適な暮らしができ、誇りが持てる といった

「いい国」を客観的に評価できるすべての要素が含まれています。

つまり「いい国の証明」です。そしてそれが国全体の活力になような気がします。

何のためにかと言えば、勿論それは 日本を継続するためです。

で、私が思う日本の現在位置は、”悪くない” ”まあまあ”といったところでしょうか。

                             2021.2.15

 

 

森会長発言と不寛容社会(J-51)

本人が発言を撤回し謝罪したにもかかわらず、批判の嵐が吹き止まない。

毎日新聞は、連日一面トップでこの話題を取り上げ、6日の見出しは、

「森会長擁護・世間とのズレ」である。

その”世間とのズレ“がちょっと引っかかって、我もまた世間であるとの思いで、

あらためて森発言を読み直してみた。

確かに、報道された部分だけを見れば、”けしからん“発言である。

しかし、その発言に至った経緯が省略されていてよくわからない。

どうやら、理事に欠員が出て、その補充に女性を優先することに異を唱えたようだが、

そこはおそらく意図的に省略されている。

 

森発言の趣旨を冷静に読み解けば、理事や役員などの人事において、「女性枠」を

あらかじめ設定する近年の風潮(原則?)に疑問を投げかけたものである。

つまり女性を特別扱いするのではなく、あくまでも”ふさわしい人“を選ぶべきだと

言っているわけで、極端な話、男女比率が今と逆になってもいいと言っている

のである。それが「女性蔑視」となるのは双方の国語力の不足か曲解である。

 

女性差別を声高に訴える人たちの主張をよくよく聞いてみると、つまるところは

「女性に特権を与えよ」と言っているに等しいことが少なくない。彼女らの多くは、

女性の妊娠・出産をハンディキャップとしてとらえているようだが、それは明らかに

一方的な見方である。男から見れば、全く逆の見方も成立する。

 

私の周囲―つまり極めて狭い範囲-での話ではあるが、政界や言論界で活躍している

女性、例えば蓮舫福島瑞穂、辻本清美、田嶋陽子さんといった方々の評判はあまり

パッとしない、どころかすこぶる悪い。つまり率直に言って、世の女性たちの

“あこがれ”になっていない。いわば”反面教師”的存在なのである。

残念というべきか、気の毒というべきか、はっきり言って、女性の進出を妨げている

のは、彼女たち自身なのである・・と思う。

 

それにしても、いつからこんな不寛容な社会になったのだろうか。

失言は誰にでもある。しかもその失言は、単に”誤解を与えたもの“で、本心では

ないことが多い。

釈明しようとすれば、“言い訳するな”という。そして抹殺する。

なんだかおかしい。なんだか住みにくい。

                    2021.2.6

コロナ報道と私のスタンス(J-50)

当ブログを始めたきっかけの一つが“コロナ自粛”だったので、ある意味当然なのだが、

これまでずいぶんコロナを話題にしてきたように思う。何を書いてきたのかはっきりと

は覚えていないが、一括りにすればそれは大手メディアの報道(姿勢)に対する素朴な

疑問をぶつけてきたものだ。で、今回もちょっと引っかかった記事を見つけたので、

その話題から始める。それは、週刊朝日最新号(2.02)の特集で、

「花粉症で拡大・コロナ感染」という記事だ。その理屈は次の通りである。

 

“国民の4割が花粉症で、その中には無症状のコロナ感染者もいる。その人たちが

くしゃみなどをすることで感染を拡大する。また本人も目をこすったり鼻をかんだり

すれば、感染のリスクが高まる。しかも”換気“などは真逆の影響を及ぼすので対策が

難しい”

というものだ。この説は花粉症治療の第一人者日本医科大大久保先生の話として紹介し

ているのだが、なんとなく “言わされている” 感じがしなくもないし、いつもながらの ”つまみ食い“ の匂いも漂っている。

 

ずいぶん前の話になるが、実はこのブログで、“日本のコロナ感染が比較的軽いのは

花粉症のおかげではないか”と根拠もなく書いたことが在る。

それは昨年3月9日の「COVID-19は最強か」に続く、3月11日の当ブログ、

「日本の対応案外悪くないかも」である。

そのころの状況としては、中国の感染者が8万人を超え、イタリアが危機的な局面を迎

えていた時期であったが、アメリカはまだ一日数百人程度の規模で、多くの専門家が

“マスクは予防効果がほとんどない” と言い、皆が中国のマスクの奪い合いを冷笑し、

オリンピックも開催できると主張していた。

私は、事態を軽視しているアメリカの感染拡大を懸念し、また日本では花粉症のない

北海道で感染が拡大したことから、花粉症の抗体かもしくは花粉症対策がコロナ対策に

なっているのではないかと冗談交じりに書いたのである。

 

花粉症との関連性は単なる思い付きであったが、他にどんなことを書いてきたのか、

この際、責任を取ることは出来ないにしても、訂正又はお詫びの必要があるのか、ざっと振り返ってみようと思う。

 

3.26 「若者に響く声明を」では、

 元気な若者が感染拡大の主役になる。「若い人も決して安全ではありません」

 ではなく、「無頓着な若者が高齢者を死に追いやる」と訴えるべきではないかと

 書いた。

 

4.3 「何とか持ちこたえている?」では 

 感染者数ではなくその国の人口に対する死亡率で評価すべきではないかと述べた。

4.7 「緊急事態宣言の波紋」では、

 “日本の宣言には「強制力」がなく、効果は疑問”とする海外の評価とともに

 “効果がなかった場合に、より強力な権限を国家権力に与えようとする動きが出る

 こと  を懸念する日本のメディアを比較してとりあげた。

4.10 「コロナの効用」では、

 医療崩壊を防ぐことができれば、全体の(コロナ以外を含めた)死亡者数が減少する

 可能性に触れた。(現状ではその可能性が十分にある)

4.16 「こだわるテレ朝モーニング・ショウに噛みついてみる」では、

 メディアが主張するPCR検査の拡大について疑問をぶつけた。

4.16 「自粛に慣れよう」では、

 “我慢の限界”という言葉をチラホラ聞くようになって、冗談じゃない

 “人間は慣れる動物だ”とかみついた。

4.20 「敢えての安倍弁護」では、

 身の程わきまえず、内田樹先生と、毎日新聞の「火論」(大治記者)に噛みつく。

4.23 「前言を取り消さない理由」では、

 批判した二方のスタンスに偏りが見られることを指摘した。

5.6 「コロナを遺産に出来るか」では、

 有事モードへの切り替えがうまくできない我が国の弱点について述べた。

5.7 「テレ朝Mショウの不可解な主張」では、

 “国民全体にPCR検査を”という主張がいかに暴論であるかを指摘した

5.10 「コロナが明らかにしたことと今後のこと」では、

 コロナ感染拡大で、中国の存在感がいかに増大しているかを知らされたことを

 書いた。

5.26 「これからがこれまでを決める」では、

 一段落したかに見えるコロナだが、これまでの評価はこれからが決めると述べた。

6.1 「注目すべき情報を何故無視するのか」では、

 ジョンズ・ホプキンス大学の“PCR 検査陰性は感染していないことの照明には

 ならず、その使い道はない” という注目すべきレポートをメディアが無視した

 ことへの批判。

6.4 「ファクターX が見えてきた」では、

 ノーベル賞受賞の山中先生と橋本徹氏の”ファクターX“に触れた対談を紹介。

6.15 「ファクターXesなのか?」では、

 日本の死亡率が格段に低いという謎に対して、考えられる複数の要因を取り上げた。

6.30 「メディアの目」では、

 6.26に発表された厚労省の「人口動態統計速報」に対して、米国のハフポストが

 “日本の超過死亡(何らかの原因で予想を上回る死亡者)はない”とレポートしたが、

 これに日本のメディアが無関心であることを批判した。

7.22 「腹を括ってたえるしかない」では、

 このころ、コロナによる死亡者が1000人を超えた。ワクチンの実用化はまだ

 かなり先 の話だということで、耐えるしかないと書いた。

7.28 「超刺激的 上久保新説」

 大手メディアが取り上げなかった上久保先生の新説“日本ではすでにある程度の集団

 免疫が達成されているので、免疫が消えてしまわないようにある程度ウィルスに

 さらした方がよい、監視すべきは「変異型」の出現である。という説に共鳴

10.21 「腸内フローラとファクターX」では、

 2018.1に放映されたNHKの人体シリーズ「腸」で“日本人の腸内細菌は免疫を

 コントロールする能力がずば抜けて高い”という説を思い出して紹介した。

11.7 「二つの投票にコロナが影響か?」では、

 大阪都構想米大統領選挙へのコロナの影響について推論を述べた。

12.10 「エビデンスでござると迫るだけのメディア」では、

 GoToキャンペーンを批判するメディアを批判的に書いた。

2021

1.19 「コロナが暴いた医療システムの弱点」」

 日本の医療システムの弱点を思いつくまま述べてみた。

 そして。今回の「コロナ報道と私のスタンス」につながる。

 

ざっと振り返ってみて、特に訂正したいところはない。というより、多数派ではないか

も知れないが、私と同じかあるいはある程度似通った考えの人がきっといるはずだと信

じている。だからここまでのところはお詫びも訂正もしないことにしたい。

 

思えば当初、新型コロナは、得体のしれない怖さがあった。志村けん岡江久美子とい

った有名人の急死は一層恐怖感を増大させた。しかし、ようやくその実体がつかめてき

たことも事実である。

週刊新潮2.4号は、東大名誉教授で食の安全・安心財団理事長、唐木英明先生の次のようなコメントを紹介している。

“毎年日本では、約140万人が亡くなりますが、昨年の死亡者数は、10月までの統計で

は、一昨年よりむしろ少ない。コロナが日本の死亡率を上げたという事実はありません。

インフルエンザでは、毎年一万人が亡くなりますが、コロナででは5000人が亡くなると

対策費を何10兆も投じ、社会が大混乱する規制をかける。結果、インフルの死者が今季

はほぼゼロ。仮にコロナを克服しても、マスク着用や会食自粛、海外渡航制限などを続

けなければ、またインフルで1万人が亡くなる。コロナでの5000人で大騒ぎする人たち

は、永久にこの対策を続けないと筋が通りません“

 

この発言は、今でも勇気のいる発言である。仮に政治家がいまこれを言えば辞任に追い

込まれること必至だと思う。

しかし、最近になって、その雰囲気はかなり変わってきたようにも思う。

そのことを如実に示している例として挙げられるのが、ある生命保険会社が新設した

「コロナ保険」である。HPにアクセスしてみたら、32歳の男性で月額1,440円、75歳

では4,284円の掛け金となっている。76歳以上は加入することができない。

つまり76歳以上を除外すれば、十分儲けが出るとソロバンをはじいているわけだ。

冷静に眺めればそういうことなのだ。

だから、前にも云った通り、高齢者へのワクチン投与が済めば、元の生活に戻しても

いいというより、戻すべきだと思うのだがいかがであろうか。

従って、オリンピックも海外客に制限を設ければ、観客ありで実施できるというのは楽

観的過ぎるだろうか。

                            2021.2.2