樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

ショータイムは夢の途中(J-71)

「野茂は子供で大谷は孫みたい・・」

MLBのオールスター中継を観戦していたら、隣の妻が突然そうつぶやいた。

その心は、「野茂はハラハラ・ドキドキしたけど、大谷はワクワクだけ」だという。

(確かに・・・)そう言われてみるとそんな気がしないでもない。

野茂には何かこう悲壮感のようなものが漂っていたが、大谷にはそれが全く感じられな

いのだ。だから、観ている方も随分気が楽である。

何と言ってもメジャーリーガーたちに勝るとも劣らぬ体格なので余裕がある。

 

これまで海を渡った日本人選手の中で、間違いなく歴史に残る足跡を刻んだ選手と言え

野茂英雄イチローの二人であろう。そして今、大谷翔平がそれに加わろうとしてい

る。

面白いことにというか、当然ながらというか、この3人はそれぞれが極めて個性的で、

かつ強運の持ち主であるという共通点がある。

野茂は中・高時代にあの”トルネード“と呼ばれた独特のフォームを独自でつくりあげ、

社会人野球で活躍して名を上げた。そして1989年のドラフト会議を迎えるわけだが、

何と8球団が彼を一位指名した。ロッテ、大洋、日ハム、阪神ダイエー、ヤクルト

オリックス、が順にくじを引き、最後の一枚を引いた近鉄が交渉権を獲得した。

翌年22歳でプロデビューした野茂は仰木監督の下でのびのびと力を発揮し、新人王はも

とより、MVP、沢村賞までかっさらうという大活躍を見せた。成績は18勝8敗21完投で

あった。野茂のトルネード投法には批判も多かったが、スタート時点で欠点よりも長所

を見るタイプの仰木監督に出会えたことは、ある意味彼の運の強さである。

ところが93年監督が交代し鈴木監督になると雲行きがおかしくなってきた。

野茂は四球が多く、盗塁されることも多い。その原因が彼の投球フォームにあるとみた

鈴木監督が、フォームの矯正を考えたのはむしろ当然のことだが、野茂はこれをかたく

なに拒否し続けた。実は、その間の事情を証明するかのようなゲームがある。

94年7月1日の西武戦、野茂は完投勝利を挙げるのだが、要した球数が191球、そのうち

の105球がボール球で、与えた四球16は日本記録である。しかし、ここまでやれば不名

誉な記録とは言えまい。まさに、投げた男と投げさせた男の意地がぶつかり合ったよう

な試合である。

そんな試合の影響もあったのであろう、この年野茂は肩を痛め8勝7敗の成績に終わって

いる。そしてこの年のオフ、契約更改で野茂は妥協を拒み遂に決裂、当時の規約では他

球団へも行けない任意引退という扱いになる。やむなく彼は海を渡る決心をする。

世間は野茂に同情せず、多くの批判を浴びながら、野茂はドジャーズマイナー契約

結ぶことになる。その年俸わずか890万円、厳しい26歳の再スタートである。しかし後

になって考えてみれば、それは野茂の野球人生にとって、二つ目の幸運であったのかも

しれない。

翌95年のMLBは、ストライキで開幕が遅れた。それはマイナーから這い上がるために必

要な時間を野茂に与え、デビュー早々13勝6敗、最多奪三振と新人賞を獲得する。

その後の活躍、そして転々とチームを渡り歩いた不調の時代と奇跡的な復活については

省略するが、表面的には彼の野球人生は逆境との戦いのようにも見える。

“僕はやらなきゃあかんのです。僕が失敗したら日本人選手にダメの烙印が押される”

という彼の言葉は、そのまま彼のプレーに滲み出ていたように思う。

そして、それがハラハラ・ドキドキの理由になっているのだろうとも思う。

 

イチローもまた一つの時代を刻んだ男である。

彼は1991年のドラフト4位でオリックスに入団した。

高校時代は投手で、学業成績も優秀であったため周囲は進学を進めていたが、彼自身は

早くプロ入りした方がいいと考えていた。希望球団は地元の中日ドラゴンズであった。

しかし彼の投手としての評価は高くはなかった。中日のスカウトの一人は、外野手の

1位候補として名電の鈴木一朗を推薦していたが、当時の中日は外野手には関心がなか

った。もしオリックスが4位指名をしなかったならば、中日がその後に指名した可能性

もあるにはあったが、オリックスに入団したことはイチローの「運」でもあった。

最初の2年間、彼はほぼ2軍暮らしで、イチローの代名詞“振り子打法”の改造を迫られて

いた。それを拒否する鈴木とコーチ陣の関係はあまり良くなかったが、94年仰木監督

やってきて鈴木の打撃センスに目をつけ、開幕直前に登録名を「イチロー」に変えて

一軍のレギュラーに抜擢した。そこから彼は7年連続首位打者という偉業を成し遂げるのである。

イチローはのちに、“僕は仰木監督によって生き返らせてもらった”と語っているが、

それは彼のホンネを述べたもの二違いない。

27歳にして、イチローには、“もう挑戦する相手はMLBしかない”という状況がうまれた

が、この時もまた、“MLBでは通用しないだろう”とコメントする評論家の方が多かっ

た。”日本に居ればよかった”と後悔するだろうと言った米人記者もいた。

ところがイチロー自身は未だ進化の真っただ中にあった。

2000年マリナーズと契約したイチローは、翌年デビューするや242本のヒットを放ち、

首位打者盗塁王ゴールドグラブ賞を獲得し、新人賞とMVPにも選ばれるという活躍

を見せる。波に乗るマリナーズはこの年メジャータイ記録の116勝を挙げリーグ優勝し

た。

そして4年目の2004年、イチローは84年間破られることなく、到達不可能とも言われて

いたジョージ・シスラーの年間257安打という記録を267に塗り替えてしまうのである。

しかし、周囲の大騒ぎとは裏腹に、イチロー自身は冷ややかなものだった。イチロー

他人の数字に興味がないのである。262は自分の242に挑戦した結果なのだ。

イチロー語録」には、こんな言葉が残されている。

“他人の数字は限界への挑戦ではない

“他人の記録を塗り替えるには7,8割の力でも可能だが自分の記録を塗り替えるのには

10以上の力が必要だ”

“僕は天才ではない。なぜならどうやってヒットを打てるかを説明できるから”

実は、これらの言動がおそらく妻には引っかかっている部分だ。

その心情を推しはかって補足するならば、妻が最初につぶやいた言葉は、

“野茂は子どもで大谷は孫、イチローは出来すぎた他人の子”

ということになるであろうか。

しかし、イチローを正しく評価するには、次の言葉も同時に見る必要がある。

“準備というのは、言い訳の材料を排除すること(作業)”

“「楽しんでやれ」とよく言われますが僕にはその意味が分かりません”

それでも妻はこうつぶやくであろう。「可愛くない・・・」と。

そういわれれば、それ以上言うことはない。

イチローは、三振かホームランかというパワー偏重のMLBファンに、本来のスピー

ドやテクニックを楽しむ感覚を思い出させた。言い換えればファインプレーと”間一

髪のスリル“への再評価であり”鑑賞“である。それは新たな野球ファンの拡大に寄与した

かも知れず、そこがイチローの最大の功績かも知れない。

 

前二者に比べると大谷は少し違っている、というより極めて恵まれている。

彼は高校時代からMLBへのあこがれが強く、自分のプロ生活を海外でスタートすること

を望んでいた。それをはっきり意思表示していたため2012年のドラフト会議では多くの

球団が指名を避けたが、それを承知で日ハムが一位指名を強行した。そして日ハムは

、大谷の説得に成功し、彼の希望通りいわゆる二刀流の選手として育て上げた。

大谷の日ハム時代5年間の成績は、投手としては85試合に登板し、42勝15敗、13完投、

7完封、奪三振624で防御率2.52であり、打者としては1035打数296安打で打率は.286、

ホームラン48本で打点は166である。盗塁が13と意外に少ないのはケガ防止のため原則

禁止であったものと思われる。また、大谷はこれまで日米を通じて犠打が記録されてい

ない。

大谷は毎年投打とも規定回数に満たなかったこともあり、タイトルがない。だから投手

か打者のどちらかに決めるべきだという議論が沸き起ったが、ではどちらを捨てるかと

言えば意見は割れた。どちらも捨てがたいのである。

やがて5年が過ぎ、彼の希望通りやらせてみるべきだという意見が大勢を占めるように

なった2017年のオフ、大いなる期待と少なからぬ不安をファンに抱かせながら、彼は

ポスティングシステムによりMLBに移籍することになる。

日ハムは譲渡金2000万ドルを手に入れ、ビジネス的にも成功したわけである。.

大谷が選んだ球団はエンゼルスであったが、それは彼が希望する”二刀流“に最も理解が

あったからだと言われている。

そしてMLB最初の年2018年の成績は、打者としては114試合で326打数93安打、打率285

でホームラン22本とまずまずの成績を収める。しかし投手としては、恐れていた右ひじ

靭帯損傷で10試合4勝2敗に留まる。それでも新人賞を獲得するのだが、右ひじの手術に

続き翌年には左ひざの手術とケガが続き、やはり二刀流への疑問と批判が再燃する。

ところが、コロナ禍の20年をリハビリに専念した彼は、見違えるほどの体格となって

21年の開幕に登場する。そこからの活躍はまるで別人である。

“投げて打ってそして走る”

まるで漫画の主人公のような彼のプレーにファンは圧倒され、絵になる男に熱狂した

。何よりもその楽しげな表情に魅了された。

彼は、前半だけでゴジラ松井の31本を抜いてホームラン競争の先頭に立ち、投手として

も4勝を挙げる。そしてついにDHと投手の両方でオールスターに選ばれるという前代未

聞の快挙を成し遂げる。ここで話は冒頭のオールスターゲームに戻る。

アメリカンリーグが発表した先発メンバーは歴史的だ。1番DHと先発投手に同じ選手の

名前が載ったのである。つまりMLBは大谷のために特別ルールを用意したのだ。これで

大谷は必ず両方でプレーし、降板した後も打席に立つことができる。MLBがファンの

要望に応えたのであろうが、それをさせた大谷の存在感がうかがい知れる。

結局大谷は1回を3者凡退に抑え、2打席を内野ゴロで終えたがファンは結構満足した。

勝利投手になったのは“おまけ”である。

プレー以外でも彼は注目の的で、驚かされたのはMLBのスター選手たちがこぞって大谷

に記念写真をせがんだ光景である。

彼らのコメントも大谷の才能がいかに非凡であるかを説明しようとしたものが多い。

前日のホームランダービーで連覇を達成したメッツのピート・アロンソ

“実際に見るまでは「それは無理だ」という人がいる。でもね、彼は世の中が間違って

いると証明しているじゃないか。そして選手がそれをやって見せると世間は「前からわ

かっていたよ」という態度になるけどね”といい、MVPを獲得したゲレーロJr は“僕な

ら大谷をMVPに選ぶ”とコメントした。今や大谷はライバルたちをもファンの一人に

しているのである。

あっという間に頂点に達したかに見える大谷選手の、今後の野球人生はいったいどのよ

うなものになるのだろうか。

遠い将来「昔大谷翔平という二刀流の選手がいて・・」と語られる日が来るのか、それ

ともそれほど遠くない将来に大谷を超える選手が現れるのか、それは誰にも分らない。

しかし、大谷の現在が、ファンにとっても彼自身にとっても”夢の途中“であることには

疑いをはさむ余地がない。

                         2021.7.18