樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

日本核武装論は暴論か(Y-40)

プーチンの演説から

5月9日、モスクワの赤の広場では恒例の「対独戦勝記念式典」が挙行されました。

しかし例年とは違って、観覧席に外国要人の姿はなく、規模も縮小されていました。

無法なウクライナ侵攻で、世界から非難を浴びながらもこの式典を強行したのは、内外

に余裕を示す必要があったのでしょうが、今回の特別軍事作戦の失敗をカモフラージュ

しようとする意図をも感じさせるものでした。

それがどうであれ、世界の注目はプーチンが何を語るかの一点にに集中していました。

”この日にプーチンは「勝利宣言」をするつもりだ”というのが1か月ほど前までの見方で

したが、予想外のウクライナの奮闘が続き、最近では”「戦争宣言」をして総動員体制

に移行するのでは”との見方が主流となっていました。

しかしプーチンは、この軍事行動を正当化するいわば”言い訳“に終始しました。

「戦争宣言」は必要なかったのでしょうか、そうではなく、”出来なかった”というの

が真実ではないでしょうか。さすがのプーチンも、ほぼ独断専行の軍事作戦に対して総

動員をかけるわけにはいかないだろうと思うのです。

それが何を意味するのかと言えば、”泥沼化“つまり”長期化“です。下手すると、この戦

争はプーチンが失脚するまで継続するかもしれません。

今回の露軍のウクライナ侵攻は、世界にこれまでにない衝撃を与えています。

それは、本来「通常戦」にも歯止めをかけるはずの「核」に、真逆の働きがあることを

知らされたからです。つまり、「核」を持つ国は、その気になれば持たない国を侵略で

きるということが示されたのです。

その核を持つ国のリーダーが「独裁者」であるほど、より危険度が高いことは誰でも想

像でき、現実にそういう国が存在していたことが“衝撃”なのです。

日本にとって、ウクライナの悲劇は決して他人事ではありません。周辺には、ならず者

とまでは言わないけれど「世界の無法三兄弟」ともいうべき中・露・朝が海を挟んで対

峙しています。流石の平和ボケ国家もようやく「このままでは・・」と考え始めたよう

な気配は感じられますが、未だ本格的な議論には至っていません。

現在持ち上がっているテーマを絞り込むと、一つは「防衛予算の増額」であり、もう一

つは「専守防衛の見直し」ということになるでしょうか。具体的には、「防衛予算の

GDP比2%(以上)への増額」と「敵基地攻撃能力の保有」が焦点です。

しかしその議論は、いずれも従来の思考からすこしも抜け出せていません。

GDPの何%などと外枠を決めて陸・海・空の予算分捕り合戦をやらせるのは、政治家や

官僚がそれが文民統制だと誤解しているからであり、本来の議論から外れています。

防衛費を世界と比較して、あたかも交際費のように扱うがゆえに、”戦闘機1機削れば幼

稚園がいくつ”といった的外れの議論が持ち上がるのです。かつて日本人は「安全と水

はタダだと思っている」と言われましたが、意識が変化したのは「水」だけです。

また、「敵基地攻撃」は意志の問題であって装備の問題ではありません。これまで、装

備そのものに無用な制約ををかけ、著しく抑止効果を損ねてきた歴史は大いに反省しな

ければなりません。

 

文芸春秋の特集記事から

そんな中、文芸春秋5月号は、”緊急特集「ウクライナ戦争と核」”と題して8人の識者の

論文を掲載しました。

しかし「核」に絡んだ論文は、「日本核武装のすすめ」(エマニュエル・トッド)、

「核共有の議論から逃げるな」(安倍晋三)、「核の選択・清水幾太郎を読み直す」

片山杜秀)の3編で、他は「核」については語られていません。

だからこの特集は、最初から「ウクライナ戦争と核」というテーマで企画したものでは

なさそうです。特集の内容は、タイトルほど「核」中心の議論にはなっていません。

最初に登場するエマニュエル・トッドの「日本核武装のすすめ」も、背表紙に赤文字で

紹介され、本文の題もそうなっているので、いかにも日本の核武装を主題とした論文の

ような装いですが、中味はそれほどでもありません。

本人が“自国フランスでは冷静な議論が許されない(袋叩き似合う)ので初めて日本の

メディアに自分の見解を公にした”と最初に断わっているとおり、「戦争の責任は米国

NATOにある」という独自の見解をまとめたものです。日本の核武装については最後

に触れられていますが、論文全体から言えば10分の1程度です。

とは言いながら、賛同しかねる前半のロシア擁護論とは違って、付け足しのような日本

核武装論の方にはかなりの説得力があります。

エマニュエル・トッドはこの論文の中で、“核の保有はパワーゲームの埒外に自らを置

くことを可能にする”ことで、それは“国家として自律することである“と主張します。

そして、”「核共有」という概念は完全にナンセンスであり、「核の傘」も幻想だ”と断

定します。なぜなら“使用すれば自国も核攻撃を受けるリスクのある核兵器は、原理的

に他国のためには使えないからだ”というわけです。

そして、この説はおそらく正しいのです、残念ながら。我が身を核保有国の立場に置き

換えてみれば、やはりそうならざるを得ないではありませんか。多くの国民もその判断

を指導者に期待するはずです。やはり、「核」は他国のためには使えないのです。

 

日本の選択

日本では、“唯一の核被爆国”という言葉がまるで枕詞のごとくに使われます。

だから?という問いには、“だから核兵器の非人道性を世界に訴え、核禁止運動の先頭

に立たねばならない”という答えが返ってきます。

何のために?と問えば、”世界から核兵器を失くすためですよ、当たり前でしょう”

と呆れ顔をされます。

どうやって?と聞けば、”だから最初に言ったでしょう日本が禁止運動の先頭に・・”

と元に戻ります。・・・それでいいのでしょうか。

核兵器禁止運動と言えば、国連の核兵器禁止条約の批准国が50か国に達し、2021年1月

に発効となりました。これによって締約国は、核兵器の開発や保有、使用などの全てが

禁止されています。締約国は、その後も徐々に増加してはいますが、影響力を持つには

至っていません。核保有国はもとより主要国のほとんどが”無視“しているからです。

日本も同様です。

現実的に見れば、この条約は核保有国の特権的地位を保証し非保有国の権利を奪うとい

うある意味差別的な条約とも考えられます。失礼ながら、締約国のほとんどは、核を持

つ能力のない国々に留まっているのです。核保有国にしてみれば、締約国の拡大は大い

に歓迎するが自身がその輪に入ることはないというわけで、この運動が実を結ぶことは

望めそうにありません。

ならば、唯一の被爆国日本はどうすればよいのでしょうか。

歴史を遡って、なぜ日本に原爆が落とされたのかを考えてみましょう。決定的な条件は

当時原爆を持っていたのがアメリカ唯一であったということに尽きるでしょう。もし日

本も持っていたと仮定すれば、戦争そのものが避けられたのではないでしょうか。

安全保障上の抑止力には、拒否的抑止と懲罰的抑止があり、安倍元総理はこの特集の中

で”日本は懲罰的抑止の全てをアメリカに依存している”と述べています。”全て”という

ところには不満がありますが、元総理が言うのだから日本の方針はそうなのでしょう。

しかし、拒否的抑止はいわば“虫よけスプレー”のようなものですから、“倍返し”的な懲

罰的抑止ほどの効果はありません。だから、抑止力の根幹となっているのは「日米同

盟」だというわけです。同盟こそが抑止力だというわけです。

ところが「核」には、単独でも最大の抑止力になり得る力があります。見方によって

は、小国が大国と対等な場に立てる「究極の防御兵器」であるとも言えるでしょう。

現に北朝鮮がそれを証明しています。

勿論、核兵器などない方がいいに決まっています。しかしその実現のためには、例えば

強力な国連軍のような実力組織が必要です。丁度国内における警察のような役割を果た

す国際的組織がなければ、人は安心して丸腰になることができません。

安倍元総理は、「核共有の議論から逃げるな」のなかで、“日本は「作らず、持たず、

持ち込ませず」に加えて、「言わせず、考えさせず」まである非核五原則だ”という故

中川昭一議員の言葉を紹介しています。日本がまず考えるべきことは、世界の前に日本

が再び核の被害に遭わないための方策です。そのために最も有効な手段が「核の保有

であることに議論の余地はありません。4~5隻の核搭載原潜を持つだけで日本の抑止

力は格段に向上するでしょう。アメリカはそれを望まないかもしれませんが、核の傘

より確実なものとするためにも、その意思があることを表明すべきです。

しかし、たとえ頭では理解しても、日本が一気に核保有に向かうことは無理だろうと思

います。ならばどうするか。それは海上兵力の増強です。日本を攻めるには海を渡らな

ければなりません。最終的には着上陸侵攻によってどこかを占領し屈服させることが必

要です。それをさせないために何が一番効果的でしょうか。最も効果があると思われる

戦略はおそらく米空母を日本近海―出来れば日本海ーに存在させることでしょう。

だから、日本の海上兵力は米空母を護る能力に集中させる。そのくらいの覚悟を決めな

ければ、アメリカの懲罰的抑止力を確かなものにはできないのではないでしょうか。

もう一つは、在日米軍基地の存在です。日本を攻めることはアメリカに刃を向けること

であると相手に認識させなければなりません。

”自分の国は自分で守るという強い意志がなければ誰も助けてくれない”という言葉をよ

く聞かされます。しかし、ウクライナの現実はどうでしょう。助けてくれると言っても

武器などの支援と経済制裁だけではありませんか。ウクライナはロシアを攻撃できませ

ん。自国に侵入したロシア軍と戦うだけです。核を持たない国が核を持つ国に攻められ

た場合はあのような戦いを余儀なくされるのです。悲惨です。

しかし日本は自らそのような戦いしかしないと宣言し、実際にそのような戦力装備をし

ているわけです。”もし攻められてもあなたの領土に対する攻撃は致しません、どうぞ

試してみてください”と言っているようなものです。本当にそれでいいのでしょうか。

どんなに想像を膨らませてみても、日本に対して武力を行使するかもしれない国は先に

述べた三つの国しかありません。そしてその三国はいずれも「核」を保有しています。

日本の安全保障は「核」抜きには語れないのです。

ところが、エマニュエル・トッドが”「ロシア擁護論」は自分の国では発表できない”と

語ったように、日本では「核」を語ることがタブーになっています。だから、エマニュ

エル・トッドや40年前の清水幾太郎を引っ張り出すしかないというのが日本の言論界の

実情なのです。

日本が本気で核廃絶の先頭に立とうというのなら、まずは核保有国の仲間に加わり、

次いで国連の安全保障常任理事国入りを果たし、国連軍の常設を実現する、といった大

胆な発想が現実主義者の中から聞こえてきてもおかしくはないと思うのですが、そんな

意見は”核アレルギー状態の現状では、”暴論”の一言で片づけられること必定です。

さはさりながら、今回のウクライナ侵攻が、あたかも”黒船来航”のようなインパクトを

日本に与えたことは間違いなく、その影響が建設的な防衛論議に発展することは十分期

待できます。

日本人にとって悩ましい問題の一つに”花粉アレルギー”がありますが、「核アレルギ

ー」はそれ以上に悩ましい問題です。今回は、本来語るべき人たちが口をつむぐ「核」

について、素人の強みと無責任さを武器に勝手気ままな意見をのべてみましたが、これ

をテーマに議論する気も能力も私にはありません。ただ、アレルギーからの脱却には、

まず自由に語ることが必要だと考えるだけです。

とりあえず10年後を見てみたい気がしますが、生きていますかね。

                          2022.05.15