樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

統一教会とメディア(J-119 )

長らく世の耳目を集めてきた問題と言えばコロナとウクライナであるが、この7月から

は「旧統一教会」がそれに加わっている。とくにTVの世界では、ニュースもワイドショ

ーもこの“3本建て”が定番となっている。いずれも出口が見えないものの、コロナは感染

者数から死者数へ、「統一教会」は被害よりも「政治家との関係」へと、時とともにそ

の焦点は移動している。それはある意味当然なのかもしれないが、「統一教会」に関し

ては当初から気になって仕方がない部分が私にはある。

それが何かと言えば、この宗教法人とメディアの双方に感じられる同質の”匂い“のよう

なものだ。そしてそれは、決してメディアが報じないところでもある。

その匂いとは何か、それはどこから来るのか、この際少し掘り下げてみたいと思う。

 

統一教会」とは、文鮮明という人物が1954年韓国に創設した「世界基督教統一神霊協

会」という宗教団体の略称である。日本へは1959年から布教を始め1964年に宗教法人と

して認可されている。

そこに至るまでの文鮮明の半生はまことに波乱万丈である。生まれたのは1920年、つま

り日本統治下における現在の北朝鮮だ。大東亜戦争の最中には日本の専門学校で学び

1943年に帰郷するが、「抗日独立運動」にかかわっていたという容疑で逮捕される。

その後、金百文が立てた「イスラエル修道会」に入り強い影響を受ける(この時代に

師の執筆中の原稿を盗んだという説もある)。1945年からこの「原理」に基づいた布教

活動を始めるが、キリスト教主流派などから迫害されソ連軍占領下の平壌に移る。とこ

ろがここでも南朝鮮のスパイであるとされ収容所送りとなる。するとそこに救いの主が

訪れる。1950年に勃発した朝鮮戦争だ。彼は国連軍に解放されて釜山で港湾労働者とし

て働き始める。そのかたわら1952年に「原理原本」を完成させ、翌年にはソウルに拠点

を移してついに「統一教会」を創立する。それが1954年、自らをイエス・キリストの再

臨と宣言する34歳の教祖の誕生である。

その後1960年には、生涯の伴侶にしてよき協力者となる当時17歳の韓鶴子と結婚を果た

す。彼自身は41歳にして3度目の結婚であるが(関係した女性は多すぎて詳細不明)、

鶴子との相性はよく14人の子供をもうけている。

1972年にはアメリカに総本部を移して布教活動を世界に展開してゆく。その活動を強力

に後押ししたのは、反共産主義思想の展開と資金調達の成功である。

1968年には「国際勝共連合」を設立して韓国の朴政権や日米の保守政治家との結び付き

を深め、1974年には「世界平和教授アカデミー」を設立する。そして、75年の「世界日

報」、82年の「ワシントンタイムズ」発刊へと言論界にも足を踏み入れてゆく。それら

の活動に必要な莫大な資金のほとんどは日本から調達したとみられているが、問題はそ

の方法である。

1980年代、教会は姓名判断や家系図鑑定と絡めた印鑑や壺などの商品販売を始める。

いわゆる「霊感商法」である。やがてその悪名が世に知れ渡りうまくいかなくなると、

次はターゲットに狙いを定め徹底的に搾り取る作戦に切り替える。その被害者の一人が

安倍元総理を殺害した若者の母親というわけだが、協会は信者たちに対し、“かつて日

本(人)は韓国(人)に対して消すことのできない悪事を働いているのでその償いをし

続けなければならない”という教義の“刷り込み”を行っているのだという。

さて、日本(人)だけに通じるそれらのアイデアは誰が考えたのであろうか。

私はそのアイデアは日本人のスタッフから生まれたものに違いないと思う。そして、

そのスタッフはおそらく、”日本(人)は贖罪すべきだ”と信じているのである。

 

統一教会が盛んにあくどい資金集めをやっていた1980年代、日本はバブル経済に浮かれ

ていた時代であったが、いわゆる歴史問題がクローズアップされた時代でもあった。

・1982年、「第1次教科書問題」が発生した。6月26日の朝刊で、新聞各社が“教科書検

定で「侵略」が「進出」に書き換えられた”と一斉に報じたのが発端だ。7月26日には中

国政府が抗議する事態に発展する騒ぎとなるのだが、よく調べるとその事実はなく、

記者クラブが手分けして調べた作業におけるカン違い、つまり誤報であった(ある記者

が意図的に行ったという説も有力である)。

・1985.8.6 朝日新聞が「靖国批判」を報じた。1978年にいわゆるA級戦犯が合祀され

ていたことを知り、疑問を提示したのである。これによって中国政府が初めて靖国を非

難し、騒ぎは大きくなって中曽根首相は翌年から公式参拝を止めた。数年おきに実施さ

れていた天皇陛下の親拝は1975.11.21以降実施されていない。

終戦直後、靖国は存続か解体かで揺れ動いていた。わずか1年余りで憲法を制定させた

GHQ靖国の解体に踏み切れなかったのは、カトリック神父などの進言の影響もあり賛

否が分かれていたからだ。しかし、存続の決め手となったのは、もたもたしているうち

GHQの軸足が「日本の非軍事化」から「共産主義に対抗する同盟国」へと変化した事

情があったものと思われる。アメリカにとっての真の敵が誰であるかを理解した瞬間と

も言えるだろう。

戦後靖国は国の管理下にはなく神社本庁にも属していない。だから何事も、違法性がな

ければ“靖国の勝手”であり、そうでなくても内政問題である。

しかし、このままでは国に殉じた英霊たちに申し訳が立たないことも事実だ。

やはり天皇陛下の親拝があってこその靖国であることを思えば、その環境が整備される

ことが国民の願いではないだろうか。

・1983年に吉田清治が「私の戦争犯罪」で“慰安婦狩り”を著わしてから、その真偽をめ

ぐる論争が激しくなっていた慰安婦問題であるが、1991.8.11に元慰安婦が名乗り出た

とて朝日新聞がスクープした。植村隆記者の署名入りである。

タイトルは“元朝鮮人従軍慰安婦戦後半世紀重い口を開く”でその記事の前文には“「女子

挺身隊」の名で戦場に連行され・・・”と書かれている。

さらに朝日は、1992.1.11の一面トップで「慰安所軍関与示す資料」が発見されたと報

じ、それが事情がよくわからないまま5日後に訪韓した宮沢首相が8回も謝罪するという

失態を演じるもととなった。

その資料は、普通に読めばわかるのだが、実は騙して募集するような悪質な業者の取り

締まりを強化せよという軍の指示であり、関与は関与でも真逆の事実を証明する試料で

あった。

吉田清治の証言は後に本人が作り話であることを自白し、植村記者の記事にも明らかな

誤謬が見られるにもかかわらず、朝日が一連の記事の誤りを認めたのは2014.8.5であ

り、このときに謝罪はしていない。謝罪はその後の非難を受けて、福島原発事故の際の

誤報(作業員が命令に違反して撤退した)に対する謝罪会見時に合わせて付け加えただ

けである。その態度は、”自分たちの報道姿勢は正しい”と言わんばかりである。

 

かくのごとく、いわゆる歴史問題は真実とはかけ離れたところで論争が続いている。

しかもここに上げた例が示すように、その多くは”日本発“といってもよい。

Comfort womenに変えて、初めてsex slave という言葉を使ったのも日本人の戸塚悦朗

弁護士だ。

 

門田隆将は「新聞という病」のなかで、問題のトリガーとなった一連の報道を「ご注進

ジャーナリズム」と呼び、”彼らに「自分たちが日本を貶めている」という意識は全く

ない”と驚いている。おそらくその通りなのであろう。

だからややこしいのである。

やっていることは反日でも、心は愛国なのかもしれないのだ。

 

統一教会をよく知る人たちは「信者の皆さんは“いい人”が多い」と口をそろえる。

彼らは韓・中に対する贖罪こそが第一に為すべきことであると信じ、あたかも免罪符を

得るが如くに教会のいかがわしい商品を買い献金を続けている・・・おそらく。

 

こうして掘り下げてみると、私が統一教会とメディアの双方から感じる同じ匂いの正体

は、どうやらこの韓・中に対する「贖罪」意識のようだ。そしてそのもとはと言えば遠

く遡った戦後の数年間GHQに支配されていた時代に受けた“刷り込み”にあると考えられ

る。それが東京裁判史観だと言われれば、否定はしない。この呪縛から脱却するのは容

易なことではないが、重要な鍵の一つが「憲法改正」であることは間違いない。

言うだけ番長“”検討士“のニックネームを付けられた岸田総理への期待感は萎むばかり

である。

                       2022.08.25