2月24日、ロシア軍がウクライナへの全面的な侵攻を開始し、首都キエフに迫っている。
北京五輪の前あたりから、アメリカなどが“もはや秒読みの段階”であると警報を発して
いたが、日本のメディアや識者は“まさかそこまではやらないだろう”“オリ・パラ期間中
はないだろう”と能天気な発言を繰り返していた。彼らは完全にプーチンを見誤ってい
たことを恥じねばなるまい。 プーチンに“まさか”はないのである。
侵攻の理由について、プーチン大統領は“ウクライナ政権によって8年間虐げられてきた
人々を保護することが目的だ、ウクライナ軍の武装解除を目指す”とTVを通じて演説した。
ウクライナでは、8年前に親露派のヤヌコヴィッチ大統領が失脚し、欧米寄りのポロシ
ェンコに代わった。その後を継いだ現大統領ゼレンスキーもEU、NATO入りを目指して
いる。ゼレンスキーはもとコメディアンで、{国民の僕}という連続ドラマで主人公の
大統領を演じて人気者となり、まるで続編を演じるかのように今度は本物の大統領にな
った44歳の人物である。プーチンはこの大統領の首をできればベラルーシのルカシェン
コのような人物に挿げ替えたいのであろう。
彼としては、元ソ連を形成していた国々が次々に剥がされていくことに我慢がならなか
ったのであろうが、今の時代、このような手法が強烈な反発を受けることは自明であ
る。それを分かっていて強行するのは、プーチン自身のいわば”個性“に起因するところ
が大きいのではないだろうか。
彼は尊敬する人物として、ナポレオン、ドゴール、それに元西独首相のエアハルトをあ
げている。一言で言えば“突破力”のある人物だ。しかし私は、1971年にドイツ統一を果
たして“鉄血宰相”と呼ばれた、あのビスマルクの有名な演説の一節が頭に浮かぶ。
“言論や多数決によっては現在の大問題は解決されない。鉄と血によってのみ解決され
る”という言葉だ。
プーチンのここまでの足跡をたどれば、自ずから彼の人物像が見えてくる。
・彼は1952年レニングラードで生まれた。父親は傷痍軍人で機械技師、祖父は料理人で
裕福な一家ではなかった。兄が二人いたが若くして病死したので、彼は一人っ子のよう
に育った。幼少の頃は、かなりのわんぱく小僧だったらしいが、14歳のころ映画などの
影響でスパイにあこがれを抱き、どうすればいいかを聞くため直接KGBを訪れたとい
う。そして、そ戸で受けたの助言通り法律を学び体を鍛えて1975年にKGBに入る。
・1991年、彼は中佐でKGBを辞職するが、レニングラード市長のサプチャークに見いだ
され副市長として辣腕を振るう。この時、レニングラードはサンクトペテルブルクに名
称を変える。サプチャークは、プーチンの恩師であるが、のちにプーチンと大統領/首
相を交互に勤めるメドベージェフも彼の教え子である。
・1996年、サプチャークが選挙に敗れるとプーチンも新市長の継続要請を断り辞任す
る。すると今度は大統領府から声がかかり中央政界への道が開ける。
・1998年にはKGBの後身であるFSB の長官に就任すると、エリツィン大統領のマネーロ
ンダリング疑惑を捜査していた検事総長の女性スキャンダルを暴いて失脚させたり、政
敵のエリツィン追放クーデターを未然に防止するなどして、エリツィンの絶大な信頼を
得る。
・199年には首相に就任、同年末にエリツィンが健康上の理由で辞任し、ついにプーチ
ンは大統領代行となる。
・大統領代行となって最初にやったことは、大統領経験者とその一族の生活を保障する
という大統領令に署名することであった。これはエリツィンの恩に報いるだけでなくわ
が身の安全をも保障することになった。そして4か月後の選挙に勝って正式に大統領に
就任する。
・2000年、国歌を改める。ロシア国歌は、ソ連崩壊後メロディーのみの新国歌が作られ
てはいたが、国民の間では不人気であった。プーチンはそれを廃棄し、ソ連時代のメロ
ディーを復活させるとともに、ソ連国歌と同じ作詞家に命じて新たな歌詞を付けさせた
のである。この事実は、彼がソ連崩壊により解体した共産党の党員証を今も大事に持っ
ていることと合わせて考えると、プーチンを知る上での重要なヒントになる。
つまりプーチンは旧ソ連に対する”思い入れ“が相当に強いと考えてよい。
・2004年地方の知事を直接選挙制から大統領による任命制に変更。
・2006年、反プーチンの活動家たちの不審死が相次ぎ、政府側の関与が疑われる。
女性ジャーナリストアンナ・ポリトコフスカヤが自宅アパートで射殺される。
もとKGB のリトビネンコが放射性物質ポロニウムを飲まされ死亡。
2007年イギリスに亡命したベレゾフスキーの暗殺計画が発覚
1999年~2006年までに死亡または行方不明となったジャーナリストは126人に達する
(ロシア情報公開擁護財団)というレポートもある。
・2008年憲法により制限されている2期を務め大統領を退任。後継者にはプーチンが首
相に指名していた”弟分“のメドベージェフが選ばれ、自身は首相となって事実上の最高
権力者であり続ける。またこの間に、知事を国家公務員にして首相の管轄下に置くとと
もに、大統領の任期を6年とする法改正を行う。
・2012年、それが予定表であるかの如く大統領に復帰する。
・2018年、得票率76%で再選を果たす。
・2020年大統領権限の一部を議会に移管するとともに国家評議会の権限を強化する方針
を表明。(大統領退任後国家評議会入りして院政を敷く布石と見る向きもある)
・2021年国民投票を経て、あと2回立候補できるよう憲法を改正、2036年まで大統領を
続ける可能性が生まれる。
・2022年ウクライナ侵攻を開始する
以上、大統領になるまでのプーチンは、常に誰かに抜擢される運の良さとそれに見事に
こたえる能力が際立っている。そして”恩を仇で返す”ような裏切りは全くない。
ところが、大統領になってからは、暗黒面ばかり取り上げてきたにせよ、まさに
”やりたい放題のプーチンさん“である。外交の場面でも、とにかく”相手を待たせる”
ことで評判が悪い”嫌な奴”をわざと演じている。しかし、フォーブスの「世界で最も影
響力のある人物」に4年連続で選ばれるなど、その存在感は絶大だ。
長年にわたる彼の”暴走“のエネルギーはどこからきているのであろうか。
それはおそらく彼の頭の中にある“祖国の栄光の時代”をイメージした“愛国心”と国民の
支持にある。実際彼は、ソ連崩壊後地に落ちたロシアを立て直してきたことは間違いな
い。だからこその国民の支持であり、これまでの軍事行動も国民の支持を得てきた。
しかし、今回のウクライナ侵攻に対する国民の表情は少々異なっているように見える。
プーチンの暴走を止められるのは誰かと言えば、それはロシア国民しかない。
戦争をやめさせられるのはロシア国民だ。だから、効果を求めるならそこに視点を向け
るべきなのである。つまり、ロシア国内で起きている「戦争反対」の運動が拡大するよ
うに情報戦を仕掛けることである。ロシア人は辛抱することには慣れている。生半可な
経済制裁など役に立たず、むしろロシア国民を団結させる可能性がある。
プーチンがやることに“まさか”はないが、今回ロシア国民に起きている変化は、もしか
すると彼自身が“まさか”と思うような事態の始まりかも知れない。
2022.02.28