「無敵の」を広辞苑で調べてみると、“敵対できるものがない”“力の及ぶ相手がない”と
あります。つまり、無敵とは”敵がいない“ではなくて”匹敵する者がいない“ことである
と理解できます。
この言葉が、外国語の翻訳時などに生まれた、いわゆる“和製漢語”なのかどうかは分か
りませんが、英語なら「invincible」(征服できない、打ち負かせない)という言葉に該
当するものと思われます。今の時代で言えば、将棋の藤井聡太、女子レスリングの藤波
朱里、ボクシングの井上尚弥といった勝負の世界で活躍しているひとがこれに該当する
かと思いますが、それに大谷翔平を加えても文句はないでしょう。
歴史的にみると、まず思い当たるのはスペインの「無敵艦隊」でしょうか。
16世紀の「大航海時代」、世界の海を支配していたのはスペインでした。そして、”太
陽の沈まぬ国”とも称されたスペインの黄金時代を支えていたのが、大艦隊から成る
「Armada」でした。「armada」は英語の「navy」に当たる普通名詞ですが、英語圏で
「the Armada」と言えば、「スペインの無敵艦隊」を指す固有名詞になります。
ところが1588年、スペインの支配下にあったオランダの独立を支援するイギリスとの戦
争において、「Armada」は大敗北を喫してしまいます。それが一因となってスペイン
は衰退してゆきます。「Armada」はもはや無敵ではなかったのです。
だから英語圏の人々が「無敵艦隊」という場合、そこには皮肉や揶揄が込められている
のだそうです。
実は「無敵艦隊」という呼び名は、ずっと後の1884年に、スペイン海軍のC.F・ドゥロ
大佐という人が書いた論文にある「Armada Invencible」が原典らしく、元々スペインで
の呼び名は「GrandeyFelicima Armada」(至福の大艦隊)でした。
大敗を喫したこの艦隊にスペインの大佐がなぜ「無敵艦隊」の名を付したのかその理由
は定かではありませんが、「哀悼」の心情からではないかとも言われています。日本に
おける「不沈戦艦大和」も少し似たところがあるような気がします。
しかしこの頃は、本来の意味における「無敵」という言葉はあまり聞かなくなりまし
た。それは、「無敵」という表現が少々大袈裟で、しかもその状態が一時的なものだか
らだと思います。これに代わる表現としては、「不敗」「最強」などが一般的です。
ところが近年、「無敵」は別の意味で使われるようになりました。
例えば、無差別殺人事件の犯人などを「無敵の人」と表現するような例です。ここにお
ける「無敵」は、「invincible」ではなくて「untouchable」(手が届かない)或いは
「free」(干渉・束縛を受けない)に近い感覚かと思います。「無敵の人」という表現に
は、“このような加害者に対して社会は有効な手段を取り得るだろうか”といった絶望感
も感じられます。
いわゆる人権問題にうるさい論者の中には、”加害者のほとんどは社会的弱者であり、
その実態は「関節自殺」とでも言うべきものであるから、加害者といえども救われるべ
き側の人間である。“という意見もあります。
さて、このような「無敵の人」にとって「敵」とは何でしょうか。
それは「世間」であると言えるかもしれません。「世間」とは大多数の一般大衆を指す
のではなくて、ごく身近な周辺にいる人たちです。それらの人たちとの関係が断たれ、
相互作用がないので「無敵」なのです。つまり、”seken free”なのです。
近代社会は個人の権利をひたすら拡大する方向に歩んできました。国家や集団に対して
は“許されていることのみ実行できる”とする一方で、個人に対しては“禁じられているこ
と以外は自由である”という方向です。そしてそれは正しいのだと今現在も信じられて
います。その結果、「個人」は「世間」と乖離し、「個人の自由」と「冷たい世間」が
同時に拡大したと言えるのではないでしょうか。
広くとらえれば、「無敵の人」は他にもいます。例えば赤ん坊です。赤ん坊は世間に縛
られません。時と場所に関係なく泣き叫んだりします。世間は耐えるしかありません。
そしてもう一つ、最近気になり始めた「無敵の人」、実はこれが本題です。
先日、運転免許更新のために高齢者に義務づけられている「認知機能検査」に行ってき
ましたが、そこで「無敵の人」に出会うことになりました。受験者の中に検査官の指示
に全く従わない老人がいたのです。どうやら認知症らしいのですが、それでも最後まで
退場させられることはありませんでした。「指示に従わない人は即刻退場となります」
と何度も注意があったにもかかわらずです。個人の権利はかくも強力なのです。
おそらく彼の免許は更新され以後3年間有効となります。しかし、認知症は進行しま
す。つまり彼の”無適度“もさらに進行するわけです。この先何が起きるのか、ただ不幸
なことが起きないことを祈るしかありません。
実はそれは自分自身の問題でもあるのです。齢80を過ぎ、クラスメートの訃報とともに
“あいつがボケたらしい”という情報も耳に届きます。ボケる前に死ぬのとボケたまま長
生きするのとどちらがいいかと問われれば、躊躇なく前者を選びます。今私にとっての
最大の懸念は、認知症なのです。
毎日新聞の記者で現在徳島支局長をされている井上英介という人がいます。
この井上記者が“認知症と安楽死”に関する問題を何度も取り上げていますが、その中で
ある精神科医とのやりとりが出てきます。この医師は、医師の中では珍しい安楽死肯定
派のようでこのような記事となっています。
“医師は、「長生きはよいことなのか。大半は大病を患うか認知症になる」と長寿を疑
問視し、「自分が認知症になったら殺してくれと家族に言っている」と告白した。”
気持ちとしては私もこれと同じです。しかし、それを実行することは到底できません。
現行法の下ではそれは嘱託殺人だからです。そんなことを家族に頼めるわけがありませ
ん。ならばと、殺し屋を雇っても金だけとって逃げられるのが落ちでしょう。
自分が死ぬことを知っている生き物は人間だけだという説がありますが、そんなことは
ないような気もします。間違いなく言えることは、彼らは周りにほとんど迷惑をかけな
いで死んでゆくことです。できることならそうありたいと誰もが思うことですが、なか
なかそうはいかないのが現実です。
井上記者は最初のコラム(2023.5.13)では「安楽死は医学でなく哲学の問題」と書
き、最新の記事(2024.2.2)では、「医学・哲学の前に福祉充実を」と書きました。
最初にあった”スイスやオランダのように安楽死を制度化すべきではないか”という意見
は後退しています。多くの意見を聴取するうちに、慎重に検討すべき課題であると覚っ
たのでしょう。
人はその生涯の始めと終わりを自分で仕切ることは出来ません。自分の意思を働かせら
れるのはその中間だけなのです。
だとすれば、井上記者が言うように「福祉の充実」しかないのかもしれません。
それはカプセルの中で生命維持装置に繋がれ、ロボットの世話を受けるようなものにな
るかもしれません。しかし、そういう選択肢を用意することができれば、多くの悲劇が
回避されるでしょう。
いわゆる植物人間のような姿で生かされる人もまた「無敵の人」なのかもしれません
が、いずれにせよ今の自分としては、「無敵の人」の期間がなるべく短くあって欲しい
と願うのみです。
2024.02.10