4月12日の東大入学式における来賓祝辞が、小さな波紋を広げている。
この日来賓祝辞を述べたのは、東大校友会会長の宗岡正二氏と映画監督の河瀨直美氏の
お二方であったが、ちょっとした騒ぎとなっているのは河瀨監督のスピーチだ。
その全文は東大のホームページなどで見ることができるが、正直なところ私には分かり
にくい表現が多く、頭脳明晰な若者がどのように理解したのか、少々気になっている。
私の頭で河瀨氏の主張を要約すれば、「自由に生きることの苦悩と魅力を存分に楽しみ
ながら、当たり前と思っていることの奥に隠れている真理を追求してほしい」といった
ところだが、河瀨氏は自身のこれまでの歩みといくつかのエピソードを紹介しながら、
その説明をしようとしているように見える。
物議を醸しているのは、その中のあるエピソードに関連する部分である。
節分の豆まきで「福は内、鬼も内」と掛け声をするお寺の管長と対話する機会があった
際、その管長がつぶやいた「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとん
や」という言葉に氏は反応する。
“この言葉を私は逃しませんでした。管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないの
で、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすること
はこういうことではないでしょうか? 例えば「ロシア」という国を悪者にすることは
簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとし
たら、それを止めるにはどうすればいいのか、何故このようなことが起こってしまって
いるのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろう
か?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで私は安心していないだろうか?
人間は弱い生き物です。だからこそ、繋がりあって、とある国家に属してその中で生か
されているとも言えます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性がある
ことを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って
それを拒否することを選択したいと思います。”
これに対して、SNSを中心に“悪いのはロシアに決まっている”といった調子の意見が殺
到し、果ては著名な大学教授までもがご登場する騒ぎに発展した。
東大の池内教授は「侵略戦争を悪といえない大学なんて必要ない」と言い、慶応の細谷
教授は「ロシアとウクライナの違いを見分けられない人は人間としての重要な感性の何
かが欠けているか無知かのどちらかだ」と言い放った。
また、東京外大の篠田教授は“「どっちもどっち」論を超越的な正義として押し付けよ
うとする人々がこの社会で力を持っている”と名指しを避けながら一部著名人の言動を
批判した。
しかしよくよく見ると、河瀨氏はロシア寄りの発言をしているわけではない。
「悪」を存在させることで「私は」安心しているのではないだろうか、と言っている。
私は真実がつかめていない、私は無知なのだ。もしかすると皆さんもそうではありませ
んか、と語りかけているのである。
では河瀨氏の発言に問題はないのかというと、実は大いなる問題がある。
それは最後の“自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚し
ておく必要があるのです”というところだ。
今回の騒ぎは、本来この部分に対する批判が中心であるべきであったと思う。
今回の戦争を観察して、“自分たちの国がどこかの国を侵略する可能性があることを自
覚しなければならない”というべき対象はロシア国民とその他少々の国であって、どう
考えても今の日本の若者に対して言う言葉ではない。見通せる将来において、自覚すべ
きは、略侵する側よりも侵略される側になることの可能性である。やはり、ウクライナ
のような事態にならないためにはどうすべきかとなるのが普通の感覚だ。
今回の河瀨氏の発言が何事もなく過ぎ去ったとすればそれもある意味怖い話だが、波紋
を広げたと言ってもそれはあくまで小さな波紋に過ぎない。しばらくアンテナを伸ばし
ていたが、大手メディアは取り上げる気はなさそうである。
なぜ河瀨氏が来賓祝辞を述べることになったのか。なぜ大手メディアは無視を決め込ん
でいるのか。そこがいささか気になるところであるが、河瀨氏の言葉を借りて誤解を恐
れずに言うと、“いわゆる東京裁判史観がいまだ広く深く浸透している”ということかと
やはりなってしまう。勿論こう言えば「どっちもどっち」論者から突っ込まれることは
覚悟の上である。
2022.04.17