樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

自粛に慣れよう (J-13)

 

かれこれ一か月、ささやかな自粛を続けている。

誰も来ないし、パチンコにも行かない。

しかし、そんなことは、さほど苦にはならない。

辛いのはスポーツ中継がないことだ。

何せ、「今年はショーヘイ、しぶこ、Olympic

と年賀状に書いたほど、大いなる期待をかけていたのだから、

本当にがっかりもいいところだ。

ところが、人間とは不思議なもので、

今ではすっかり慣れてしまって、

花の世話に散歩に読書、

そして焼酎を一杯飲んで、勢いに任せてブログを書くか、

でなければ映画を一本観る。

すっかりパターンが出来上がってしまっているのである。

 

振り返れば、こんな経験は何度かある。

最初は50年以上前のことで、

鼻の手術をして一か月ほど入院したときだった。

病院の朝は遅く、夜は早い。

10時間の間に3回食事して、あとは食べない。

初めのうちは、夜中に腹がすいて眠れなくなる。

ところが、一週間もしないうちに慣れてくる。

薄味の食事がおいしくなり、10時にもならないうちに

眠れるようになる。

そのうち何やかや楽しみもできて、退屈することもなくなる。

 

そういえば、

森本哲郎が「ことばへの旅」でこんな言葉を取り上げている。

“人間は、いかなることにも慣れる動物である”

                ドストエフスキー

そしてこういうのである。

“私はどういうわけか「人間」という言葉を耳にすると、

きまって、ドストエフスキーのこのことばが胸に浮かぶ“と。

 

「いや、そうじゃないでしょう」と私は言いたい。

慣れるのは人間ばかりではないのだ。

他の動物も、植物も、生き物たちすべてにとって、

生きることとは慣れることと同意ではなかったか。

 

大都会の元気な若者たちの一部がシャッター街を抜け出して、

遠くの町まで出かけていったことなども影響したのか、

緊急事態宣言が全国に拡大された。

“我慢の限界?”

冗談を言っては困る。

人間は、少し我慢すれば、慣れてくるように出来ている。

子供らを観よ、彼らは遊びの天才だ。

棒切れ一つでも遊びを創造する柔軟さがある。

 

生きるためには慣れることが必要なのである。

                   2020.04.19