樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

庶民とメディアの関係(J-20)

私はこの頃、

「マスメディアを誤解していたかもしれない」

と思い始めている。

一般論として、

「マスメディアは、敗戦を機に180度向きを変えた」

と語られることが多い。

つまり、「鬼畜米英」などの感情むき出しの口調で、

一貫して国民を煽り続けていたマスメディアは、

敗戦を機に自らの過ちを悟り、今度は逆に

“権力批判こそが唯一絶対の使命であると信じ込んでしまった”

という筋書きである。

しかし私は、そうではなくて、

“彼らは何も変わっていない”と考えてきた。

その理由を一言で言えば、

“信ずるものは真実に優先する”

という思想はそのままだということだ。

 

よく引き合いに出される二つのエピソードがある。

1933年に日本が国際連盟を脱退したとき、

メディアはこぞって喝采の声を上げ、国民は留飲を下げた。

このとき、独り異議を唱えて売上部数が激減した毎日は、

たまらず転向した。そして、

すべてのメディアが競い合うかのようにして国民を扇動した。

 

戦後の象徴的なエピソードは「椿事件」である。

1993年、宮沢内閣の不信任決議案が可決され、

初めて自民が野に下り、細川連立内閣が誕生した。

椿事件」とは、その直後の「民間放送連盟」の会合における、

テレ朝報道局長・椿貞良の発言が物議を醸した事件である。

彼の、

「(今回は)なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる

手助けになるような報道をしようではないか(ということで

局をまとめた)」

等の発言内容は産経によって暴露された。

 

これら二つのエピソードは、

正反対の現象のように見えて、実はそうではない。

いずれも、報道の原則からは遠く外れた、

いわば「愛国無罪」と叫ぶ輩と同じ主張なのである。

こうしたいわば確信犯的な偏向報道誤報は、

とくに朝日・毎日において枚挙にいとまがなく、

門田隆将は「新聞という病」のなかで、

“ビラになった新聞”と断じている。

その意味で、

“彼らの本質は変わっていない”

というのが私のマスメディアに対する肌感覚であった。

それが「どうも違うみたいだな」と思い始めているのである。

 

きっかけは「文芸春秋6月号の記事、

ノンフィクション・ライター石戸諭が書いた

「玉川徹の研究」である。

この中で、しばしば炎上する玉川徹が首にならないのは、

視聴率が取れるからであるとして、百田尚樹との類似性を

挙げている。

時を同じくして、「週刊女性」がコメンテーターの

”好き嫌いランキング“を発表(?)した。

母数が600人で、女性誌という特殊性(?)もあるが、

結果は以下の通りだ。

    好き     票       嫌い     票

1 橋下 徹    60     堀江貴文    53

2 玉川 徹    33     舛添要一    49

3 尾木直樹    31     張本 勲    29

4 岡田晴恵    28     木下博勝    24

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

9                玉川 徹    18

                 尾木直樹    18

15               岡田晴恵    14

19               橋下 徹    11

 

この表で注目すべきことは、「好き」の上位にランクされた人たちは

すべて、「嫌い」にもランクインしていることであろう。

その逆に、「嫌い」の上位者は「好き」のランクには入っていない。

さて、視聴率的に見た場合、

「好き」と「嫌い」の両方にランクされた人をどう見るべきか。

それは悩ましい問題ではない。両者を+するのが正解だ。

出川哲郎のように「嫌われもの」もまた「人気者」なのである。

よって、玉川徹は33+18で51ポイント獲得、

クビにはなりようがないというわけだ。

 

では、当の記者やコメンテーターたちの目標や生きがいは

何だろうか?

それはおそらく、

永遠のベストセラー・「人を動かす」でDカーネギーが説いた

 自己の重要感“であろう。

彼らの最大の願いはスクープである。

あるいは、権力者や要人をこき下ろすことだ。

それによって、彼らは自己の重要感という欲求を満たすのである。

そして彼らの行動は、最終的には視聴率あるいは発行部数となって、

目に見える形となる。

庶民は面白い記事やニュースを求め、記者は売れる記事を書く。

両者を繋いでいるのは視聴率・発行部数である。

実にシンプルだ。

 

忘れられない30数年前の記憶がある。

今も軍事評論家として時々TVなどに登場する

田岡俊次朝日新聞の記者であったころの話である。

詳しくは避けるが、その彼が仁義に悖る記事を書いたので、

面識のある先輩が、せめて嫌みの一つでもと仲間を誘い、

私もそれに乗った。

その時彼は、「私たちも因果な商売で、読者が喜びそうな記事を

書かざるを得ないんですよ」と逃げた。

「バカな読者のために品のない記事も書かざるを得ない」

ともとれる発言で、

(卑怯なやつ)と内心思ったのだが、

今にして思えば、彼は苦しい言い訳をしたのではなく、

本音を言ったのである。

当時私はこの真実に気づいていなかった。

マスメディアは営利企業であり、その社員を動機づけている

ものを辿ってゆけば、視聴率あるいは発行部数に行き着く。

理想でもない、正義でもない、ましてや反省したのでもない。

今も昔も彼らは売れる記事を書き、観られる映像を流す、

その意味で彼らは変わっていないと思うようになったのである。

 

ここで一つの疑問が生じる。

それは、これまで何度も誤報偏向報道を繰り返し、

謝罪するたびに売上部数を減少させてきた朝日が、

一向に態度を改めることがないのはどういうわけかということである。

これは単なる想像に過ぎないのだが、簡単に言えば、

社会党の轍を踏まない“と決心したのではないかと思う。

社会党は、路線を変えることによって消滅した。

朝日も、この期に及んで路線を変えることは

”命とり“だと考えているのかもしれない。

彼らに起死回生の手段が残されているだろうか。

あるとすれば、

昇り龍の「維新の会」に抱き着くことくらいしか思いつかないが、

もはやそれさえもできないほど、

自身の硬直化が進んでいるのかもしれない。

                       2020.05.15