樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

OKはまさかの展開に(J-94)

 

Oはオミクロン株、Kは韓国大統領選挙のつもりである。それがOKどころかまさかの展開になっている。

先ずはオミクロン株。昨年11月南アフリカで確認されたオミクロン変異株は、あっとい

う間に欧米に広がり、これまでにないスピードで感染拡大を続けている。

1月11日、WHO欧州事務局は、今後6W~8Wで、管轄地域(欧州、中央アジアなど53

ヵ国)の人口の約半数がO株に感染するというワシントン大学の予測を引用して警戒を

呼び掛けた。

そんな中で日本は、世界の感染爆発をよそ目に年末までは沈静化を保ち、もしかすると

このまま収束するのではないかという期待を抱かせたが、約1か月遅れで感染の急拡大

に見舞われ、政府は3回目のワクチン接種を前倒しするなどの対策に追われている。

 

中国の都市丸ごと全面ロックダウンは極端な例外として、もっとも厳しい対応を見せて

いるのはフランスと東欧諸国である。

フランスのマクロン大統領は、年明け早々のインタビューでワクチン接種を拒否する

人々に対し“社会生活をできるだけ制限してとことんうんざりさせてやりたい”と発言し

て物議を醸し、オーストリアは全国民にワクチン接種を義務付けた。

しかしここはひとつ冷静になって、オミクロン変異株を見極める必要がある。

例えば英国のデータを見てみよう。下表が過去最大のピークと現在の比較である。

 

             英国のデータ

          1日の感染者数    死亡数

 2021.01.20.      33,454      1612

 2022.01.06      225,760       50

ご覧の通り、両者には著しい違いがある。

感染者数が約7倍に増えている一方で、死亡数は約30分の1、死亡率で言えば200分の1

に減少しているのだ。

これはワクチンの効果があるとしても、明らかにオミクロン株の弱毒化を示すものだ。

オミクロン株は、変異した部分が30以上もあるという。だからこそ感染力が強くワクチ

ンをすり抜ける能力が高い。ただし、症状は軽く治りも早い。日本でも、10万人当たり

の感染者数で一桁多い沖縄で、いまだ“ECMO”を必要とする患者が出ていない。

常識的に考えれば、次の変異株が生まれるとすればそれはオミクロン株からの変異とな

るはずだ。その場合、現有のワクチン効果が薄れる可能性が高い。

だとすれば、極論すれば、元気な若者にとっては、オミクロン株感染が最大の予防効果

を発揮することになる。

 

WHOの“いい加減さ”は今に始まったことではないが、2か月足らずで人口の半分が感染

するというのもおかしな話だ。その前に集団免疫が形成されるだろうし、仮にもしそう

なったとしても、1週間前までの患者のほとんどは既に完治しているはずだから、死亡

率さえ低ければそれほど恐れることはない。WHOもWHOだが、それをそのまま流す

メディアも同類であると言わざるを得ない。

日本政府は、それらの情報に惑わされることなく、沖縄の状況を注視しながら、ここは

むしろ隔離期間や観光・外食産業、受験生への配慮など規制を緩和する方向に舵を切る

べきではないだろうか。

 

次はK、韓国の大統領選挙である。

事実上、李・在明、尹・錫悦候補の一騎打ちで、どちらがより嫌でないかの戦いと言わ

れていた大統領選が、にわかに混とんとしてきた。

世論調査によると、最近までリードしていた野党「国民の力」の尹候補が与党「ともに

民主党」の李候補に逆転を許し勢いを失うなかで、中道系野党「国民の党」の安・哲秀

候補への支持が伸びてきたのである。直近の支持率は李36%、尹26%、安15%である

が、20代、30代の若い層に限れば、李27.7、安20.2、尹16.2で、安候補が李候補に迫る

勢いを見せている。全体としては、李候補の支持率は変わらず、尹候補の下落分が安候

補にそのまま移ったかたちとなっている。

その原因として、尹候補の家族のスキャンダルが報じられているが、その見方はおそら

く間違っている。もともと保守層の中には、元検察総長として朴槿恵前大統領を厳しく

糾弾した尹候補への恨みが残っており、党内がまとまっていないのである。

尹候補は選対の総入れ替えを行って事態の打開を図ろうとしているが、この期に及んで

の内紛は致命的かもしれない。 李候補もスキャンダルには事欠かず、ことによると、

比例代表のみのわずか3議席しかない「国民の党」の総裁安哲秀が次期大統領に選ばれ

る可能性も十分にありうる情勢だ。

ただし現状は最悪の方向―李在明大統領の誕生―へと向かっているかに見える。

                           2022.01.13

盛る文化・削ぐ文化(Y-38)

はじめにお断わりしておきますが、「盛る文化」も「削ぐ文化」も私の造語なので権威

はありません、悪しからず。

簡単に言うと、「盛る文化」というのは、いわゆる「絢爛豪華」というか“きらびやか”

な文化、「削ぐ文化」は、そのきらびやかさを削り落とした”凛とした清々しさ”を表現

したつもりです。

 

で、何を言おうとしているのか。結論から先に言うと、世界には「盛る文化」と「削ぐ

文化」があり、西洋では「盛る文化」が主流であるのに対し、東洋とくに日本では「削

ぐ文化」が独自の発展を遂げているのではないだろうかということです。

「削ぐ文化」の伝統は日本人の美意識に深く浸透しています。そしてそのことが、外国

人が日本あるいは日本人に接したときの印象・評価に大きく影響してきたのではないで

しょうか。ある時は「称賛」としてまたある時は「違和感」として、時には「侮蔑」の

ケースもあったことでしょう。

 

では「削ぐ文化」とはどういうものを指しているのか、その具体例として、まず国旗と

国歌を取り上げてみることにしましょう。

たとえば万国旗が飾られたようなとき、「日の丸」は、シンプルながらとても存在感が

あります。

赤と白のみで構成された国旗は日本を含め15か国ほどありますが、一目で分かるのは、

スイス、カナダ、ジョージアくらいで、インドネシアポーランドなどは逆さまにすれ

ば同じで見分けがつきません。スイス、カナダはすぐ分かりますが赤地に白抜きなの

で、風にはためいたときはトルコや中国などとも間違えそうです。白地に赤い丸、これ

ほど削ぎ落したデザインは他に見当たりません。(よくぞ・・)と感心するとともに、

他に類似の国旗がないことを不思議にも思います。

また国歌「君が代」もとてもユニークな存在です。

独立戦争や革命期に作られた行進曲調の国歌が多い中では、”異質な”感じもします。

そして、「君が代」はおそらく世界一短い国歌でしょう。演奏時間ならヨルダンやウガ

ンダの国歌も短いようですが、「詩」の短さでは「君が代」が飛びぬけています。

それは31文字の「和歌」という定型詩だからで、これもまた「削ぐ文化」の一つなわけ

ですが、更に削ぎ落した17文字の定型詩「俳句」があります。

和歌や俳句はほとんどの新聞雑誌にそのコーナーがあり、大袈裟かもしれませんが、日

本は「詩人の国」と言えなくもありません。

 

次に、「削ぐ文化」の代表として伝統芸能・工芸などの分野があります。

能・狂言や日本舞踊、あるいは城郭や神社仏閣、庭園、茶道、盆栽、生け花・・等々、

それらに共通する特徴は、“削り落として想像させる凛とした美しさ”です。

全てを詳細に語る素養はありませんので、その中から亡き母が愛した「生け花」につい

て取り上げてみたいと思います。

「生け花」は、室町時代、京都六角堂の僧侶、池坊専慶創始者と言われています。

当時、僧侶の多くが池のほとりに住んでいたのでお坊さんは「池坊」とよばれていたそ

うです。だから仏壇に供える「供花」がその始まりです。その後様々な流派に分かれ、

現在は50ほどの流派があるようですが、「池坊」は最も古く、かつ最大の流派でもあ

ります。

池坊に次ぐのは草月流、小原流でこれが3大流派と呼ばれていますが、明治以降に生ま

れた後の二つは、より自由でどの方向から見ても良く、かつ華やかになっています。

それは、飾られる場所が床の間などからパティ―会場などへ広がったことと、西洋から

「盛る文化」が入ってきたことによるものと考えられます。

母は古典的な「未生流」でしたので、私にも古い流派ならなんとなくその”型“を感じら

れるような気がしています。日本舞踊の決めポーズにも似て、盆栽にも通じるような

何かしらの法則”型”があるのです。逆に、前衛的な作品には違和感を感じます。

 

最後は世界的なブームを呼んでいる「和食」を取り上げたいと思います。

牛肉を何の味付けもせずワサビか塩で出す、そんな店が外国にもあるでしょうか。もし

あれば、お客さんが怒り出すかもしれません。そんなことはないという反論もあるでし

ょうが、それは近年の和食ブームのおかげではないでしょうか。見た目も味もできるだ

け素材を生かそうとするのが日本料理の特徴です。盛り付けた料理にも素材が分かる形

でアレンジされています。ソースではなく出汁で味付けをします。魚も野菜も切れ味に

こだわります。

 

他にも浮世絵の影響を受けていると思われるマンガや、○○模様と呼ばれる伝統的な和

柄や家紋などのデザインも削ぐ文化の流れの中にあると思います。

数え上げればきりがない日本の「削ぐ文化」ですが、よく考えれば、それは近年の世界

的な課題として注目されている「地球環境」や「SDGs」にフィットした文化でもあります。

周りを見渡せば「盛る文化」の方が「削ぐ文化」を圧倒しているようにも見えますが

、私たちには「削ぐ文化」の遺伝子が受け継がれています。

渡辺京二は名著「逝きし世の面影」の中で、“文化は滅びないし、ある民族の特性も滅

びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である”と書いて、長い鎖国

の中で生まれた江戸後期の一つの文明が滅んだことに思いを馳せていますが、たしかに

文化は滅んでいないと思います。

しかも時代は、再びその文化に光を当てることを求めているようにも感じます。

                         2022.1.11

 

 

本物と偽物(Y-37)

 

正月恒例の人気番組に「芸能人格付けチェック」というのがあります・・・と始めて、

(この話題前にも取り上げたことがあるな・・)と思い出しました。

探してみたら、去年の1月4日に書いた、「知識と教養」にありました。

そして大胆にも、「知識」が現在完了形であるのに対して、「教養」は現在進行形であ

り、「物知り」は多くのことを知っている人で、「教養人」は多くの無知を知っている

人だと結論付けていました。

これを訂正する気持ちはありませんが、今回思ったのは「知識」と「教養」ではなく、

「本物」と「偽物」に関するお話です。

きっかけは、番組の中で出題された「高級牛肉(近江牛)」と「豚肉」と「カエル」を

6組の芸能人に当てさせる問題です。その結果は、何と正解は1組だけで、豚肉と間違え

たのが1組、あとの組は全員「カエル」を選んでしまい、“写す価値なし”として画面

から消されてしまったのです。それが狙いの番組なのですが、実はカエルを近江牛と間

違えた解答者よりも、間違えさせた料理人こそ注目されるべきかもしれません。解答者

のほとんどがカエルの肉を最も美味しいと感じたわけですから、この「偽物」は高く評

価されるべきではないかと思うのです。

ずばり「本物」か「偽物」かに焦点があてられる「開運!なんでも鑑定団」という番組

もあります。

アッと驚く”掘り出し物“もあれば、騙されて買った「偽物」もあり、悲喜こもごもの場

面が人気を呼んでいるわけですが、時には鑑定士を悩ませるなかなか優れた「偽物」も

登場します。しかし、ひとたび「偽物」と判定されれば「家宝」もいわゆる二束三文の

ラクタになってしまうのである意味残酷です。

物まねタレントの世界があるように、美術の世界にもたとえばゴッホ風の絵”の市場

があっても悪くはないような気がします。

そもそも、なぜ偽物が生まれるかといえば、“本物に対する価値が法外に跳ね上がって

いる”からで、その主たる要因は”希少価値“にあります。

優れた「偽物」が生まれる背景には、優れた才能を持つ不遇な芸術家の”恨み“が動機と

なっているケースもありそうです。

そのことを示しているのが、20世紀最大ともいわれる”フェルメールの贋作事件“です。

 

事の発端はナチスドイツの崩壊でした。

ヒットラーはウィーンの美術アカデミーを2度も受験するほどの美術好きで、故郷に美

術館を設立する夢を抱いていたそうですが、そのために多くの作品を集めていました。

そして、彼の片腕ゲーリング元帥も負けず劣らずのコレクターでした。

ヒトラーの自殺により戦争が終わると、ヨーロッパの国々は略奪同然に奪われた美術品

を取り戻す活動を始めましたが、その最中、ゲーリングの隠れ家からオランダの国宝と

も言うべきフェルメールの作品<姦通の女>が発見されます。

その出所を調べていくと、画家にして画商の一人の人物「ファン・メーヘレン」という

男にたどり着きます。彼は自分が200点以上のオランダの古い絵画プラス大金と引き換

えにその絵画を売却したことを認め、“国宝をナチに売った対独協力罪”で逮捕されま

す。反逆罪に当たる重罪です。

真珠の耳飾りの少女」などの作品で知られ、日本でも大人気のフェルメールは、いわ

ゆるバロック時代を代表する画家ですが、その作品数は35点ほどしかなくオランダでは

国宝扱いですから、このメーヘレンという男がどうやってフェルメールの作品を手に入

れたのかに遡って調査しなければなりません。その取調官の中に、メーヘレンをなかな

かの人物だと認め、次第に雑談をかわすような関係なったピラーという男がいました。

通常はあり得ないことですが、彼はメーヘレンを牢から連れ出しドライブに誘って言い

ました。

「あなたは200点以上のマイナーな作品を救ったかもしれないが、偉大なフェルメール

の作品の一つがゲーリングにわたったのです」

「バカな!君は私がフェルメールをナチのクズ野郎に売ったと思ってるが、あれは私が

描いたんだ」

驚くべきことに、彼はその他にも美術館などに飾られている数点のフェルメール作品を

自分が描いたものであると主張したのです。

そして、メーヘレンはむしろ誇らしげに偽物づくりの詳細を騙り始めます。

美術の世界には偽物が横行しているので、有名作家の作品は厳しい鑑定に耐えなければ

なりません。美術評論家(鑑定士)はもとより、科学的な分析も実施されるのです。

メーヘレンの自白により、驚異的な贋作技術が明らかになってゆきます。

先ずはフェルメールの時代(300年前)の絵画を手に入れ、そこに描かれている絵を丁

寧にはがすことから始まります。額やキャンバスが当時のものでなければたちどころに

偽物とわかるからです。

次は当時の絵の具を自分で作らねばなりません。フェルメールは金持ちの奥さんの実家

からの支援があり、独特なブルーの元となる金よりも高価な石をふんだんに使っていま

した。その最大の特徴を無視して偽物は創れません。絵の具の材料にはずいぶん苦労し

たようです。

しかし、かれの絵の技術は卓越しており、フェルメールに似せて描くことはさほど問題

ではありませんでした。

題材として選んだのは宗教画でした。それは、実際にあるフェルメール作品に、当時の

主流であった宗教画がほとんどなく、初期に描かれた宗教画がどこかに埋もれているの

ではないかと推定される背景があったからでした。それを考慮して、メーヘレンはフェ

ルメールの成熟期の作品を想起させるような部分を加えながら少し”未熟な”匂いのする

作品に仕上げたのです。

つまり、専門家であればあるほど、傑作ではないがフェルメールの初期の作品に間違い

ないと思わせるような見事な「偽物」を描いたのです。

最後は表面処理にかかります。試行錯誤の末に編み出した窯で焼くという方法で表面に

ひび割れを作り、その割れ目には古い埃を振りかけるという念の入れようでした。

仕上げは、作品の出所に関するストーリーの創作です。彼は、名は明かせないが、ある

没落貴族が売りたがっている絵画の中にちょっと気になる絵があるという話を、美術界

の底辺に流してじっと待ちます。やがて、その話は上流まで伝わり、かつて自分の絵を

こき下ろした当時NO.1の美術評論家ブレディウスが見事に彼の網にかかります。

ついに、時の最高の権威がメーヘレンの贋作に“お墨付き”を与えることになるのです。

メーヘレンは大いなる喜びを感じたことでしょう。彼の動機には、自分を貶めたブレデ

ィウスに一泡吹かせてやろうという“復讐心”があったことは間違いないからです。

 

しかし、取り調べの中で、いかに彼が詳細に偽物づくりの種を明かしても、実際に彼が

描いたことの証明にはなりません。

そこで例の取調官が提案しました。

「あなたが本当に描いたのなら、その作品の模写を描いてみてはどうですか」

メーヘレンは即座に応えました。

「模写?。そんなものは芸術的な才能の証にはなりません。それよりも、フェルメール

のオリジナル作品を描いて見せましょう」

 

いまやメーヘレンを半ば信じている取調官ピラーは、記者会見を開きこう告げました。

「被疑者は今、ヘルマンゲーリングに売ったフェルメール作品<姦通の女>が、実は贋

作だと主張している。彼の自白によれば、彼はフェルメールその他の画家による12点ほ

どの作品を偽造した、それらの多くは一流の公私のコレクションに収蔵されている。

中でも重要な作品はボイスマン美術館自慢の<エマオの食事>である。」

そして、第2回目の記者会見で、被疑者が自分の絵であることを証明するため、皆の前

で新たにフェルメール作品を描くことになったと告げると記者たちは騒然となり、海外

をも巻き込んだ騒ぎとなりました。

やがて別室に準備が整えられ、関係者が見守る中でメーヘレンが作業に取り掛かりまし

た。

ここまでの話は「私はフェルメール」(講談社)という本をベースにして勝手に要約

たものですが、その本ではこの場面をこのように書いています。

“描写の作業が始まるや、そこにいる誰の目にも、その男が<姦通の女>を簡単に描け

る画家で、おそらく<エマオの食事>を製作するだけの才能に恵まれていることが明ら

かになった。”

この衝撃的な”実演”により、世間のムードは一気に変わりました。

昨日までの売国奴が英雄になったのです。

裁判のムードも変わりました。弁護人も余裕の弁論を繰り広げます。

“被告は提供しているのがフェルメールだと口にしたことは一度もない。フェルメール

作品だと言ったのは専門家たちなのです。このどこが詐欺なのか”

“犠牲者のうちの誰も作品を手放そうとしない。その中の一人は購入金額の全額を支払

うと言われても断ったのです。どこに被害者がいるというのか”

 

裁判は一気に進展し、判決が下りました。それは、判事の力の及ぶ範囲で最も軽い禁固

1年というものでした。検察側の勧めに従い、贋作は破壊されず持ち主たちに返還され

ました。

<姦通の女>はオランダ国家の所蔵となり、未売却の作品はメーヘレンの元に返されま

した。

そして判事は2週間の異議申立期間を提示し、メーヘレンは保釈金を収めて仮釈放の身

となりました。そして、女王への恩赦請求が準備されている最中に彼は突然の心臓発

作に見舞われ命を落としました。結果的に1日も刑に服することなく生涯を終えること

になったわけです。

彼の作品は、贋作でありながら破棄されることもなく多くの美術館に所蔵されていま

す。それは、ハン・メーヘレンの画家としての才能が認められた証でもあり、彼にとっ

ては最高の結果というべきでしょう。

 

概して、「偽物」はただ「偽」というその理由だけで、馬鹿にされ、嫌われ、蔑まれま

す。しかし、「偽物」の中には、なかなか”天晴な偽物“もありそうです。

また、「偽」は「真似」に通じる部分があり、「真似」も同様の扱いを受けがちです。

童話などの世界でも、人のまねをして失敗する話はいくつもありますが、「学び」の元

は「まねび」であることを思うと、「真似ること」を端から否定するのもいかがなもの

かと思う次第です。

                           2022.1.7

 

終わりと始め(Y-36)

晦日、とくに見たい番組がなく、久しぶりに紅白歌合戦をたっぷりと観た。

残念ながら、初めて聞く歌や知らない歌手が多かったが、映像だけは少し楽しめた。

その流れにまかせて、“行く年くる年”の除夜の鐘を聞きながら、こんなことを思った。

 

行く年と来る年の境界には、何かがあるわけではなく、ただ見えない線が引かれている

だけである。例によって、世界のあちこちでその見えない線を乗り越える瞬間に向けて

のカウントダウンが始まるのだが、その瞬間に何かが物理的に変化するわけではない。

つまり年の終わりと年の初めは呼び名が違うだけで、実は同じものだ。

 

人生は、無限に広がる白紙の上に散りばめられた、これまた無数の「点」の中からどれ

かを選び、点と点を結ぶ作業を繰り返すようなものだと思う。

それらの「点」はいわゆる人生の「節目」であり、それまでの活動の終点であると同時

に次の活動の出発点となる。いわばEND/STARTボタンのようなものである。

そうした「点」は、半ば必然的に訪れる場合もあれば、突然に何の前触れもなく訪れる

場合もある。入学、卒業、就職、結婚、子の誕生、親の死、などは誰にも訪れる節目で

あるが、個人ごとに細部を見れば、それぞれはまるで人相のごとく個性的で千差万別で

ある。

 

シェークスピアの、彼にしてはあまりパッとしない「All’s well that ends well」(終わり

良ければ総て良し)という戯曲が出所らしいが、「始め良ければ終わり良し、終わり良

ければ総て良し」という言葉がある。たしかに、何事もいいスタートを切れば半ば成功

したようなところもあるし、結末さえ良ければ途中はどうでもよいといった面もある。

しかし大切なことは、始まりと終わりは川の流れのように繋がっていて、何かが始まれ

ば必ず終わりがあり、何かが終われば必ず何かが始まるということだ。

 

世界は、長引くコロナ禍の所為で経済を始め様々な分野で泥沼状態から抜け出せない状

況が続いている。しかし比較論的に言えば、日本はダメージが少ない方なので、よりい

いスタートが切れるはずである。2022年の始まりは、願わくば日本がいち早く光を取り

戻し、復興の先頭に立ってほしいものだと思う。

                          2022.1.3

日はまた昇るだろうか(J-93)

 

エアコンと電話機が続けさまに故障した。

思い返してみると、ここ数年の間に冷蔵庫、掃除機、給湯器などが次々に故障してい

て、何となく最近の家電製品全般に不満を抱きながら、馴染みの販売店に足を運んで唖

然とした。多くの商品が入荷待ちになっており、やたらと在庫切れが多いのである。

「どういうこと?」と店員に尋ねると、

「お聞き及びかと思いますが、半導体不足の影響です」という。

その話は耳にしていたが、これほどの影響が出ているとは思っていなかったので、少々

驚いた。そして、80年代ーつまり私たちの世代が現役だったころーのいわゆる”日の丸

半導体“が世界を席巻していた頃を思い出した。

ここに「ニッポンなんでも10傑、‘89年版」という週刊ダイヤモンドの別冊がある。

かつては毎年発行されていた別冊で掲載項目は1075にも及ぶ。

10年後20年後に振り返ってみれば面白いかもしれないと思って捨てずにとっておいたの

だが、その通りだったので今も捨てずに時々見ることがある。

で、探してみたら「ビッグ国際半導体メーカー」という項目があって、次のデータが掲

載されている。

 

 1.日本電気         31.9億ドル

 2.東芝           29.4

 3.日立製作所        27.8

 4.モトローラ        24.5

 5.テキサスインスツルメント 21.3

 6.富士通          19.0

 7.フィリップス       16.0

 8.インテル         15.0

 9.三菱電機         14.8

 10.松下電産・電子     各14.79

 

以上の通り、上位10社のうち6社が日本企業であり、世界の5割以上のシェアを誇ってい

たのである。それが今は1割以下、国内需要を満たすどころか半導体不足にあえいでい

る。

半導体は“産業のコメ”とも呼ばれ、ありとあらゆる分野に使用されているのでその影響

は広範囲に及ぶ。自動車産業もしかりだ。来年3月期の予想は、トヨタ30万、ホンダ80

万、日産60万、マツダ20万、スズキ64万台と大幅な減産見通しとなっている。

余談になるが、ついでにこんなデータも見つけた。

それは、「家庭で良く買うコメの値段ランキング」というものだが、米10キロの値段で

1位は5600円、2位5800円、平均は5300円となっている。つまり30年前のコメの値段は

現在よりもずいぶん安いのである。消費者物価指数でみてみると、日本はこのころから

ほぼ横ばいで推移しているのに対し、中国や韓国はほぼ10年毎に1.5倍に増大している。

半導体産業の失速とコメの値段の停滞は、ある意味日本経済の実態を表しているように

も思えてくるのだが、半導体に話を戻そう。

日の丸半導体は、何故このようなことになってしまったのだろうか。

聞こえてくるのは”恨み節“である。

 

80年代の後半、圧倒的な日本の半導体に危機感を抱いた米国との間に、軋轢が生じた。

いわゆる「日米半導体摩擦」である。アメリカの言い分は、このままでは自国の半導体

産業(技術)が壊滅し、安全保障上の問題が生じるというものだ。なにかにつけて、安

全保障にかかわると言い出すのはアメリカの常套手段なのだが、日本は要求をのんで

1986.7月に「日米半導体協定」を結んだ。日本の勢いは削がれたものの不十分と見たア

メリカは、協定が切れる1991.7月、さらに厳しい条件を強要し第2次協定が結ばれるこ

ととなった。

高い関税、米国規格への統一、日本国内シェアの20%以上を外国製品とするといった理

不尽な条件を負わされ、日本メーカーは事業を縮小せざるを得なかった。

そこに目を付けたのが韓国と台湾である。関税回避のために技術移転しませんかと誘

い、技術者を高給で迎え入れたのである。当時年収450万円程度の技術者を3000万~

4000万円で雇用したというのだから技術者とともに情報が流出したのは当然だ。

一時は、飛行機便を使って土日だけのアルバイトに出かけた技術者も大勢いたらしい。

かくして日本の半導体産業はあっという間に衰退し、それを確認して日米半導体協定も

1997.7に失効した。

 

これが”恨み節“の大まかなストーリーなのだが、”泣き言“と言われても仕方がないとこ

ろもある。むしろ、中国メディア(新浪経済)が2019年2月に掲載した「日本の半導体

産業が衰退した4つの原因」を謙虚に受け止めるべきかもしれない。

 

4つの原因を要約すれば次のようなことになる。

  • 組織と戦略の不適切: 日本の半導体メーカーの多くが総合電子企業の1部門からスタートしており、素早い決断ができない弱点があった。
  • 経営者の素質:世界市場で争う企業は、必要とあらば飛んで行って直談判する必要があるが、そのような人材に欠けている。
  • 強い排他主義:日本企業は困難を恐れて買収を拒み、自分の技術にこだわるため、ファブレス企業(工場を持たない企業)が誕生しない。
  • 技術偏重で経営軽視の姿勢:細かな技術よりも顧客とともに用途を開発しニーズを創造する戦略が重要になっているが、この変化に鈍感である。

よりによって、中国のメディアからこのような論評をされることが癪に障るが、泣き言

を並べる前に参考にすべき指摘かとも思う。

中国の経営者は、「上有政策 下有対策」という言葉どおりたくましい。

さて、30年前の世界の50%以上から10%以下に凋落してしまった日本の半導体産業、も

はや挽回不可能のようにも見えるのだが光はある。今でもセンサー半導体半導体製造

装置の分野では日本はトップレベルを維持しているのだ。それらの工場がある熊本県

台湾のメーカーTSMCソニーと合弁で新工場を建設するという。

8000億円をかけて2024年にも稼働させる計画だという。これに付随して空港、鉄道

道路などの拡張や1500人規模の従業員を受け入れる街づくりなどが必要となり、この

ビッグプロジェクトに熊本県は沸き立っている。政府も破格の支援を予定しているよう

だ。

半導体の需要は、今後増々増大することが確実視される一方で、安全保障がらみの制約

が生じる可能性がある。したがって、国内にサプライチェーンを確立させることが極め

て重要だ。

TSMCの日本進出を機に、日本の半導体産業が復活することを願ってやまない。

                            2021.12.25

漠然とした不安(J-92)

“キット来る”と脅され続けてきたコロナ第6波の気配がない。

ある意味不気味な沈静化がここまで続くと、オオカミ少年の譬えが頭をよぎるものの、

漠然とした不安はぬぐえない。

その訳は、この沈静化が日本だけにみられる特異な現象であり、しかもその理由が分か

らないからである。

世界に目をやると、米欧ではワクチン接種が進んでいるにもかかわらず、1日数万人台

の感染再拡大が続いている。

米欧に特殊事情があるわけでもない。対コロナ優等生と言われた国々も同様なのだ。

ベトナムでは11月半ばから連日1万人越えの感染が続いており、オーストラリアは10月

13日に2029人のピークを記録した後、11月15日に995人まで下げたものの再び上昇に転

じている。ニュージランドも数字は小さいが同じ傾向である。

“K防疫”と自画自賛していた韓国は、日本に負けじと行動規制の緩和に踏み切ったあと感

染が急拡大し、過去最大規模の7000人前後に膨れ上がって収まらない。

日本だけが何故収束しているのか‥・何度も繰り返される”謎”である。

そんな中、ips 細胞研究所の山中先生が退任するというニュースが伝えられた。

山中先生は以前、日本の謎“ファクターX”を是非明らかにしたいとおっしゃっていた

が、残念ながらそれはかなわず、このような言葉を残された。

“ウィルスの予測よりも人間の行動を予測するのが難しい”

“科学一般について、真理(真実)に到達することはまずない。いくら頑張っても近づ

くことが精いっぱいで、あとで間違いであったことに気づくことを繰り返している” 

言い訳にも聞こえるが、一流の科学者としての「誠実さ」と「謙虚さ」が表れたものと

みるべきであろう。しかし、ひねくれものの私としては、こう解釈する。

“自信ありげな人ほど胡散臭い”

私たちはと言って悪ければ、私は、あらかた2年になろうとするコロナ騒動を通じて、

いわゆる専門家と呼ばれる人や、専門家でもないのに断定的にものを言うコメンテータ

ーたちの意見に結構振り回されてきた。結果としてそれは裏切られることも多かったの

だが、漠然たる不安の原因が“わからないこと”である以上、断定的な物言いや希望的観

測にすがろうとするのはある程度仕方がないところもある。

そして、“分からないこと”の代表がコロナ感染における日本の特異性である。

世界の感染が再拡大しているなかで、日本だけがこのまま収束させられるだろうかとい

う疑問がそのまま不安につながっている。

だからこそ“ファクターX”の解明が必要なのである。

そして今また新しい説が登場した。APOBECという酵素の存在だ。

国立遺伝学研究所新潟大学の合同研究チームが発表した説を極めて簡単に説明する

と、コロナウィルスには、nsp14というウィルス自身の遺伝子修復を行う酵素があるの

だが、一方人間の側にもAPOBEC という酵素がある。APOBECはウィルスがコピーする

際にエラーを起こさせる働きがありウィルスを自滅させる。日本人はそのAPOBEC活性

が高いというものだ。

実際は(真実は)、いくつかの複合的な要因が重なって日本の特異性が生まれているの

だろうとは思うが、今はこのAPOBEC活性説も有力な要因の一つであると信じたい。

                            2021.12.13