樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

ワクチンを知ろう(J-49)

新型コロナの猛威は一向に衰えを見せず、なかなか先が見通せない中、最後の切り札として期待されていたワクチンの接種が、米・欧・中・印などで始まった。

相対的に、日本はかなり遅れていると言わざるを得ないが、ワクチン担当に指名された

河野規制改革担当相の旗振りで、2.27(水)、川崎市でワクチン接種のシミュレーショ

ンが行われた。いよいよ医療関係者から高齢者へと優先順位に応じて“プロジェクトX”が開始される。

 

今回使用されるワクチンは、いずれも輸入品である。日本の医学・生理学や化学の分野

ノーベル賞などから推定すれば、世界のトップレベルにあるはずで、本来世界に供給

する側にあるべきだと思うのだが・・・と素朴な疑問を禁じ得ないが、現実は現実だ。

毎日新聞によると、どうやらその原因はMMR(麻疹、おたふくかぜ、風疹の三種混

合)ワクチン事件にあるらしい。このワクチンはいわゆる生ワクチンの一種で、三社が

それぞれ開発したワクチンを混合したものであった。それがトータルで1800人ほどの無

菌性髄膜炎を発症させ、国の責任が問われる事態となり1993年に廃止された。

それを機にワクチン開発にブレーキがかかったというのである。真相は分からないが、

現在の主流となっている遺伝子工学を利用した分野での遅れが気になるところだ。

しかもその原因が、どうも質的な問題ではなく規模の問題のようで、我が国の危機管理

体制の基本的な欠陥を現わしているようにも見える。

 

ワクチン接種が近づいたところで国民の意識はどうかと言えば、あるアンケートによれ

ば、驚いたことに、約半数の人が“摂取したくない”という意思を示している。どうも

これまでになかった技術に不安を抱いているようだ。

専門知識がないので、理解は不十分であるが、私なりに調べたところをまとめてみた。

 

まず従来型のワクチンには次のようなものがある。

  • 弱毒化ワクチン(生ワクチン)

  鶏卵などを使って大量にウィルスを培養し、毒性のないものを選別して使用する

  麻疹、風疹、BCGなどのワクチンで非常に手間暇がかかる。

  • 不活化ワクチン

  薬剤を使って無力化したワクチンを投与する

  インフルエンザ、日本脳炎、ポリオなどのワクチンで実用化され、新型コロナ用と         

  して、KMバイオロジクス(日)、シノパック、シノファーム(中)などが開発中

  • 組み換えタンパク質ワクチン

  培養細胞や酵母を使ってウィルスの一部構造(タンパク質)を作り投与する

  B型肝炎、百日咳、破傷風などのワクチンで、コロナ用として塩野義製薬(日)

  ノヴァヴァックス(米)、サノフィ(仏)などが開発中

  従来型のこれらのワクチンは、実用までに10年近くかかることが普通であり、

  新型コロナ用として開発中のものも、数年はかかると見込まれている。

  しかし、次にあげる新技術(遺伝子工学)によるワクチンは実はその効果や

  副反応などが十分に確認されたとはいえず、従来型も並行して開発する意義は

  十分にあると考えられている。

 

次は新技術によるワクチンである

  • ウィルスベクタ―ワクチン

  無害なウィルス(アデノウィルスなど)を運び屋(ベクタ―)として人工合成した

  DNAを注入し、体内でウィルスのトゲトゲの部分をつくらせて免疫を獲得する。

  実際の感染に近いので効果は高いと期待されるが、運び屋(ベクター)自体が

  (とくに2回目以降や数年後には)排除される懸念がある。

  輸入契約を結んでいるアストラゼネカ(英)のワクチンがこのタイプで、中国の

  カンシノ・バイオロジックスも同じである。

  ただ、中国が開発したワクチンに使われているアデノウィルス(Ad5)はエボラ用

  に使ったもので、中・米で40%、アフリカでは80%の人が既に抗体を持っているた

  め、多くの人に効かない可能性があると言われている。

  • DNAワクチン

  新型コロナのDNA を直接投与し体内で新型コロナウィルスのタンパク質を作らせ免

  疫システムを活発化させる。コスト、スピードで優れているが、体内にDNA

  が残存するので、その影響が懸念される。

  • mRNAワクチン

  DNAはタンパク質の設計図であるが、実際にはそのコピーともいえるmRNA

  介してタンパク質をつくる。そのmRNAを投与してコロナウィルスのトゲトゲ部分

  を作らせ免疫を獲得する方法である。RNAは非常に壊れやすくて超低温で管理する

  必要があるが、細胞の核内には入らないので人体の遺伝子情報に影響しない(がん

  化しない)といわれている。

  ただし、承認されたのは今回が初めてで、輸入されるファイザー(米)、モデルナ

 (米)のワクチンはこのタイプである。

 

遺伝子や免疫の話は、分からない言葉が多くて理解するのが難しく、間違っているとこ

ろがあるかもしれないが、以上が私なりの理解である。

私は後期高齢者なので、優先的にワクチン接種を受けられそうなのだが、それで生活様

式をすっかり元に戻せるのかというと、どうもそうではなさそうなのだ。

 

基本的にワクチンというのは、ウィルスなどの病原体の特徴を、前もって私たちの免疫

システムに覚えさせるもので、いわば「免疫軍・訓練教官」のようなものである。

だから、感染を未然に防止する働きも、直接ウィルスを排除する働きもない。

ウィルスと戦うのは、あくまでも自分の免疫システムなのである。

さらに、今回のような注射によるワクチンは血液中にIgG抗体を作らせるものであるか

ら鼻や喉のウィルスには効かない。つまり今回のウィルスは、端的に言えば重症化を防

ぐためのものと言える。重症化することがなければただの風邪と同じことになるので、

普段の生活に戻せるというわけだ。

間違えてならないのは、ワクチンを接種しても、鼻や喉についたウィルスには影響がな

いので、PCR検査が陽性になることもあれば、他人に感染させる可能性もあるということだ。

従って、ワクチン接種後もマスク着用や三密を避ける行動は当分続ける必要がある。

それをどこまで続けるのかと考えると嫌になるが、顰蹙を買うのを承知で言えば、高齢

者への接種が終わればもういいのではないかと思う。なぜなら、50歳以下ではほとん

ど普通の風邪と変わらないし、20歳以下ならワクチン接種も感染も似たようなものだ

と考えられるからである。

それにしても、何をもたついているのであろうか。準備のできた自治体からさっさとや

ればいいと思うのだが、そうするとまたあちこち不満が噴き出すことを恐れているのだ

ろうか。

今回の事象もまた、我が日本の平和ボケと悪しき平等主義の蔓延を思わせる。

                            2021.1.28

 

 

 

 

 

新大統領の就任演説を読む(J-48)

“どちらが勝っても歴代最高齢”という候補者の、あまり美しくない大統領選に勝利した

バイデン新大統領が、20日就任演説を行った。

議事堂前の広場は、大群衆の代わりに国旗が立ち並び、前大統領の列席もないという

異例の就任式であった。

新大統領のスピーチは、オバマ氏のような格調と心地よさはなく、トランプ氏のような

分かりやすさもなく、名演説とは言い難いと評価されているようだが、よく言えば

”はったり””のない、本人らしさがにじみ出たものではなかったかと思う。

翻訳全文を読むと、話の筋が行ったり来たりでどうも分かりにくいのだが、その訴える

ところを読み取ってみたい。

<要旨>

  • 国史上これほど多くの難題に直面した時代はほとんどない。
  • 難題とは、新型コロナ、400年求めてきた人種間の平等、地球環境、そして今台頭する政治的過激主義や白人至上主義、国内テロ等である。
  • これらの課題を克服するには民主主義の中で最も得難い“団結”というものが必要だ。
  • 団結して、共に直面する敵―怒り、恨み、憎悪、過激主義、無法、暴力、疾病、失業、失望―と闘おう。
  • 団結すれば次のようなことが成し遂げられる。

・間違いを糺すこと

・人々をよい仕事に就かせること

・安全な学校で子供を教育すること

・致命的なウィルスを克服すること

・仕事に報酬を与え、中産階級を再建し、すべての人に安全な医療を行うこと

 

 これらによって、人種間の平等をもたらし、再び米国を世界のけん引役にすることが

 できる。私たちは団結して失敗したことは一度もないのだ。

  • 国民とは“同じ何かを愛する人々”だと聖アウグスティヌスは言った。我々米国民が愛するものは何か。それは、機会、安全、自由、尊厳、敬意、名誉そして真実だ。
  • 私は憲法を守る。民主主義を守る。米国を守る。全国民にわたしの全てを捧げる。

 

内容的には、このようにあまり目新しいものはなく具体的な施策にも触れていない。

言い換えれば、トランプ時代の“異常さ”を普通に戻すといった雰囲気で、キーワードは

「団結」(Unity)である。というより、演説全体が「団結」の呼びかけとなっている。

裏を返せば、それだけアメリカの分断が深刻になっているということなのだろう。

政策実現の必要条件として、まずは分断の修復が必要であるとした新大統領は、直接

トランプ政治を非難することは避けているが、随所にそれは滲み出ている。そして、

そこに新大統領のスタンスと人柄が示されているようにも感じられて興味深い。

例えば、

・“みなさん、私たちはこんなものじゃなかったはずだ。アメリカはもっとましなはずだ。本当のアメリカはもっといい国だと私は信じている“

(My fellow Americans, we have to be different than this. America has to be better than

  this. And, I believe America is better than this)

あるいは、

・支持しなかったすべての人にはこう言わせてもらいたい。われわれが前に進む間、

 最後まで聞いてほしい。私と私の心を見極めてほしい。それでも同意できないなら

 それでよい。それが民主主義だ。それがアメリカなのだ。平和的に異議を唱える

 権利は、おそらくこの国の最大の強みだ。(中略) 品のない戦いは終わらせなけ

 ればならない。心を開き、ほんの少しの寛容と謙虚さを示せばそれは出来るのだ。

 

日本には「アラサー」から派生した「アラカン」という言葉が生まれたが、さすがに

「アラ80」はない。呼び名があるとすれば「後期高齢者」だ。

新大統領は、日本なられっきとした「後期高齢者」である。スタート時点において、

”2期目はない”ことが確実視される新大統領が、どこまでアメリカの分断を修復し、

アメリカを復活させるか、後期高齢者の一人として大いに気になるところではある。

                         2021.1.23

コロナが暴いた医療システムの弱点(J-47)

朝も昼もそしてどの局も、ワイドショーの話題は新型コロナで始まる。

今年届いた年賀状で、6割以上にコロナのコメントがあったことを思えば、それも当然

かとも思う。しかし、最近の報道を観ていると、「ちょっと待ってくれ!」と言いたくなる場面が時々ある。

昨年の3月から4月、新型コロナの第1波に襲われた時、わが日本の作戦は、“感染の

ピークをできるだけ後にずらし、その間に体制を整えて医療崩壊を防ぐ”というもので

あった。そして感染状況については、概ねその通りに進んだのである。

ところがどうだ、年末から始まった急速な感染拡大(と言っても米欧とは一桁以上も穏

やかなのだが)により、医療現場が悲鳴を上げ始めた。

遂には、ここまでどちらかと言えば”影が薄かった医師会“の会長が登場して、

”既に医療崩壊は現実、このままでは医療壊滅となる“ と訴える事態となっている。

そこが「ちょっと待ってくれ」なのである。

 

客観的に数字だけを見るならば、日本の医療システムは優等生だ。

例えば、人工1000人当たりの病床数において、日本の13.70という数字は断トツの1位

である。世界平均は、46位相当の3.63で、この付近に豪州、伊、英などが頭を並べ、

米国は3.00で60位となっている。

その他にも、国民皆保険制度や高度医療技術などの優れた環境が整っており、それが

長寿大国を支えてきたと信じられてきた。

それが何故、いとも簡単に医療壊滅になるのか、国民の多くが理解に苦しんでいる。

どこかに問題があるはずである。それを暴くのがジャーナリズムの使命でもあると思う

のだが、報道内容は、①感染者数などのデータ、②国民の日常(とくに感染予防に無

頓着な市民などの映像)③行政の不手際(ときに、適正な治療を受けられず死亡した例

などをあげ強調する)といったものばかりで、深く掘り下げた意見は見られない。

 

ただし直近では医療現場のホンネも出始めている。

しかし気の毒なことに、医師会中川会長の訴えは、実はあまり国民胸には響いていない

ようだ。その訳は、新型コロナに直接対応している病院や医師はおそらくほんの数%

で、国民に“医療壊滅”の実感はないからだと思う。

だが、今朝聞いたある医師(名前を忘れた)の提案には大いに納得させられた。

その対策は、“思い切ったインセンティブを与えればよい”というものである。

つまり、コロナに対応する病院や医師などの関係者に対して特例的な優遇措置を設けれ

ば、医療崩壊の危機は解消するというものだ。まさにそれが医療現場のホンネであり、

その通りだと思う。関係者の使命感や犠牲的精神のみに頼っても長続きはしないし、

そもそもその方向は間違っている。

“感染のピークを後にずらして体制を整える”という戦略に応えた例として評価されてい

る大阪のコロナ重症センターでは、看護師を募集しているが、その報酬は月額50万円で

ある。それが「対策」というものだ。

 

新型コロナは、10年後には現在の若い人たちに免疫ができて、普通の風邪と同じになる

という 専門家の予想もある。

おそらく、新型コロナとの付き合いは長くなる。それは「新型」でなくなるまで続くと

覚悟しなければならない。

したがって最大のテーマは、これまでも、これからも、「医療崩壊を防ぐ」ことにつきる。

 

今回のようなパンデミックが発生する恐れは常にある。

そして、日本の医療システムの弱点は、新型コロナによって見事に暴かれた。

日本の医療システムが何故これほど脆いのか、この際笑われることを承知で、自分なり

に素朴な疑問をぶつけ考察してみたい。

 

医師会長の口から発せられた「医療壊滅」という言葉に関連して、私は次のような

素朴な疑問を抱いた。

1.日本の病院は、中小規模の私立の専門病院が多いが・・。

  ⇒ ○○科病院の名に「感染症病院」はなく、コロナ患者受け入れはハード・

    ソフト共に困難、また経営的にも問題が多いのではないか。

2.日本は、世界一の”寝たきり”大国になっている。

  ⇒ 病院が介護施設化し、その実態は”寝かせ切り”大国となっている。

    また、そこへのコロナ患者受け入れは難しいのではないか。

3.日本の病院は、「診察」と「治療」に限定されている。

  ⇒ 「公衆衛生」や「予防」は病院の任務ではなく、保健所が担っている

    がその分野が弱体ではないか。

<考察>

 生老病死という言葉があるように、人は生まれた時から、必ず訪れる「死」に向けた

旅を生きている。その間にあるのが「老」と「病」で、そこに医療の存在意義がある。

病の多くは自然に治るが、苦痛を伴うものや長引くものは援助を求め、ダメージの

大きいものは、高度な医療を求める。病も医療もともに千差万別だ。

ところが日本の医療システムは、いつでも患者側に病院を選ぶ権利があり、しかも、

相手が名医であろうとヤブ(失礼)であろうと、費用は同じである。

裏返せば、患者には「運」「不運」があり、医師の側にはその能力にふさわしくない

レベルの病に対応しなければならない「不満」と「リスク」がある。

ここに我が国の医療制度の根本的な問題があると私は感じる。

この問題を解決する方策としてはどのようなものがあるだろうか。きっと誰かがどこか

で考えているはずだと思うが、それが見えないので自分で考えてみた。

 

それは一言で言えば、保健所の充実・拡大ということになる。

今はあまり強調されていないのだが、コロナ受診あるいはPCR検査を受けるための手続

きにおいて、”先ずはかかりつけ医に相談する”という手順が推奨されていた。しかし、

医師と患者側に果たして”かかりつけ”の信頼感が醸成されているかどうかについては、

はなはだ疑問である。慢性疾患があって通院を重ねている人でなければ、たいていは

”とりあえずかかるお医者さん”を持ってはいないのではないかと思われるのだ。

そこを改善し、軽い病気なら「かかりつけ医」のところで処置をうけ、処置できない場

合は「かりつけ医」の勧めにより専門病院に移るようにすれば、医療の効果・効率は

格段に向上するだろう。つまり改善策として、保健所に「かかりつけ医」の役割を持た

せるのである。

もう一つは、感染症対策である。

病人の数なら感染症は圧倒的だと思うが、病院の名前として「○○感染症病院」は見た

ことがないし、総合病院に行っても感染症科という看板は目にしない。

よくわからないが、もしかすると法的にそういう名称で開業することができないのかも

しれない。なにしろ、「感染症専門家」という言葉はよく聞くが、「感染症医」という

言葉は聞かないのでそんな気がする。あるいは、経営的にも難しいのかもしれない。

だから、やはりここは公的機関が対応した方がいい。予防も含めて感染症対応は

保健所の能力を拡大して担当させるべきだろう。

そして、その機能を生かすためには保健所と病院間の情報連絡を緊密にする必要があ

る。現在保健所は、都道府県または設置市の所管となっており、国からの情報は、厚労

省から所管の衛生部(局)を通じてお願いベースの「事務連絡」の形となっているらし

いが、もっと緊密で強力な関係とすべきだと思う。

以上、ここまで老いた頭を精一杯駆使して一応考えをまとめたので、今は無性に誰かと

飲みながら語り合いたい気持ちなのだが、如何せん、「老人の飲み会」など許される

はずもないご時世である・・・嗚呼。

                       2021.01.19

 

 

 

 

謝罪すべきは誰なのか(J-46)

不愉快なニュース

新年早々の不愉快なニュースである。

韓国のソウル中央地裁が8日、日本政府に対し、提訴した元慰安婦12人に賠償金の支払いを命ずる判決を下した。

原告の7人は既に死亡し、残る5人の元慰安婦も90歳以上、考えるまでもなく異様な裁判である。

判決の要旨を毎日新聞から引用すると、

<主文>“被告は原告にそれぞれ1億ウォンを支払え。仮執行できる”

<理由>被告の行為は計画的、組織的、広範囲に行われた反人道的な犯罪行為で、国際規範を違反したものと判断される。当時、不法占拠中だった朝鮮半島でわが国民である原告に対し行われたもので、国家の主権的行為だとしても主権免除は適用できない。原告が提出した証拠などを総合すると、被告の不法行為が認められ、原告は想像しがたい精神的、肉体的苦痛を受けたとみられ、現在まで被告からきちんとした謝罪や賠償も受けていない。

諸般の事情を考慮し、被告が支払うべき慰謝料は少なくとも1億ウォン以上とみるのが妥当だ。“

以上の通り、ツッコミどころ満載なのだが、被告の出席がなく、また、テロリストの

安重根が英雄になるが如く、立場によって見方は変わるので、憤慨はしない・・ことにしておく。

この判決に対し、青瓦台は沈黙、韓国外交省は“判決を尊重し被害者の名誉回復のために努力するとしながら、15年の日韓合意は両国政府の公式合意であることを確認する”と付け加え、予防線を張ることも忘れなかった。当然ながら、日本政府は強く反発し、駐日韓国大使を呼んで抗議した。

 

この記事を「毎日新聞」で読んだ時、私は、“随分変わったな”という印象を持った。

一応一面に載せてはいるが、トップではない。さらに、2面の「検証」5面の「社説」

7面の「論点」と、全体を通じてどちらかと言えば韓国側に批判的な構成となっているのである。コメンテーターも偏っていないし、従軍慰安婦という用語もどこにもない。

となると朝日が気になって、コンビニに走ったのだが、見ればこちらも同様である。

1面では最後(4番目)の記事で、3面=関係暗雲、9面=考論、12面=社説となっており、内容は、“これが朝日か”と感じられるほど“角度のない”記事となっている。

15年の「日韓合意」を文政権が一方的に破棄して以来、流石の両紙も愛想が尽きたらしい。

この日韓合意は、国連、米欧をはじめとする国際社会がこぞって歓迎し、日本のメディアや識者の多くも賛成の声を上げたが、ひとり済州島出身のオ・スンファ(呉善花

先生だけは違っていた。

“65年の日韓協定さえ反古にした韓国が、この約束を守るとは信じがたい「賞味期限は半年だ」”とコメントし、皮肉にもその予言通りとなったのである。

では、韓国紙はどうなのかといえば、韓国の主要紙も、どうやらここまでの判決は予想していなかったようである。

というのも、このところ水面下では、韓日関係改善の動きがあったからで、前日の中央日報も“日本政府に賠償を命じる判決が出る可能性もある”と予想していたくらいなのだ。

そして、“青瓦台は司法に介入できないというスタンスであり、また日本側から関係改善策が出される可能性もないことから、日韓関係の前途が案じられる”といったような残念さが滲むトーンとなっている。

つまり、俯瞰的に見れば、韓国の司法が暴走を始め、日韓両国のメディアが共に

“冷めている”という風景が目に浮かぶ。

 

これまでの経緯

まず、この裁判の経緯をざっと振り返ってみよう。

原告の12人が声を上げたのは2013年で、何と70年以上も前の慰安婦時代の慰謝料を求め民事調停を請求したのが始まりだ。その前に彼女らは、日本の弁護士などにそそのかされて日本の裁判所に訴えたのだが、ことごとく却下され、2016年今度はソウル地裁に提訴したのである。その判決がようやく出たというわけだ。

ハンギョレ新聞によると、13日にはもう一つ、同様の裁判の判決が出される予定らしく、この裁判にはあのトランプ大統領に抱き着いたハルモニ、イ・ヨンス(李容洙)なども出廷するらしいのだが、なぜか日本のメディアはそこには言及していない。

 ・・・加筆修正(1.15)・・・

どうも静かだなと思ったら、13日判決予定の民事15部(ミン・ソンチョル裁判長)は

突然弁論再開を通知、判決は延期となっていた。それが青瓦台の指示によるものか、

先の判決(民事34部、キム・ジョンゴン裁判長)に対する内外の反応によるものなのかは不明である。

・・・・

 

そもそも70年以上も前の問題が何故蒸し返されているのか、その始まりにさかのぼって

おさらいをしてみたい。

・日韓の戦後補償の問題は1965年の日韓請求権協定により、日本が5億ドル(無償3億、

有償2億)、民間融資3億ドルの経済支援を行うことで、完全かつ最終的に解決するという協定を結んだ。そして韓国は、当時の国家予算の2倍以上に匹敵する資金を基に“漢江の奇跡”とも呼ばれる経済発展を成し遂げた。この時、個人に対する補償分は韓国政府の要求に基づき、経済協力金の中に一括された。つまり、個人補償は韓国政府の責任となった。

その後約20年間、両国の間に歴史問題による外交案件は生じなかった。当時、戦時中における慰安婦なるものの存在は周知の事実であったが、それが大きな問題に発展するとは、当の元慰安婦たちを含めて、誰も想像していなかっただろう。

ところが、次のような経過を辿って大問題に発展する。

・1973年、千田夏光・元毎日新聞記者が、自著の中で「従軍慰安婦」という造語を始

     めて登場させた。

・1983年、吉田清治という作家(自称)が、済州島での慰安婦狩り(強制連行)を

     生々しく綴った「私の戦争犯罪」を出版、朝日新聞などがその証言をこと

     とあるごとに取り上げ、世界中に事実として拡大される。吉田は96年、証言

     の多くは創作であることを認めその後消息を絶っていたが、2014年死亡して

     いたことが判明。

・1989年、青柳敦子という大分県の主婦(元全共闘?)が、在日朝鮮人活動家・宋斗会

     の影響下、韓国で慰安婦裁判の原告を募集する。(この時は反応なし)

・1991年、植村隆記者(朝日新聞)が、元慰安婦・金学順をスクープする。

     記事には女子挺身隊の名で強制連行されたとなっていたが、3日後の会見

     で、金は14歳の時40円で妓生の検番(置屋)に売られ、3年芸を教えられた

     が妓生として働くには年齢が満たず、養父(置屋の主人)に中国に連れてい

     かれて兵士の相手をさせられたと証言した。

     始めて原告候補者が現れたことで、高木健一や福島瑞穂などの、いわゆる人

     権弁護士たちが蠢き始める。

・1992年、吉見義明・中央大教授が、国家権力の関与を示す証拠となる文書を発見

     したと朝日が1面トップで報じる。訪韓直前の宮沢内閣は、何を慌てたか、

     加藤紘一官房長官のお詫びに続き、首相自身が韓国で8回にわたりお詫びを

     するという事態に発展する。しかしその文書をよく読めば、“民間業者の不

     法な行為を取り締まるよう指示したもので、最大の焦点となっていた「強制

     連行」の存在を否定する証拠となりうる文書であった。

・1992年、戸塚悦朗・弁護士が国連の人権委員会で、慰安婦の名称としてsex slaves を

     使うことを提唱した。その後、多くの場でこの呼び名が使われるようになっ

     た。

・1993年、河野洋平官房長官がいわゆる“河野談話”を発表。

     日韓関係の改善を進めようとしていた宮沢内閣は、河野官房長官の談話とい

     う形で、元慰安婦については“本人の意思に反した広義の強制性があった”と

     してお詫びと反省の声明を発表した。然しその文案作成の過程において、

     韓国側との調整があったことが明らかになっており、“日韓合作”の疑いが濃

     厚となっている。しかし世界は、韓国側が主張するように“日本政府が強制

     連行を認めた”根拠“として挙げるようになり、”ハメられた“感の強い談話で

     ある。

     その後の内閣は、常に踏み絵のごとく河野談話へのスタンスを聞かれること

     になり、すべての内閣が“踏襲する”方針を述べざるを得ない状態に置かれて

     いる。

 

こうして経緯を振り返ってみると、次第に明らかになってくることがある。

それは「慰安婦問題は“和製”である」ということだ。

では、ジュラシックパークの物語のように琥珀に包まれて眠っていた怪獣の卵を掘り起こし、巨大化させた張本人は誰なのだろうか。

 

謝罪すべきは誰なのか

前段に挙げた人たちには、それぞれ日韓関係をこじらせた責任の一端がある。

しかし、すべては朝日新聞吉田清治のウソの証言に”お墨付き“を与えたことから始ま

っているように思う。大新聞のお墨付きがなければ、戦後70年を過ぎても解決しない問

題にまでは巨大化していないはずだ。

2014年になって、朝日もようやく自分たちが犯した“誤報”を認め、自身の紙面で検証記

事を発表したが、そこには謝罪の言葉はない。凝縮すれば“自分たちも騙されていた、

その訳は・・・“という弁明記事になっている。

慰安婦問題で朝日が棄損した国益は計り知れない。国民に損害賠償せよとは言わない

が、国民に対して謝罪し、世界の誤解を解く活動をするのは当然ではないか。

多くの人が「朝日は反日だ」という。しかし、私はそうは思わない。

確かに反日的なふるまいをするが反日ではない。では何と言えばいいのか。

私は、彼らは「愛国」あるいは愛国的なものが嫌いなのだと思う。

愛国=亡国と信じているのだと思う。愛国的なものすべてに反発し、国民をその方向に

向かわせないのが自分たちの使命であり、それこそが崇高な目標であると信じているの

だと思う。残念なことに、それが左翼思想と結びつき、神聖なる目標のためにはウソや

捏造も許されるという体質が出来上がっている。それは一見真逆のように見えて、

愛国無罪」と同じことだ。

 

“謝罪すべきもの(たち)”は韓国側にも存在する。

それは、歴代の韓国政府である。かれらは例外なく反日を政権の獲得・維持に利用してきた。

今回のソウル地裁の裁判官も突然変異で生まれたわけではない。長年にわたる反日政策

反日教育により、”反日でなければ生きにくい社会”をつくりあげてきた、必然の結果なのだ。

それが今、自らの首を絞めている。

韓国政府や裁判官は「元慰安婦の名誉を回復する」という。

では、何が彼女たちの名誉を回復することになるのか。

それは、“自ら売春したのではなく強制されたから”と認定してやることだと考えてい

る。しかし、それは不可能に近い。一人や二人ならできるかもしれないが、すべてとい

うわけにはいかない。証拠は揃いすぎているうえに、既に大多数の元慰安婦が補償金を

受け取っているのだ。だから、その認定は逆に、多くの慰安婦の不名誉を確定すること

になる。つまり、”少数の名誉を回復して多数の不名誉を確定する”ことになる。

彼らはそのことに気づいていないのだろうか。

また仮に、すべての慰安婦の名誉を回復するとどうなるのか。

それは、強制連行や奴隷的境遇に何の抵抗も示さず、進んで協力した同胞も多数存在し

たという韓国民の不名誉を確定することになる。

いずれにせよ、これらの方向では、彼女らの名誉を回復することは出来ない。

ならば、どうすればよいのか。

それは、さほど難しいことではない。事実を明らかにすればよいのである。

当時、売春は合法であった。

家族のために、或いは貧しさから脱出するために、いわゆる”身を売る“ 行為は、

美談とまでは言わないが、さほど恥ずべき選択ではなかった。古来、遊女と客の恋物語

は、あまたある。

彼女らを引きずり出してウソや作り話をさせても名誉回復にはならない。

慰安婦たちの先は短い。嘘で固め、恨みを抱えたまま生涯を終えさせたくないなら、

彼女らの過去をそのまま理解し、評価してやる以外にない。 

                            2021.1.11 

 

左と右 (Y-28)

上下左右と言えば壁、前後左右と言えば地面といった平面における方向がイメージ

されますが、上(うえ)・下(した)前(まえ)・後(うしろ)・左(ひだり)

・右(みぎ)と読んだときは、自分を中心とした立体的な方向が浮かんできます。

それらの方向は、自分の姿勢によって変わるので、東西南北のような意味はないの

ですが、かといって、単に方向を示すだけでもないように思います。

たとえば、上下・前後には、時間的・空間的な広がりとともに、順序・優劣や対立の

イメージがあります。一方、左右のイメージは少し違って、もっと近く仲間的な

ニュアンスがあり、またバランスとか傾きを連想させます。

では、左右には上下や前後のような順位や優劣はないのかというと、実はあるのです。

 

左右の優劣

律令制度では「左」が上位とされていました。左大臣と右大臣とでは、左大臣の方が

上位でした。

これは律令制度が伝わった唐の時代、天子は南を向いて座るので太陽が昇る東(左)

を上位としたことに倣ったものと言われています。現在でも、貴族院(現参議院)の

配置、大相撲の東方、舞台の上手、あるいは典型的な例としてひな人形の「京雛」の

配置などに、その名残をとどめています。(ただし現在の主流関東雛はお内裏様が右)

ところが、その前の漢の時代には「右」が上位とされていました。

「右に出るものがない」「最右翼」「左遷」といった言葉はその名残かもしれません。

実は、現代も「右」が上位で、天皇陛下は右側にお立ちになられます。

いつからそうなったのかというと、明治期は右上位の西洋の儀礼が取り入れられ、両者が混とんとしていたようですが、大正天皇即位の礼に際して右にお立ちになったことで一気に「右上位」のルールが定着していったと言われています。

そんなことなどつゆ知らぬはずの、現代の若者たちも、上司と並んで写真に納まる際には、自然に左に並んでいるような気がしますが、無意識のうちにそれが見についていて、そうでないときっと違和感があるのでしょう。

他にも、うまくいっている時を「右回り」そうでない時を「左回り」、或いはちょっと変な人を「左巻き」などと言いますが、これはおそらくネジの原理からきているのだと思います。

また、いわゆる“酒飲み”のことを「左党」と言いますが、これは大工道具の「ノミ」を左手に持つことから、「飲み」⇒「ノミ」=「左手」に引っ掛けた隠語です。

 左翼と右翼

「左」と「右」は政治的立場の表現にも使われます。

「左翼」、「右翼」という言葉は、一般的にはあまり使用されなくなりましたが、

SNS上では、お互いを罵る言葉として好んで使われており、ネット上では中学生など

の質問が数多く見られます。それに答える親切な人もまた数多くいるのですが、それ

らは、いわゆる極左・極右の説明であったり、あるいは単に左翼=変化させたい人、

右翼=変化させたくない人、と断定したりで、かなりいい加減です。その原因の一つ

として、左翼と呼ばれる思想には、進歩主義社会主義共産主義アナーキズム

その派生があり、右翼と呼ばれる思想には、保守主義、反動主義、国家主義、ファシ

ズム及びその派生などがあって、一様に定義することができないこと。そして、それ

らの名称そのものが、主として左サイドの人たちによって名付けられた名称であるこ

とによる先入観と誤解があるように思います。

もともと「左翼」という言葉は、フランス革命期(1790年代)に、急進派のジャコバン党が、議長席から見て左側に陣取ったことに端を発しています。

フランス革命は、一旦は成功し、欧州を中心にそれまでの絶対王制や専制君主制から

共和制への流れが生まれます。一方経済的には、1960ごろにイギリスで始まったとさ

れる産業革命から資本主義が発達します。

そして、そのような背景のもとでマルクス主義が誕生します。

詳しくは分かりませんが、マルクス主義の究極の目標は「国家の死滅」だそうです。

アナーキズムと違うのは、その過渡期においては、残存する資本主義を根絶させる

ために「プロレタリア独裁」が必然だとしているところです。

なんだか詐欺師のような理屈ですが、中国政府が恥ずかしげもなく自国を「発展途上」と言ったり、解放闘争とか革命軍といった用語を好んで使うのもそのためで、嘘や冗談ではないのでしょう。

然し近年の中国の実態は、極右の代表とも言われた帝国主義あるいはファシズムそのものと言ってもおかしくありません。

中華人民共和国とは”看板に偽りあり”で、「支那共産帝国」か「大中華共産帝国」

あたりに改名し、ついでに英語表記のThe People’s Republic of China も

The Great Commune of China あたりに変えた方がよいのではないかと思うのですが、

そんなことを云うと「お前は右翼だ」と言われますかね・・。

                            2021.17

 

知識と教養(Y-27)

 クイズ王の呼び名

「芸能人格付けチェック」という、正月恒例の人気番組があります。

まあ、ちょっと変わったクイズ番組というジャンルに入るかと思います。

この番組を貫くコンセプトがあるのかどうかは知りませんが、“日常の生活が「一流」

あるいは「本物」に囲まれている「一流芸能人」なら分かるはずだ”という仮説を根拠に、にわかセレブの化けの皮を剥がして楽しむ“という、どちらかと言えば”品の悪い“

趣向となっているようにも感じられる番組ではあります。

出題されるのは、例えば100万円のワインと5000円のワイン、プロの演奏とアマチュアの演奏、本物の蟹とニセの加工食品などを当てさせる問題なのですが、なかなか巧妙に作られていると見えて、解答者となったタレントの皆さんがまんまと罠にはまってしまい、間違えるたびに「2流」「3流」「写す価値なし」とランクを下げられていきます。

概ね2択か3択の問題なので、視聴者側も半分くらいは正解を出せるわけで、時には

ささやかな優越感を感じられるところがミソとなっています。

ところが、ここにGACKTという超人が現れて、連勝記録を伸ばし続けています。

その記録がいつ途切れるかということも関心の的になり、“やらせ”ではないかとの

噂も立ち始めましたが、ふと彼のこのポテンシャルを何と言えばいいのだろうと

疑問が湧いてきました。”知識人?“”教養人?“なんだか違うような気もします。

 

調べてみると、クイズ番組は1953年(S.28)のTV放送が開始されたときから、一度も

消えたことが在りません。昨年放映されたクイズ番組は、不定期の特番を含めると

30にも上ります。しかもその多くは、ゴールデンタイムを占領しているのです。

なぜそのような人気を得ているのでしょうか。

思い出されるのは、1981(S56)年から7年間続いた“面白ゼミナール”という番組です。

驚異的な記憶力の持ち主・鈴木健二アナの、“知るは楽しみと申しまして、知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれるものでございます“という決まり文句で始まるこの番組は、最高視聴率42.2%を獲得したほどの人気番組でした。

 

クイズは知識力を問うものと推理・連想力を問うものに大別されると思いますが、「知」の方向が最大化された番組として、TBS 系の「史上最強のクイズ王決定戦

というのがありました。全国の予選を勝ち上がって、最後は数名による最終決戦を

行うという形式です。

そしてこの番組で、二人の超人が現れました。今でも覚えているその二人の名は、

水津康夫と西村顕治、たしか印刷会社員と新聞記者ということでした。最終決戦は

いつもこの二人になり、やがて決着をつけるために問題は超難問ばかりとなって、

視聴者は次第に“おいてけぼり”を食らうようになっていきました。そうなると限界

です。視聴率も下がりこの番組は姿を消しました。

その反動として、今度はいわゆる“おバカタレント”と呼ばれるタレントが現れました。

常識的な問題に素っ頓狂な答えを出すタレントがもてはやされたのです。その裏には、視聴者の優越感をくすぐる狙いが隠されているわけですが、やがておバカさんの学習

が進んで答えが常識的になるにつれ、ウケなくなってゆきました。

番組制作側は、様々な工夫を凝らし、つぎつぎに新しいタイプのクイズ番組を登場させましたが、その一つはゲーム性を取り入れることでした。そうすることで勝者の予測をより困難にし、マンネリ化を防いだのでしょう。

クイズ番組の隆盛は、あたかもそれを専門とするようなタレントを生み、その

博覧強記を武器に総合司会者に転身した人もいます。

しかし、そういった人たちが、「知識人」あるいは「教養人」と呼ばれているかというと耳にしたことはありません。やはり彼らにふさわしい呼び名は、ずばり番組の名前にもなっている”雑学王“なのです。

では知性を表現する言葉はどのように使い分けられているのでしょうか。

 

知性を表現する言葉

広辞苑などを参考にしながら、知性を表現する言葉について考えてみましょう。

知性:頭脳の知的な働き。知覚を基にしてそれを認識までつくり上げる心的機能

   広義には知的な働きの総称

  (カニ蒲鉾を偽物と見破る力も知性の証か?)

知識:ある事項について知っていること

  (知識人という言葉もありますが、知識層、インテリ、知識階級、進歩的文化

   人・・と変化するにつれてイデオロギーがかってきますね)

博識:ひろく物事を知っていること

ものしり:広く物事を知っていること

  (博識と同じですが、私的には故事来歴に詳しい人、生活に必要な知識が豊富で

   ある人といったイメージがあります)

博学:広く学問に通じていること

雑学:雑多な物事・方面にわたる系統だっていない学問・知識

見識:物事の本質を見通す優れた判断力、またある物事についてのしっかりした考え、

   見方

識者:物事をよくわきまえた人、知識や見識を有する人

教養:学問・芸術などにより、人間性・知性を磨き高めること。その基礎となる

   文化的内容・知識・ふるまい方などは、時代や民族の文化理念の変遷に応

   じて異なる。

 

このように、言語表現としては色々ありますが、正直なところ正確に使い分ける自信はありません。しかし最後の「教養」には明確な違いがあることが分かります。

その違いを一言で表現するならば、「知識」などが“現在完了形”であるのに対して、「教養」は“現在進行形”であるということです。“学力とは学んだ結果ではなく学ぶ力である”というのと同じです。

 

教養のある人

では、教養のある人とはどのような人をいうのでしょうか。

たとえば、“一を聞いて十を知る”人は教養のある人でしょう。しかし、その人に

「あなたは教養がありますね」と言って、その人が得意げな顔をしたら、その人は本当の教養人ではないのかもしれません。真の教養人なら、10の答えを知ると同時にそれ以上の分からないことを自覚しているに違いないからです。だから、

「物知りとは多くのことを知っている人で、教養人とは多くの無知を知っている人」

と表現してもいいのかもしれません。

教養人の代表ともいうべき養老孟司先生はこういっています。

“学べば学ぶほど分からないことが増えていく。教養を積むとは無知を知ることなのだ”

それを私は、“「教養」は現在進行形だ”と表現したのです。

では、教養を積んで得られるものは何でしょうか。

具体的には何もないかもしれません。“教養を積むこと”そのことが目標であり、いわば

“生き方”なのですから。

それでも強いてあげるとすれば、それは「智慧」と呼ぶべきものかもしれません。

Sophia, wisdom, 般若 に通じる概念です。当たらずとも遠からずということで、

とりあえず “ものごとを広く・深く・正しく理解できる素養” とさせていただきたい

と思いますが、いかがでしょう。

                       2021.1.4

    

 

 

 

 

 

認知機能検査は有効か(J-45)

県の公安委員会から見覚えのある封書が届いた。

「運転免許証更新に関わるお知らせ」とあるが、中身は「認知機能検査通知書」

である。ただの更新手続きを、5か月以上も前から始めなければならないなんて

面倒なことだなあと思いながらも、ルールだから仕方がない。

前回は100点だったが。多分今回も100点を取れるだろう。16種類の絵を思い出して

答えるというクイズに対しては、16種×4パターン、合計64種類の絵がすでに分

かっているのだから答えは簡単だ。

振り返れば、高齢者の交通事故防止対策の一環として、1997年から70歳以上に免許

更新時の「高齢者講習」が義務付けられたが、その後高齢ドライバーによる暴走など

の大事故が頻発したことから、75歳以上は「認知機能検査」が義務付けられることに

なった。そして、直近のデータでは、75歳以上の事故は減少しているらしい。

然しながら、それを「認知機能検査」の成果とするのは、やや無理がある。

現に、未だ記憶に新しい2019年に起きた東池袋自動車暴走死傷事故を防止することは

できなかったのである。

あの悲惨な事件は、当時87歳の元通産相工業技術院・院長が自家用車プリウスを暴走

させて11名を死傷(2名が死亡)させた大事故だ。

I元院長はその年齢からして、「認知機能検査」「高齢者講習」を複数回受けているはず

である。それはつまり、これらの検査は効果がなかったという一つの証拠でもある。

事故の様子は一部の監視カメラに記録されており、その衝撃映像と、I元院長が逮捕を

免れメディアも敬称を付して報じたことから、SNS上では激しいバッシングが起き、

「上級国民」という言葉が生まれた。

そして、それを見た高齢者の中から免許証を自主返納する者が急増した。

おそらく事故の減少に最も寄与したのは、この事故そのものであった。

そもそも高齢者の事故は、認知症つまり「脳」単独の問題ではなく、インプットから

アウトプットまでの問題、つまり目や耳といったセンサーから手足の運動機能にいたる

複合的な要因なのである。

ではどうすればいいのだろうか。

諸外国ではどんな対策が取られているのだろうか。

ある文献(国会図書館の調査と情報)によると、諸外国で採用されている対策として、

 

1.有効期間の短縮 2.対面による更新手続き 3.医師による検査 4.実車試験 

5.限定免許    6.医師等による情報提供 7.講習

等が挙げられるという。

しかしこの中に、これといった目新しいもの、或いは注目すべきものは見当たらない。

有効期間が無期限の国、オンライン申請が可能な国も多く、実車試験などは廃止される

傾向にある。医師等による情報提供はかなり効果がありそうだが、日本ではまず無理な

方策かもしれない。大雑把に言えば、諸外国の対策は、日本よりもむしろ緩やかに見える。

 

ここに、欧米の研究チームなどから発せられた興味深いレポートがある。

まずは2013年、EUのCONSOL(*)報告書にはこんな記述がある。

 (*)Concerns and Solutions –Road Safety in the Ageing Societies

 

  1. 高齢者から免許を取り上げることは、高齢者をより危険にさらす歩行、

  自転車といった移動手段へ追い出すことになる。

 2.年齢に基づくスクリーニングが事故件数を減らしたエビデンスはない。

 

同じくEUの「高齢者の安全」報告書(*)には、

(*) Elder Safe –Risks and Countermeasures for road traffic of the elderly in Europe

 

“高齢者の交通安全に関する主なリスク要因が,年齢に伴う身体的脆弱性及び

機能障害にある。“

またアメリカのNHTSA(*)ガイドにはこう書かれている。

(*) National Highway Traffic Safety Administration

 

・医師による情報提供の増加が保障されれば効果大

・限定免許はリスクを下げるが、限定免許でない同年代よりもリスク大

・高齢者に係る有効期間の短縮、対面による更新手続き、視力検査は

 高齢者の事故防止に影響しないと考えられる。

 

これらのレポートはいずれも、これまでに実施されてきた対策がさほど有効では

ないと主張している。そして、厳しい対策を先行して実施した国や地域においては

それらをむしろ緩和する傾向にあると報告しているのである。

それではこの問題をどう解決してゆくべきかといえば、やはり自動運転等の技術を

進展させてゆくべきだろうということだ。そして高齢者は安全運転サポート車に限定

するのがより効果的だ。その際、高齢者にわかりにくい操作やシステムにならないよう

留意することも大切だ。

この主張は、はからずも東池袋暴走事故のI元院長の主張と全く同じで、彼が認知症

とは全く関係がないポジションにいることの証明でもある。

ついでに言えば、私が来年受ける認知症検査もさほど意味がないことの照明でもある。

 

余談ながら、I元院長は10月8日の初公判における罪状認否の場で、事故の原因は

車に何らかの不具合が生じたためであるとして無罪を主張した。

そのことでSNSは再び炎上しているが、仮に過失致死傷罪の最高刑・懲役7年の

判決を下したとしても、実態としては刑務所が無料の介護老人ホームになるだけの

事である。冷静に眺めてみれば、過失による事故は過失を犯した側にとっても不幸な

出来事なのだ。起きてしまったことを元に戻すことは出来ない。

遺族の悲しみを癒す方法は、厳罰を求める署名活動ではないと思う。

                       202012.29