樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

知識と教養(Y-27)

 クイズ王の呼び名

「芸能人格付けチェック」という、正月恒例の人気番組があります。

まあ、ちょっと変わったクイズ番組というジャンルに入るかと思います。

この番組を貫くコンセプトがあるのかどうかは知りませんが、“日常の生活が「一流」

あるいは「本物」に囲まれている「一流芸能人」なら分かるはずだ”という仮説を根拠に、にわかセレブの化けの皮を剥がして楽しむ“という、どちらかと言えば”品の悪い“

趣向となっているようにも感じられる番組ではあります。

出題されるのは、例えば100万円のワインと5000円のワイン、プロの演奏とアマチュアの演奏、本物の蟹とニセの加工食品などを当てさせる問題なのですが、なかなか巧妙に作られていると見えて、解答者となったタレントの皆さんがまんまと罠にはまってしまい、間違えるたびに「2流」「3流」「写す価値なし」とランクを下げられていきます。

概ね2択か3択の問題なので、視聴者側も半分くらいは正解を出せるわけで、時には

ささやかな優越感を感じられるところがミソとなっています。

ところが、ここにGACKTという超人が現れて、連勝記録を伸ばし続けています。

その記録がいつ途切れるかということも関心の的になり、“やらせ”ではないかとの

噂も立ち始めましたが、ふと彼のこのポテンシャルを何と言えばいいのだろうと

疑問が湧いてきました。”知識人?“”教養人?“なんだか違うような気もします。

 

調べてみると、クイズ番組は1953年(S.28)のTV放送が開始されたときから、一度も

消えたことが在りません。昨年放映されたクイズ番組は、不定期の特番を含めると

30にも上ります。しかもその多くは、ゴールデンタイムを占領しているのです。

なぜそのような人気を得ているのでしょうか。

思い出されるのは、1981(S56)年から7年間続いた“面白ゼミナール”という番組です。

驚異的な記憶力の持ち主・鈴木健二アナの、“知るは楽しみと申しまして、知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれるものでございます“という決まり文句で始まるこの番組は、最高視聴率42.2%を獲得したほどの人気番組でした。

 

クイズは知識力を問うものと推理・連想力を問うものに大別されると思いますが、「知」の方向が最大化された番組として、TBS 系の「史上最強のクイズ王決定戦

というのがありました。全国の予選を勝ち上がって、最後は数名による最終決戦を

行うという形式です。

そしてこの番組で、二人の超人が現れました。今でも覚えているその二人の名は、

水津康夫と西村顕治、たしか印刷会社員と新聞記者ということでした。最終決戦は

いつもこの二人になり、やがて決着をつけるために問題は超難問ばかりとなって、

視聴者は次第に“おいてけぼり”を食らうようになっていきました。そうなると限界

です。視聴率も下がりこの番組は姿を消しました。

その反動として、今度はいわゆる“おバカタレント”と呼ばれるタレントが現れました。

常識的な問題に素っ頓狂な答えを出すタレントがもてはやされたのです。その裏には、視聴者の優越感をくすぐる狙いが隠されているわけですが、やがておバカさんの学習

が進んで答えが常識的になるにつれ、ウケなくなってゆきました。

番組制作側は、様々な工夫を凝らし、つぎつぎに新しいタイプのクイズ番組を登場させましたが、その一つはゲーム性を取り入れることでした。そうすることで勝者の予測をより困難にし、マンネリ化を防いだのでしょう。

クイズ番組の隆盛は、あたかもそれを専門とするようなタレントを生み、その

博覧強記を武器に総合司会者に転身した人もいます。

しかし、そういった人たちが、「知識人」あるいは「教養人」と呼ばれているかというと耳にしたことはありません。やはり彼らにふさわしい呼び名は、ずばり番組の名前にもなっている”雑学王“なのです。

では知性を表現する言葉はどのように使い分けられているのでしょうか。

 

知性を表現する言葉

広辞苑などを参考にしながら、知性を表現する言葉について考えてみましょう。

知性:頭脳の知的な働き。知覚を基にしてそれを認識までつくり上げる心的機能

   広義には知的な働きの総称

  (カニ蒲鉾を偽物と見破る力も知性の証か?)

知識:ある事項について知っていること

  (知識人という言葉もありますが、知識層、インテリ、知識階級、進歩的文化

   人・・と変化するにつれてイデオロギーがかってきますね)

博識:ひろく物事を知っていること

ものしり:広く物事を知っていること

  (博識と同じですが、私的には故事来歴に詳しい人、生活に必要な知識が豊富で

   ある人といったイメージがあります)

博学:広く学問に通じていること

雑学:雑多な物事・方面にわたる系統だっていない学問・知識

見識:物事の本質を見通す優れた判断力、またある物事についてのしっかりした考え、

   見方

識者:物事をよくわきまえた人、知識や見識を有する人

教養:学問・芸術などにより、人間性・知性を磨き高めること。その基礎となる

   文化的内容・知識・ふるまい方などは、時代や民族の文化理念の変遷に応

   じて異なる。

 

このように、言語表現としては色々ありますが、正直なところ正確に使い分ける自信はありません。しかし最後の「教養」には明確な違いがあることが分かります。

その違いを一言で表現するならば、「知識」などが“現在完了形”であるのに対して、「教養」は“現在進行形”であるということです。“学力とは学んだ結果ではなく学ぶ力である”というのと同じです。

 

教養のある人

では、教養のある人とはどのような人をいうのでしょうか。

たとえば、“一を聞いて十を知る”人は教養のある人でしょう。しかし、その人に

「あなたは教養がありますね」と言って、その人が得意げな顔をしたら、その人は本当の教養人ではないのかもしれません。真の教養人なら、10の答えを知ると同時にそれ以上の分からないことを自覚しているに違いないからです。だから、

「物知りとは多くのことを知っている人で、教養人とは多くの無知を知っている人」

と表現してもいいのかもしれません。

教養人の代表ともいうべき養老孟司先生はこういっています。

“学べば学ぶほど分からないことが増えていく。教養を積むとは無知を知ることなのだ”

それを私は、“「教養」は現在進行形だ”と表現したのです。

では、教養を積んで得られるものは何でしょうか。

具体的には何もないかもしれません。“教養を積むこと”そのことが目標であり、いわば

“生き方”なのですから。

それでも強いてあげるとすれば、それは「智慧」と呼ぶべきものかもしれません。

Sophia, wisdom, 般若 に通じる概念です。当たらずとも遠からずということで、

とりあえず “ものごとを広く・深く・正しく理解できる素養” とさせていただきたい

と思いますが、いかがでしょう。

                       2021.1.4