樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

靖国神社について(7)(Y-62)

靖国問題とは>

靖国問題」で検索するとウィキペディアに次の6項目が挙げられています。

しかしこれらの問題は、個別に存在しているわけではなくて、結局は「憲法」と「歴史

認識」の二つに束ねることも可能であり、さらに言えばすべては「歴史認識」の問題で

あると言えそうな気もします。

となれば、もう一度「サンフランシスコ条約」に戻らねばなりません。

前回、“戦争の終結講和条約の発効による”という国際常識についてお話ししました。

従って、講和条約の締結以前に行われた連合国による軍事法廷及び刑の執行は戦争行為

の一環であるということになります。であるならば、講和条約(平和条約)とともに一

切の戦争行為が終結されなければなりません。

世界は幾度もの戦争を繰り返した末に、“講和条約によって取り決められた事柄の外

は、すべて水に流すことにする”という国際常識(慣例)をつくりあげたのです。

とはいえ、現実の講和条約にはあいまいな部分があり、その解釈や範囲をめぐる問題が

しばしば発生しています。

サンフランシスコ条約についても、とくに11条の解釈が分かれ、議論が生じています。

正文は英語、仏語、スペイン語の3種ですが、日本では英文を外務省が翻訳した次の条

文が一般的に知られています。

サンフランシスコ条約第11条

 “日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内および国外の他の連合国戦争犯罪法廷

の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を

執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる

権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定、及び日本国の勧告に基

づく場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者につい

ては、この権限は裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づ

く場合の外行使することができない。”

この条文は、主権を回復した日本政府が、拘禁されている戦犯を国際的慣例に従い釈放

することを禁ずるために設けられたものだと考えられますが、これにより日本政府は既

に死刑が執行された者を除く受刑中の戦犯に対する禁固刑等の執行を引き継ぎ、赦免、

減刑仮出獄等については関係国と協議しなければならないという義務を負わされたわ

けです。

この条文に従い、日本政府は関係国と協議のうえ、昭和33年末までにすべての戦犯の仮

出獄を認めさせ、刑期を満了させました。実はこの時、釈放を求める国民の署名活動が

あり、延べ4000万人を超える署名があつまったのだそうです。

本来ならば、“これにて一件落着”となるべきなのですが、そうはなりませんでした。

日本が「受諾」したのは、裁判の結論(刑の宣告)だけではなく判決文の全てであり、

つまり歴史認識そのものを指すのだという解釈が生まれ、そしてそれが主流となってゆ

くのです。そのカギとなるのが「Judgements」という用語です。

議論は完全に二つに分かれ、適当な言葉が見つからないので仮に右翼系/左翼系と呼ば

せていただきますが、右翼系は「Judgements」は「判決」であり裁判全体を受け入れた

のではないと言い、左翼系は判決文の中には理由などの詳細が含まれているので「裁

判」と訳すことはむしろ正しいと主張します。しかしこの論争は、正文として認められ

ている仏語・スペイン語の原文を見ればはっきりしてきます。

仏語のこの部分は、「judgements prononc」(言い渡されたジャッジメント)と書かれ

ており、スペイン語では「sentencias」(判決)と書かれているからです。この二つの正文

からみれば、「judgements」は「諸判決」と訳すべきことが分かります。

とは言え、この論争はあまり意味がないようにも思われます。そもそもこの裁判はポツ

ダム宣言が法的根拠とはいえ、マッカーサー元帥が有無を言わせず開設したもので、日

本側に受諾するか否かを対等な立場で判断する機会などなかったからです。

「Japan accepts the judgements of・・」とあるように、「受諾」は現在形で書かれて

います。事実上裁判を受け入れた(受け入れさせられた)のは過去のことですから、や

はり「裁判」と訳したのは誤訳なのではないでしょうか。

さて、東京裁判の判決が下された直後、日本側はこれをすんなりと受け入れたのでしょ

うか。実はそうではありません。弁護側からマ元帥には減刑などの訴願があり、米国最

高裁に対しても、マ元帥に米国憲法違反の疑いがある(承認を得ずに新たな罪状のある

裁判所を開設)として提訴したのです。そして、以外にもこれが受理されたのですが、

結局マ元帥は連合国の代表として行ったものであるから、米国裁判所の管轄外であると

して却下されました。

当時、国民の間に戦犯に対する同情の声が少なくなかったのは、彼らが日本(人)を代

表してその罪を背負ってくれたという意識があったからでしょう。しかし肝心の被告人

たちは国体護持のために命を捧げる決意を固めていたこともあって、運動は盛り上がら

なかったようです。

東京裁判では、昭和21年4月29日すなわち「天皇誕生日」に28名が起訴され、その全員

(公判中に死亡した2名と精神障害免訴の1名を除く)が有罪となり、いずれ次の天皇

誕生日となる予定の皇太子(平成天皇)の誕生日に7名の死刑が執行されました。

それを偶然とみるほどの”お人よし“ではありませんが、取り立てて云々するのも却って

むかつきますのでこれ以上は言いません。

日本政府が「判決文全体を受諾した」という姿勢を示したこともあり、その後は次第

に、戦前の日本は”悪“である、しかしその責任は一部の(軍国主義)指導者にあり、騙

されていた国民に罪はないといういわゆる「東京裁判史観」=「自虐史観」が国内にも

浸透してゆきました。

 

A級戦犯とは>

論者の中には、“A級戦犯の合祀から騒ぎが起きたのだから、靖国問題A級戦犯問題

であるという人もいます。それはどういうことなのでしょうか。

A級とは、米国政府の日本人戦犯に関する基本政策文書で定められた呼称で、次のよう

な類型となっています。単なる類型なので、罪の軽重とは関係ありません。

 A級:平和に対する罪  B級:通例の戦争犯罪  C級:人道に対する罪

東京裁判は、侵略戦争を主導した国家指導者を裁くという名目で開設されましt。だか

ら被告全員が「A級戦犯」と呼ばれます。(但し、松井岩根陸軍大将の訴因はBのみ)

A級の”平和に対する罪”というのはそれまで存在しなかった罪です。だから、”事後法で

裁いてはならない“という最も基本的な法の原則を破るものだとして、東京裁判そのも

のが正当性に欠けるという批判もあります。しかし、これは平時における裁判ではな

く、戦時(休戦状態)における軍事法廷なので仕方ないのかもしれません。”この裁判

は復讐と弁解と宣伝に過ぎない“と発言したO・カニンガム弁護士(大島元駐独大使担

当)のような弁護人もいましたが、直ちに解任されてしまいました。

A級戦犯容疑者の逮捕は、昭和20年9月11日の東条英機元首相とその閣僚たちを皮切りに

4次に分けて93名(?)が逮捕され、さらに翌年にも個別の逮捕や外地での逮捕もあり

総計約100名が拘束されました。そのうち28名が起訴され、公判中に死亡した2名(松岡

洋右、永野修身)と精神障害免訴となった1名(大川周明)を除く全員が有罪とされ

ました。約2年半にわたる裁判がようやく結審を迎えたのは、昭和23年(1948)11月

で、4日から判決文の朗読が始まりました。判決文は10章1,212頁の長文で、1週間はか

かるだろうと予想されたとおり、最後の刑の宣告が始まったのは、8日後の12日午後3時

55分でした。

起訴された28名の判決と死刑判決に対する判事11名の賛否、及び靖国神社合祀について

は以下の通りです。下表の中で、死刑判決に関わる各判事の賛否は公表されてはいませ

んが、投票結果については、ほぼ間違いないものと思われます。(「東京裁判」児島襄

によれば、11名の判事のうち、豪・ソ・仏・印の判事はすべて死刑反対、逆に英・中・

フィリピン・ニュージランドはすべて賛成と思われるため、結局、米、加、蘭の3国で

死刑か否かが決まる構成となっていて、広田は米、加の票で死刑となり、嶋田は逆に

米・加の反対票で死刑を免れました。同様に、木戸は米・蘭、大島、荒木は加・蘭の反

対票で終身刑となったようです。広田元首相が死刑になったのは、土肥原・板垣・広田

の3人はどうしても死刑にする必要があると頑強に中国が主張したからだと言われてい

ます。そこに松井大将の名がないのは不思議な感もしますが、おそらく松井大将は南京

事件の責任者としてB級で死刑が確定的であったからでしょう。

 *A級戦犯の判決等

                      11判事の票

  東条英機  元首相     死刑    (7:4)

  広田弘毅  元首相     死刑    (6:5)

  土肥原賢二 陸軍大将    死刑    (7:4)

  板垣征四郎 陸軍大将    死刑    (7:4)

  木村兵太郎 陸軍大将    死刑    (7:4)

  松井岩根  陸軍大将    死刑    (7:4)

  武藤章   陸軍中将    死刑    (7:4)

  平沼騏一郎 元首相     終身刑          刑期中に病死

  白鳥敏夫  元駐伊大使   終身刑          刑期中に病死

  小磯国昭  元首相     終身刑          刑期中に死亡

  梅津美治郎 陸軍大将    終身刑          刑期中に死亡

  東郷茂徳  元外相     禁固20年           刑期中に死亡

  永野修身  元帥        (判決前に病死)

  松岡洋右  元外相       (判決前に病死)

(以上14名が靖国神社に合祀されている)

  木戸幸一  元内大臣    終身刑   (5:6)  1953仮釈放

  賀屋興宣  元蔵相     終身刑             〃

  島田繁太郎 海軍大将    終身刑   (5:6)     〃

  大島浩   陸軍中将    終身刑             〃

  荒木貞夫  陸軍大将    終身刑   (5:6)     〃

  星野直樹  元国務相    終身刑             〃

  畑俊六   元帥      終身刑             〃

  南次郎   陸軍大将    終身刑      (1955獄中死)

  鈴木貞一  元企画院総裁  終身刑           1956釈放

  佐藤賢了  陸軍中将    終身刑             〃

  橋本欣五郎 陸軍大佐    終身刑          1955釈放 

  岡敬純   海軍中将    終身刑          1954釈放

  重光葵   元外相     禁固7年          1950仮釈放

 

A級というのは「平和に対する罪」で、日本の世界征服を企図して「共同謀議」を行っ

た犯罪人ということですから、全員(松井大将を除く)が訴因①の「平和に対する罪」

に該当するとされました。当初検事側は、「共同謀議」の始まりとして「田中上奏文

昭和2年に当時の田中首相が世界征服のプランを陛下に上奏したとする中国語訳の怪

文書)を証拠資料に上げようとしたようですが、偽書と分かり広田内閣の「国策の基

準」に変えました。広田元首相は、その前は岡田内閣の外相でしたが、2.26事件で岡田

首相が暗殺されたため思いがけなく首相に指名されることになりました。外相時代は、

「私の在任中に戦争は断じてない」(中国戦は事変でした)といって「協和外交を進め

ていた人物です。ただ一つ汚点があるとすれば、広田内閣の時に、陸軍及び海軍大臣

現役武官制を認めてしまったことで、それ以降軍に反対されると組閣できない状態にな

ってしまったことです。総理就任時、天皇が新総理へ要望した要件は、

“1.憲法の規定遵守 2.外交は摩擦を避ける 3.財界に急激な変動を与えない” 

であって、世界征服の気配など微塵もありません。そもそも、ここに上げられた人たち

は一堂に会したこと等一度もなく、中には話をしたこともない人が混じっているはずで

す。実際、陸軍と海軍は常時と言っていい程いがみ合っており、文官たちも交えて三つ

巴のような状態で、それが敗戦の一因でもあるわけですから「共同謀議」と聞いて被告

たちはさぞかし面食らったことでしょう。と同時に、この裁判が容易ならざるものであ

ることを覚悟したに違いありません。

被告たちもはじめの頃は、全員無罪を主張し戦う姿勢を見せていましたが、やがてその

姿勢に変化が現れてきます。「結論ありき」の裁判であることを感じ取ったのです。

それは、被告だけではありませんでした。 開廷から日も浅い5月18日、広田弘毅夫人

(静子)が「パパを楽にしてあげる方法がある」と言い残して自殺を遂げるのです。

おそらく、何回かの面会で夫の覚悟を感じ取っていたからだと思います。

また、“軍人は命令に従うのが本文である”式の自己弁護は、必ず天皇の責任問題を呼び

起こします。元々起訴さえ不当だと思われていた広田元首相や松井岩根被告が真っ先に

自己主張を止めてしまったので、他の被告たちも一部を除き、「国体護持」のために不

名誉に甘んじる姿勢に変わります。

被告たちの中で―おそらく東条・広田元首相や松井大将など-は長く獄中生活を強い

られるよりは死刑を望んでいたと思われますが、数年後に釈放されるならば勿論その方

を望んだことでしょう。1票の差はあまりにも大きな差であったと思わざるを得ません。

以上がA級戦犯のあらましですが、B・C級戦犯については、延べ5,423名が米・英・豪・

蘭・中・仏・フィリピンでの軍事法廷で裁きを受け、920名が死刑になっています。

公正な裁判が行われたとは想像しがたく、それを思うと心が痛みます。

せめてもの救いは、その人たちが靖国神社に祀られていることではないでしょうか。

しかし「A級戦犯だけは別だ、靖国合祀などとんでもない、昭和天皇だってそうおっし

ゃっているではないか」という意見があります。その主張は、いわゆる「富田メモ」の

強力なインパクトにより、いまや反論を許さぬ定説になりつつあります。

しかし、本当にそうでしょうか。

次回は富田メモA級戦犯の合祀について掘り下げてみたいと思います。

                     2023.11.15

 

 

 

靖国神社について(6)(Y-61)

<占領下の靖国

靖国神社の一郭に「招魂斎庭(跡)」という一郭があり、そこはかつて御霊を合祀する

前の「招魂祭」という儀式を行うために設けられた聖なる場所でした。元は約7000坪ほ

どの広さでしたが、今は使用されないため、そのほとんどが駐車場になっています。

合祀の手順は、この招魂斎庭の祭壇に”招魂“された御霊を「御羽車」と呼ばれる神輿で

本殿に運び、「霊璽簿」(れいじぼ)の名前を御神体である「鏡」に写しとることで完結します。

英霊の御霊は、招魂斎庭までは「人霊」であり、合祀されて「神霊」となるのです。

しかし、招魂斎庭が事実上”遺跡“扱いになっているということは、”今後の合祀予定がな

い“ということを暗示しています。自衛隊隊員の殉職(公務中における死亡)などは合

祀の対象になっていませんし、日本は戦争をしないことになっているからです。

 

昭和20年(1945)8月14日、日本は「ポツダム宣言の受諾を連合国に通知、翌15日正午

には「玉音放送」により日本の敗北と再起を期す旨を国民に伝え、9月2日に「降伏文書

に調印」して、敗戦が確定しました。この経緯から日本は8月15日を「終戦記念日」と

し、連合国の多くは9月2日を「戦勝記念日」としています。ただ、ロシア(ソ連)は、

9月2日は日本の北方領土を侵略している最中だったので、1日遅らせて9月3日(戦闘行

為は9月5日まで継続)としています。それも目立つと思ったのか、メドベージェフが

2010に9月2日に変更したことがありますが、プーチンが2020年に再び9月3日に戻し、

さらに2023年には名称を「軍国主義日本に対する勝利と第2次世界大戦終結の日」に変

更しました。ウクライナ侵攻に対する経済制裁に反発したものでしょうが、元々プーチ

ンは第2次世界大戦を終わらせたのはロシア(ソ連)であると言いたいのです。

ところが国際法的に言えば、占領下の日本は「休戦状態」であって、終戦ではありませ

ん。正式な終戦は、「講和条約」の締結をもってなされるものなのです。このことは、

よく理解しておく必要があります。つまり、占領下における種々の改革や、新たに設け

られた制度等は、日本に主権がない状態で決定されたものだということです。

日本が連合国の戦闘行為を中止してもらうために受諾したポツダム宣言は、13条に及び

ますが、原文そのものが武士道精神のかけらもないような品のない文章なので、それら

しく要約すれば次のような内容です。

“もうお前たちに勝ち目はない。これ以上の抵抗は無益である。新秩序成立までは占領

下に置き、拡大した領土は元に戻し、戦争犯罪人は厳罰に処する。日本国政府が全日本

軍の無条件降伏を宣言し、責任ある政府が樹立されれば占領軍は撤退する。以上の要求

を受け入れなければ日本は壊滅すること必定である”

ここに無条件降伏という言葉が登場します。これをもって一般に、“日本は無条件降伏

した”と言われますが、無条件は日本軍隊に対するもので、政府が消滅したドイツとは

違って、日本政府はポツダム宣言の13か条に示される条件を受け入れるという”条件付

き降伏“を受諾したわけです。いわゆる”白紙委任“ではないのです。

さて、そこで敗戦の経験を持たない政府や国民がとりあえず何をしたのか、或いは何を

しようとしたのでしょうか。上層部と心ある人たちの頭には”国体護持”があり、一般人

にとっては衣食住、とくに「食」の確保が喫緊の問題であったろうと思われます。

しかし、それよりも優先されたかのような活動が、実はあるのです。

終戦からわずか三日後の8月18日、政府は「進駐軍」(占領軍はイメージが悪いとして

こう呼んだ)向けの特殊慰安施設の設置に関する内務省通牒を発し、26日には「特殊慰

安施設協会=RAA」が設立されます。そして、早くも28日にはその一部が営業を開始す

るという恐るべきスピードで、最大時には5万人以上の売春婦を擁した巨大売春事業が

活動を始めます。

そしてもう一つが、国に命を捧げた人たちの靖国神社合祀への行動です。

靖国神社はおそらく廃止されるだろう”という憶測が流れる中で、陸海軍の関係者たち

は、靖国に祀られることを信じ、靖国で会おうと言いかわして散っていった同胞の思い

を何とか叶えたいと考えていました。そこで編み出したのが“一括招魂逐次合祀”とでも

言うべき方法です。個人が特定できていない段階で、とりあえず一括して招魂してお

き、のちに(主権を回復後)個人を特定しながら順次合祀していこうというのです。

そして急遽、昭和20年(1945)11月19~21日にかけて「臨時大招魂祭」を挙行しま

す。実に素早い動きです。この招魂祭にはGHQからも3名が参列しているようですの

で、なかなかの策士がいたものだと感心させられます。

それからわずか1か月にもならない12月15日、GHQはいわゆる神道指令(「国家神道

神社神道ニ対スル政府ノ保証・支援・保全監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)を発し、

靖国神社は国の管理を離れて一般宗教法人となります。

その後の占領期間中、名簿公示のない合祀祭がどこからも非難されることなく、数万人

単位で逐次実施されてゆきます。

食うや食わずの混乱の中で行われたこの二つの行動は、当時の日本人が何を護ろうとし

たのかを知るうえで重要なヒントを与えてくれるものではないでしょうか。

約7年間に及ぶ占領期間の中で、日本はGHQ主導の新憲法を携え、昭和27年「サンフラ

ンシスコ講和条約」によって主権を回復します。(この時ソ連は米軍の駐留が継続する

ことに反対して署名せず、未だに平和条約が結ばれていません)

 

<戦後の靖国

講和条約が発効(S.27.4.28)し主権を回復した政府は、早くも翌5月には、“戦犯は日本

の裁判で判決を受けた者と同様に扱われる”という占領下における解釈を変更し、戦犯

公民権回復を認める通牒を発します。そして翌年には、「戦傷病者戦没者遺族等援護

法」を制定し、従来の援護対象を軍人軍属以外の民間人にまで大幅に拡大します。民間

人の多くは、地上戦闘があった沖縄の住民が多く、学童疎開で移動中に潜水艦に撃沈さ

れた対馬丸事件や、ひめゆり、白梅などの学徒隊、そして渡嘉敷島などで起きたいわゆ

る「集団自決」なども「戦闘に参加した民間人」の枠内に入れられています。

余談になりますが、「集団自決」という言葉は「鉄の暴風―現地人による沖縄戦記」の

執筆者太田良博の造語です。この自決行為が軍の命令によるものとして援護法が適用さ

れ、自動的に合祀の対象にもなっているのですが、真実は真逆で援護法の適用を受ける

ために軍命令ということにしてもらったという有力証言があります。おそらくその方が

真実だろうと思われますが、非情な命令を下した人物(赤松隊長)をこれ以上ないよう

な表現で「沖縄ノート」に記した大江健三郎氏や教科書を執筆した家永三郎氏らは謝罪

も訂正もせずに逝ってしまいました。

また、同じく昭和28年の8月3日には、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」

衆院本会議に上程され全会一致で可決されます。(議長の「ご異議なしと認めます」

が全会一致の根拠であって共産党の1名は反対したという異論有)

この採決により援護法も改正され、国内外で実施された軍事裁判によって処刑された人

たちを「法務死者」と呼んで援護法の対象者に加えました。靖国神社もこれに倣い「昭

和殉難者」と呼んで合祀しています。

しかし、その対象者があまりにも多いため、昭和31年靖国神社、政府(厚生省)、自治

体の協力体制が作られます。そうして合祀は逐次進められ、昭和34年(1959)にはB,C

級戦犯の合祀予定者名簿が靖国神社に送られます。以降4次に分けて昭和42年10月まで

にB,C級984柱の合祀が完了します。この間、昭和41年には、A級戦犯についても12名

(判決前に病死した2名を除く)の名簿が厚生省から靖国神社に送付されますが、両者

は“合祀はするが発表は控える”ことで合意します。しかし当時の筑波宮司は先延ばしに

するという処置をとりました。

実はこのころ、日本には大きな変化が起きていたのです。その要因の第一はいわゆる

GHQによる「公職追放」です。日本の政・財・言論・教育界などあらゆる階層から、述

べ20万人以上の保守的な有力者が昭和23年5月までに公職追放となります。そして、そ

れらの後継には主として左翼的な人物が充てられました。言論関係や教育界への影響は

大きく、戦前をすべて悪と見なす空気は次第に強まっていたのです。靖国神社と厚生省

の関係も当然非難の対象となり、昭和41年(1971)には、厚生省から各自治体に対し

「合祀事務強力の廃止」が通知されます。

昭和53年3月、A級戦犯の合祀には慎重な姿勢を取り続けていた元皇族の筑波藤麿宮司

急逝します。後を継いだのは松平春嶽の孫にあたる松平永芳宮司で、彼はその年の10月

17日、判決前に病死した松岡、永野を含む14名のA級戦犯を秘密裏に合祀してしまいま

す。それが測年4月に新聞報道で明らかになりますが、意外にもその時はさほど大きな

騒ぎにはなりませんでした。ところが、昭和60年(1985)8月15日、その前日に予告し

た上で当時の中曽根首相が公式参拝をすると、それまでも一貫して靖国を批判してきた

朝日新聞が、ここぞとばかりに大きく取り上げ、“中国が厳しい目で見つめている”と報

じました。すると中国がこれに呼応したかのように激しく反発し、韓国も同調して外交

問題に発展してしまいます。中曽根首相はどのような形式にすれば憲法20条の「信教の

自由」に抵触しないかを十分吟味し、神道の参拝儀礼に従わず宮司のお祓いも受けませ

んでしたが、それはいわば国内対策で、まさかこれまで何も言わなかった中・韓がそれ

ほど反発するとは予想していなかっただろうと思われます。参拝儀礼に従わなかったこ

とは国内的にも批判を浴び、中国では国民が沸騰して中曽根首相と信頼関係が深かった

胡耀邦主席の立場まで脅かされかねない事態になると、中曽根首相は以降の参拝を止め

てしまいました。

こうして、一大決心の末に決行した中曽根首相の“予告付き公式参拝”大作戦は失敗にお

わるとともに、いわゆる“靖国問題”がここから始まります。

ということで、次回は「靖国問題」についてお話しします。

                        2023.11.7

                     

 

 

 

 

靖国神社について(5)(Y-60)

靖国神社に祀られる英霊>

靖国神社に祀られている英霊の総数はなんと246万6千余柱にも上ります。

「英霊」という呼び名になったのは日露戦争の後からで、それ以前は「忠霊」或いは

「忠魂」と呼ばれていました。靖国神社の前身である東京招魂社創立の趣旨には、将来

における殉国者も対象とすることが決められていましたが、その当時、これほどの犠牲

者が積みあがるとはだれも想像していなかったでしょう。約80年の間に何があったの

か、英霊たちの歴史をたどりながら考えてみたいと思います。

まずは、 以下に事件ごとの英霊者数 を示します。              

                   事件等        英霊

     ・戊辰戦争明治維新    7751 柱

     ・西南戦争         6971

     *台湾出兵         1130

     *江華島事件          2

     *壬午事変(壬午軍乱)    14

     *京城事件(甲申政変)     6

     ・日清戦争         13,619

     *義和団事件        1.256

     ・日露戦争         88,429

     ・第1次世界大戦      4,850

     *青山里戦闘          11

     *中村大尉事件他        19

     ・満州事変          17,176

     ・支那事変         191,250

     ・大東亜戦争        2,133,915

この表の通り、大東亜戦争の犠牲者が全体の約86%を占め、その詳細も複雑なので別途

項を改めて取り上げることにしますが、あまり馴染みのない事件も歴史的に重要な意味

があると思われますので、簡単に説明しておきたいと思います。

明治維新

明治維新とあるのはいわゆる幕末の志士たちのことで、「維新殉難者」として、吉田

 松陰、坂本龍馬高杉晋作中岡慎太郎武市半平太、橋本佐内、大村益次郎、久坂

 玄瑞が 祀られています。この中で、禁門の変で自決した久坂玄瑞は賊軍の立場であ

 りながら祀ら れています。一方、西南の役西郷隆盛は、当然のごとく対象外とな

 っています。この事は、招魂社創立を主導したのが長州出身者であることを示唆して

 います。もう一つ付け加えると、西南の役からわずか3年後には、西郷隆盛を祀る南

 洲神社が建てられ今に続いているという事実に日本人の宗教観の一端がうかがえるか

 と思います。

台湾出兵

 1871年(M4)、台風に遭い台湾に漂着した宮古島八重山島民66名の内54名が先住

 民(パイワン族)に殺害されるという事件が発生しました。当時の沖縄は琉球王国

 いって薩摩藩と中国(清)の両者に臣従するという中途半端な状態にありましたが、

 明治新政府は自国民が被害に遭ったとして清に責任と賠償を求めました。ところが清

 は、化外(管轄外)の地であるとして責任を回避しようとします。そこで日本は”懲

 罰”の要ありとして軍隊を派遣します。軍人軍属併せて5900人余の大軍を、通告なし

 に派兵するという暴挙とも問われかねない措置ですが、結果的に清は見舞金(現在の

 価値で150億円)を支払うことになりました。実はそれよりも大きな成果として、琉

 球は日本領として認められることになり、やがて沖縄県となって行くのです。

 またこの時の兵員輸送において、当初政府は英米の船会社に委託しようとしましたが

 拒否され、急遽大型船を購入します。そして国有の「日本国郵便蒸気船会社」に運航

 させようとしましたがこれも拒否され、最後に「郵便汽船三菱会社」が引き受けるこ

 とになりまし。これで一気に三菱のシェアが拡大し、日本郵便の方は解散することに

 なりました。

 

江華島事件

 1875年(M8)、朝鮮の開国を迫る日本が「朝鮮西岸から清国に至る海路研究」と称

 して 軍艦2隻を派遣し示威行動を展開中、そのうちの一隻「雲揚」が「江華島

 台」と交戦した事件のことです。いわばアメリカがペリー艦隊を日本に派遣した「黒

 船効果」を踏襲したもので、「日朝修好条規」締結の契機となりました。

 

壬午事変(壬午軍乱)

 朝鮮王朝の閔氏政権(王妃である閔妃の一族が実権を握っていた)は、日本の支援を

 得て新式軍隊(別枝軍)を組織するなどの改革を進めていましたが、旧来の兵士たち

 には給与が長期にわたり滞るといった状態が放置され、不満が募っていました。そし

 て1882年7月、13か月ぶりに支給された俸禄米は腐っていたり砂が混じっていたりし

 たために、不満は爆発して暴動に発展しました。反乱軍は閔氏政権と対立していた国

 王の父大院君を頼り、その指示により日本公使館を焼き討ちし、王宮に押し入って高

 官たちを殺害しました。追い詰められた国王高宗はやむなく政権を大院君にゆだねる

 ことを宣言しました。ところが、この事件は大院君の陰謀であり、これを放置すれば

 日本が介入してくる恐れがあると清国政府に訴えたものがあり、それはまずいと清は

 軍隊を出動して大院君を捉え、難を逃れて生き延びていた閔妃を復帰させました。

 日本は復活した閔氏政権と交渉し「済物浦(現仁川)条約」を結び、賠償金と日本軍

 の駐留を認めさせましたが、清はより強力な不平等条約を締結して朝鮮を属国化しま

 した。

*甲申政変。

 壬午軍乱後の閔氏政権は、保守派の大院君派を排除して開化派と結ぶことになります

 が、開化派の中は日本と結んで清の宗主権からの独立を目指す急進的一派と、清と妥

 協しな がら政治を行おうとする穏健派に分かれていました。しかし、次第に清の影

 響力が強 くなり、急進開化派は焦り始めます。そして遂に金玉均・朴泳孝をリーダ

 ーとする独立党(日本党)がクーデターを決行します。この時日本は在留の1個中隊

 が竹添公使の命により(?)独立党を支援しクーデターは成功しますが、またも清軍

 が介入し少数の日本軍は撤退、金玉均は日本に亡命して開化派政権はわずか三日で崩

 壊します。日本の福沢諭吉は以前から金玉均らを応援していたので韓国では嫌われ者

 になっています。(1万円札の肖像に使用されたとき反対されましたが、来年発行予

 定の渋沢栄一も反対されていますね)

 このクーデター失敗により、宗主国としての清の力は一層強くなりましたが、事後処

 理的に日本と清の間に結ばれた「天津条約」ではほぼ対等の条件となっています。そ

 の中には、「朝鮮軍の訓練には日清両国が共に当たること」といった、新たな火種を

 生みそうな条項も含まれています。

義和団事件(北清事変)

 何だかわかりにくい事件ですが、広辞苑ではこのような記述になっています。

 “日清戦争後の1899年、キリスト教及び列国の中国侵略に反抗、山東省で蜂起。翌年

 北京に入城し各国公使館区域を包囲したため、日・英・露・独・仏・伊・墺の8か国

 は連合軍を組織してこれを鎮定。1901年に結ばれた講和に関する北京議定書により清

 朝に4億5千万両(テール)の賠償金を支払わせた。拳匪。団匪。”

 この説明では、清国政府がどのように動いたのか、そしてその後にどのような影響を

 及ぼしたのかが分かりません。

 清国政府は、「扶清滅洋」「興清滅用」をスローガンにキリスト教会などを襲撃する 

 この集団の鎮圧にはあまり熱心ではありませんでしたが、次第に大きくなってきたた

 め山東省に軍を派遣しましたが時すでに遅く、燎原の火のごとく暴動は拡大して遂に

 北京に迫り、同地の公使館区域を包囲する事態に発展します。そこで清国政府がどう

 したかというと、なんと義和団側について各国に宣戦布告したのです。その事態につ

 いて渡部昇一は”最初からグルだった“と断定していますが、驚いた各国は軍隊を派遣

 し”内乱“は”戦争“の様相に発展しました。その意味では日本での呼称「北清事変」の

 方が適切な呼び名かもしれません。”狂気の沙汰“とも言われる「宣戦布告」の要因に

 ついてははいくつかの説がありますが、積もり積もった列強への恨みに加え、列強が

 西太后の引退を求める文書の存在が決め手になったと言われています。しかし、その

 文書は”偽物“であったことが分かっています。

 8か国連合軍の総勢は約2万人で清と義和団の10分の1に満たない程でしたが、装備は 

 圧倒的で、苦も無く北京を占領してしまいます。西太后は庶民に変装して紫禁城を脱

 出し、甥の光緒帝を連れて西安に逃れました。北京が陥落すると清朝の態度はまたも

 180度変わり、義和団を「拳匪」あるいは「団匪」と呼び反乱軍と認定しました。

 これによって義和団のスローガンは、「扶清滅洋」から「掃清滅洋」に代わり、民衆

 の心も離れて清は弱体化してゆきます。

 また、日本に次いで兵力を派遣したロシアは、事変に乗じて東三省(満州)を占領し

 日露戦争の火種を残します。その逆に日本軍の規律正しさや、控えめな賠償金の要求

 などがイギリスに好感され、「日英同盟」への道が開かれます。

 ここに、朝鮮の壬午事変・甲申政変から中国の義和団の乱、そして清が崩壊する辛亥

 革命にかけて、権謀術数を駆使しながら遂にトップにのし上がった一人の人物がいま

 す。初代中華民国大統領にになった袁世凱です。

 彼は河南省の生まれですから「漢人」です。科挙の試験に合格できず軍人となり、朝

 鮮に派遣されます。そこで閔妃の要請を受け壬午事変・甲申政変で手腕を発揮し、朝 

 鮮内で強力な権力を持つ存在になります。その後、1894年「甲午農民戦争(東学の

 乱)」をき っかけに始まった日清戦争で清は大敗を喫し、袁世凱は軍の近代化に力

 をつくし成果を挙げます。そして、1898年光緒帝を中心とする変法派に身を置きなが

 らこれを裏切って西太后に密告し、クーデターを未然に防いで太后の信頼を得ます。

 ところが、間もなく始まった義和団の乱では終始義和団のみと闘い、連合軍と闘った

 他の部隊が壊滅した中で、彼の部隊だけはほぼ無傷状態で残ります。1904年の日露戦

 争では、清は表面上中立でしたが、袁世凱は日本に協力します。

 しかし、1908年に光緒帝が崩御し、その翌日に西太后も病没すると、袁世凱の立場は

 一変します。即位した宣統帝はわずか2歳で、その父が摂政となりますが、袁世凱

 裏切られた光緒帝の弟である彼はここで恨みを晴らし、袁世凱はすべての職を解かれ

失脚します。ところが1911年辛亥革命が勃発すると、これを鎮圧できるのは袁世凱しか

いないということで再び呼び戻されます。しかし、袁は部下を鎮圧に向かわせながら自

らは革命派と通じ、又も寝返るのです。そして中華民国臨時政府の大統領に収まり、清

は滅亡します。1914年第1次世界大戦が勃発すると中国は中立を宣言しますが、ドイツ

が敗れるとそれまでドイツが持っていた利権を奪うべく日本が「対華か21ケ条要求」を

突き付けます。これを吞んだために(実際は丸呑みしたわけではなく、13か条に削った

上に日本のイメージダウンにもある程度成功したのですが)袁は現在でも「漢奸」と呼

ばれる悪役です。

その袁世凱が現在の中国でネット検索の規制対象になっているという話があります。

それは習近平袁世凱になぞらえる説があるからだそうですが、そこまで気にしなけれ

ばならないとは習近平体制も盤石ではないということなのでしょうか。

 

*青山里戦闘

 1920年満州の青山里付近で日本軍と朝鮮人独立運動武装組織及び中国人の馬賊

 の間で勃発した戦闘を指します。日本側の戦死は11となっていますが、韓国の資料で

 は、年を追うごとに増加し、1975年には連隊長以下死傷3,300人となっているそうで

 す。実際は加納連隊長は1922年まで連隊長を務めているので、でたらめなのですが、

 こ れも建国神話の一つなのでしょうか。

 

*中村大尉事件

 1931年6月、陸軍参謀中村大尉他3名が軍用地誌調査のため農業技師と身分を詐称して

調査旅行中張学良配下に殺害された事件。中村大尉以下が「護照」(日本が発行した身

分証明)を提示したにもかかわらず、裁判もなしに殺害されたことが8月に報道される

と日本国内は沸騰し、9月には満州事変へと発展してゆきます。

 

このように、靖国神社に祀られる英霊たちの歴史をたどってみると、日清・日露戦争

いった大きな戦争はもとより、その前後に起きた事件のほぼすべてが対中・露・朝(

韓)との関係で生じたものです。そしてその関係は、中国の中華思想と、それに反発す

る日本と、隙あらば南に勢力を伸ばそうとするロシアと、それらの間に在ってどちらに

付こうかと揺れ動く朝鮮という図式に変わりはありません。一帯一路は姿を変えた中華

思想と見ることもできます。長い歴史の中で、一度たりと真の同盟を結んだことがない

これら4か国の、真の友好関係を結ぶのは夢物語なのかもしれません。

 

大東亜戦争の犠牲者はあまりにも多く、また合祀基準にも変化がありますので次回取り

上げることとします。

                         2023.10.31

 

 

 

靖国神社について(4)(Y-59 )

この回は<靖国神社に祀られる英霊>について述べる予定でしたが、その前にその前身

である「東京招魂社」が誰の発案であったのか、またその目的が何であったのかを確か

めておきたいと思います。一般的には、発案は大村益次郎で、その目的は戊辰戦争にお

いて官軍側で命を落とした人々の慰霊ということになっているようですが、調べてみる

とそれを裏付ける証拠がなかなか見つからないばかりか、通説に対する疑問も生じてき

ました。そこで今回は、誰が靖国神社を創ったかをテーマにしてお話しします。

 

<誰が靖国を創ったのか>

靖国神社の前身「東京招魂社」には、頭に「東京」の文字がついています。それは、他

にも招魂社があることを示唆しています。実はその通りで、日本初の招魂社は長州藩

誕生しています。

1863年長州藩高杉晋作は、攘夷思想の下に生起した長州藩英米仏蘭との武力衝突

(下関戦争)における戦没者の霊を慰め、また奇兵隊の団結を高めるために自分たちの

招魂場をあらかじめ設けておくことを提案しました。そうして下関の地に日本初の櫻山

招魂場が設置されたのです。2年後には社殿が完成して招魂社となり、この生前の身分

に拘わらず戦没者を人神(ひとがみ)として祀る招魂社の発想は全国に広まって行きま

した。

靖国神社のホームページ「靖国神社史」には、創建時のいきさつがこのようにかなり詳

しく記されています。

明治2年5月 戊辰の役終結(18日)

    6月 軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王の命により同副知事大村益次郎らが東京九 

      段坂上三番町の旧幕府歩兵屯所跡に赴き招魂社建設地を検分(12日)

      九段坂上招魂社・社地を東京府から受領、仮本殿・拝殿を起工(19日)

      29日から5日間、招魂祭執行の旨、軍務官より在京諸藩に通達(23日)

      招魂社鎮座、第1回合祀祭(29日)

      鎮座祭に併せて相撲奉納

ところが、それ以降の出来事については戦争や事件などのタイトルが淡々と記述されて

いるだけで、このような詳しい記述は全くありません。

何故この部分だけが詳しいのか、逆に何故他の部分では詳しい説明がないのか、その理

由は分かりませんが、どこかの時点(戦後?)で削除されたか、或いは本当の社史は非

公表とされてしまったのか、いずれにせよ不自然な感じは否めません。

それはさておき、社史の記述を手掛かりに少し掘り下げてみたいと思います。

まず、軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王の経歴ですが、嘉彰親王伏見宮邦家親王の第8王

子として誕生します。12歳の時に仁孝天皇(120代)の猶子となって親王宣下を受け、

仁和寺の門跡となりますが、1867年還俗を命じられ仁和寺宮嘉彰親王を名乗ります。

そして、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執ります。明治3年から3年間英

国に留学し、その影響を受けたのでしょう、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、

自らも率先垂範しました。明治15年小松宮彰仁と名を変えたので、一般にはこちらの

名で知られているようです。西南戦争では旅団長として出征し、日清戦争では征清大総

督として旅順に出征しています。また、英国王の戴冠式明治天皇の名代として臨席し

たり、日本赤十字社の総裁を務めるなど、大変才能のある”飾り物でない“宮様であった

ようです。

しかし、当時23歳の嘉彰親王が招魂社の創設を発議するとは考えにくい気がします。

では、一般に信じられている大村益次郎の発案なのでしょうか。

大村益次郎は、元は村田蔵六といい長州の村医者でした。その彼が緒方洪庵の下で蘭学

を学んだことから、西洋の科学や軍事に関する知識を身に着け、やがて見出されて維新

戦争における官軍の指揮を執ることになり、ことごとく勝利して最大の功労者となるの

です。その生涯は司馬遼太郎の「花神」という小説に描かれ、1977年の大河ドラマにも

なりました。

花神」とは「花咲爺」のことで、司馬遼太郎はこの小説のなかで、このように自身の

歴史観を語っています。

“大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死を遂げる。日本では吉

田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆

盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者であ

る。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担

当したような軍事技術であってもいい。”

この説に異論を唱えるつもりはありませんが・・と言いながら異論を言わせてもらうの

ですが、村田蔵六大村益次郎)もまた維新道半ばの明治2年海江田信義(有村俊

斎)の手の者と思われる浪士たち暗殺されてしまいますので、「花神」というよりは、

二番目の「戦略家」の部類に入れられるような気がします。私の感覚からすれば、

花神」の名にふさわしいのは岩倉具視大久保利通ではないかと思うのです。

靖国神社の境内に銅像が建てられていることからしても、大村益次郎靖国神社に深い

かかわりを持っていることは否定できませんが、理性と合理主義の権化のような大村益

次郎が、最も多忙を極めていた時期に招魂社に建設を優先するということも考えにくい

のです。また、もしそれが事実であったならば、司馬遼太郎が「花神」のなかで触れな

いはずがないとも思います。

では発案者は誰なのか、この時期、政治の中枢には当然薩摩・長州出身者が多くを占め

ていましたが、薩摩出身者の中には思い当たる人物はいません。いるとすれば、やはり

長州出身者でしょう。となると、「情」の人、木戸孝允あたりが浮かんできます。

また、軍務と会計を担当して実質的には岩倉内閣が形成されていたかにも見える岩倉具

視も候補者の一人ですが、その可能性委は低そうです。

色々調べているうちに、「岩倉公実記」という資料を見つけました。これは岩倉具視

秘書であった多田好問という人がまとめた全3巻に亘る膨大な資料集です。

有難いことに、これを「国会図書館デジタルコレクション」が閲覧サービスをしている

ので読むことができます。

その下巻1、133項に「招魂社ヲ建設スル事」というタイトルがあったのです。

しかしそこには、「癸丑以来の殉国者の霊魂と伏見開戦以来の戦死者の霊魂を祭祀すべ

く東山に一社を新たに建設するので各藩主はその趣意を理解し遺漏なきようつとめるべ

し」といった内容が書かれているだけでした。癸丑は1853年にあたりますので、ペリー

来航以来という意味になります。残念ながら、誰の発議かに関する情報は得られません

でしたが、収穫もありました。それはこの布告に“今後王事に身を滅ぼした者は速やか

に合祀手続きを取りなさい”という指示が加えられていることです。私は、招魂社建設

当初においては、後のことは考慮していなかったのではないかと考えていましたので、

その誤りを正してくれる資料となりました。実はこのとき新政府は、まだしばらくは犠

牲者が出ることを予想していたということです。つまり、不満分子の反乱なり戦争なり

があることを覚悟していたということです。

結局、発案者は見つかりませんでしたが、もしかすると招魂社を建てるかどうかの議論

は最初からなかったのかもしれません。つまり、みんなの頭の中にはすでに「招魂社」

がが存在していて、“どこに建てるか”の段階にあったのではないかということです。

敢えて言えば、発議したのは“死せる高杉晋作”ではなかったかということです。

東京招魂社は明治12年靖国神社」となります。

すでに述べた通り、命名されたのは明治天皇とされています。

そして、昭和14年3月15日に公布された「招魂社ヲ護国神社ニ改称スルノ件」により、

日本各地の招魂社は一斉に護国神社となります。しかし靖国神社だけは改称されません

でした。それはやはり明治天皇命名ということがあったからでしょう。その意味で

は、靖国神社を創ったのは明治天皇であると言うことも出来ようかと思います。

 

次回は<靖国神社に祀られる英霊>の予定です。

                           2023.10.21

靖国神社について(3)(Y-58)

<神社の種類と格付け>

明治新政府は、慶応4年(明治元年)「神道国教化」の方針を採用し、本地垂迹説に代

表されるそれまでの神仏習合を禁じる太政官布告神仏判然令)を発しました。

本地垂迹説とは、日本の神々は仏が化身したものだという一種の神仏同体説で、平安時

代に始まり、次第に一般化していました。たとえば、天照大御神大日如来秋葉権現

観音菩薩大国主神は大黒天といったような組み合わせが出来ていたのです。(宗派

によって組み合わせには違いがあります) そのため、神社に仏像が祀られていたり、

その逆に寺院に神体が納められていたりする例は数多くありました。

神仏判然令」の内容は、塗装した鳥居は白木に変えること、神社にある仏像は寺院

に、寺院にある神体は神社へそれぞれ渡すこと、神社の狛犬はそのままでよいが唐獅子

は取り除くことといったもので、「仏教排斥」を企図したものではありませんでした

が、これをきっかけに全国各地で「廃仏毀釈」運動が広がり、多くの文化遺産が破壊さ

れるという事態に発展しました。

政府の当初の方針は、神官と僧侶を共に教導職に補任して両者による国民の教化を考え

ていたようですが、それはうまく機能せず、結果的には多くの寺院とともに僧侶の数も

激減してしまいました。

明治4年5月14日(1871.7.1)、政府は太政官布告のかたちで「近代社格制度」を発令

しました。これは、967年に制定された「延喜式」に倣い、新たに神社を等級化した制

度で、「式」というのは、律令の施行細則にあたります。

この社格制度で、神社は「官社」・「諸社」に分類され、伊勢神宮は特別の存在として

すべての神社の上位に置かれます。

また、官社は神祇官(のちに宮内省)が祀る「官弊社」と国司(後に知事)が祀る「国

弊社」に分類され、それぞれがさらに大・中・小に区分されました。格付けの順位は、

伊勢神宮官幣大社国幣大社官幣中社国幣中社官幣小社国幣小社>別格官幣

社となりますが、当初(明治4年)の時点では、官幣小社国幣大社及び別格官幣社

列せられた神社はありませんでした。

その詳細は省略しますが、官幣社は35社、国弊社は62社で合わせて97社というものでし

た。それが1946年GHQ神道指令によって国の管理を離れる直前には、官幣社84、国

弊社92となり、別格官幣社も0から28に増えて、その総数は2倍以上の208にまで膨れ上

がっていました。朝鮮、台湾はもとより、パラオにも神社が立てられていたのです。

靖国神社が格付けされた「別格官幣社」は、功績のある忠臣や国家に命を捧げた武将・

志士・兵士などを祭神として祀るために創設され、楠木正成を祀った湊川神社がその第

1号(M.5)となりました。日光東照宮(家康)、建勲神社(信長)、豊国神社(秀

吉)、上杉神社(謙信)、尾山神社利家とまつ)などはみな、この別格官幣社になり

ます。社格としては最も低い格付けですが、実態としては官幣小社と同等に処遇されて

いたようです。菅原道真を祀る「天満宮」も本来は別格官幣社とすべきところですが、

「雷神」として例外的に官幣中社に格付けされています。

話を再び明治初期に戻します。

明治4年、神社は太政官布告により国家の宗祀とされました。つまり、明治政府は神社

を国の祭祀を行う公共施設として位置づけたのです。一方、江戸後期あたりから国学

儒教の影響を受けた新興の神道系宗派が勢力を伸ばしていました。それらの新興宗教

は教祖が存在し、それぞれ教義があって、従来の神社神道とは根本的に異なる部分があ

りました。そこで政府は、それらを「教派神道」としてまとめ、明治15年に従来の「神

神道」から分離した上、「神社神道」を法制上“非宗教”扱いにしてしまいました。

“神社は一般の宗教とは別物“ということになったのです。

明治22年に制定された「帝国憲法」において、「信教の自由」は次のように条件付きで

保障されています。

  28条: “日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ

       信教ノ自由ヲ有ス”

この条文において、国が特定の宗教を管理又は支援することが憲法違反に当たるかどう

かは分かりませんが、いずれにせよ「神社神道」が”非宗教”である限り、この条項には

無関係な立場となったわけです。

そしてこの宗教観は、日本人に大きな影響をもたらしたと考えられます。

つまり、一つ屋根の下に神棚と仏壇が同居していることに何の違和感もないという感覚

が生まれたのです。そして、その感覚はさらに拡大し、七五三の宮参り、教会で結婚

式、お寺で葬式などといったことはごく普通の行動となってゆきます。 その行動は、

とくに一神教を信じる外国人には理解しがたい宗教観であろうと思いますが、それが自

然の行動として行えるのは、つまるところ、日本人にとってはキリストも仏も「カミ」

仲間に見えるからではないでしょうか。

2020年(令和2年)のデータによると、日本の宗教法人は180,544に上り、その内

訳は、文部科学大臣所轄の神道系が212、仏教系483、キリスト教系328、その他諸教

124、都道府県知事所轄の神道系84,361、仏教系76,572、キリスト教系4,492、諸教

13,972となっています。その信者を総計すると、2億人を超えるそうですが、その原因

は明らかに、法人の多くが大幅な水増し報告をしているからです。しかしそれは、必ず

しも間違いではないのです。現代の日本人の多くは、特定の宗教組織に対する帰属意識

は薄いものの、生活の中では様々な宗教的行事や儀式に参加しています。法人側はそれ

を信者と数えるわけです。3割程度あるいはそれ以上いるといわれる「信ずる神も宗教

もない」という人たちも、「無神論者」ではないのです。

二宮尊徳の「二宮翁夜話」には、“真理は一つだが入口はいくつもある”という話が納め

られています。いわば、「宗教多元主義」の思想です。

宗教多元主義とは、様々な宗教がお互いの価値を認め共存していこうという思想です

が、日本人の伝統的な宗教観はこれに近いのではないでしょうか。

最後に一つ言い忘れていたことを付け加えます。

現行憲法において「信教の自由」は、”信教の自由は何人に対してもこれを保障する”

(20条)として、無条件に保障されているようにみえますが、そうではありません。

実はその前の12条において、”この憲法が保障する自由及び権利は、これを濫用しては

ならないのであってに常に公共の福祉のためこれを利用する責任を負う(一部省略)”

と条件を付しているのです。

”常に公共の福祉のため”という条件は、帝国憲法の”安寧秩序を妨げない限り”よりもむ

しろ厳しい条件のようにも思われますが、(自由=わがまま)と誤解して日常的に憲法

違反をしている人もいるようです。これも戦後教育のなせるわざでしょうか。

 

次回は「靖国神社に祀られている英霊」についてお話ししたいと思います。

                          2023.10.11

靖国神社について(2)(Y-57)

靖国神社の創設>

靖国神社のホームページには、その創建についてこのように記されています。

靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂

社が始まりです。明治7年(1874)、明治天皇が初めて招魂社に御親拝の折にお詠みに

なられた 「我國の為をつくせる人々の名も武蔵野にとむるたまかき」 の御製からも

知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊(みたま)を慰

め、その事跡を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。”

ここでは、“国家のために尊い命を・・”と将来の英霊をも祀る神社にすることを念頭に

建てられたかのような表現になっていますが、実のところは、戊辰戦争で官軍となって

戦い命を落とした人たちの霊を祀るための「招魂社」であったのではないでしょうか。

その招魂社が、明治12年には「靖国神社」へと改称され、「別格官弊社」に格付けされ

ることになります。

神社のホームページでは、“靖国という社号は「国を靖(安)んずる」という意味で、

靖国神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められて

います。”

とあります。その背景には、明治7年の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連・秋月・萩の

乱」に続く明治10年の「西南の役」といった士族の反乱があって、維新政府が必ずしも

順風満帆ではなかったという事情を考慮する必要があります。つまり、「国を安んず

る」とは「国内の安泰」を意味していたものと考えられます。

それはともかくとして、1867年の大政奉還から始まった「御一新」の大改革において、

明治天皇がまず行った事業は、保元の乱で讃岐に配流となった崇徳上皇の霊を京都に迎

えることでした。崇徳上皇(の霊)は、菅原道真平将門と合わせた“3大怨霊”の一人と

して恐れられていたのです。

日本の歴史の中で、「黒船来航」(1953)は衝撃的な事件でしたが、実はその頃、日本

は次に挙げるような天災地変や疫病に苦しめられていました。

 ・1853 小田原地震

 ・1854 7.伊賀上野 12.東海(日露交渉中のロシア戦艦が大破沈没)・南海(稲村の

     火で有名)・豊予海峡地震

 ・1855 3.飛騨 9.陸前 11. 江戸地震

 ・1856 8.八戸地震 9.台風(死者10万)

 ・1857 10。芸予地震

 ・1858 飛越地震 コレラ大流行(江戸だけで死者数万)

 ・1862 はしか大流行(江戸だけで死者24万)

このような厄災は、怨霊のなせる業と半ば信じられていた時代ですから、崇徳上皇の怨

念を感じた(とおもわれる)孝明天皇は、都への帰還を強く望みながら憤死した崇徳院

の霊を京都にお迎えしなければならないと考えていました。しかし、それを果たせぬま

ま孝明帝は疱瘡に罹り崩御されます。明治天皇は、何よりも先に父帝の遺志を継いで、

京の地に崇徳院の御霊をお迎えするという行動を起こしました。それが白峯神宮です。

その場所は、「蹴鞠」の公卿宗家「飛鳥井家」の邸宅跡地であったため、白峯神宮は球

技の神様として崇められるようになり、駐車場もない小さな神社ではありますが、近年

ではスポーツ全般の守り神としてにぎわっています。有名になったきっかけは「なでし

こジャパン」ではなかったかと思いますが、以来日本のスポーツ界が活気づいているよ

うな気がしないでもありません。

この白峯神宮に続き、翌年の1969年(M2)には招魂社を建てるということで、明治維

新は、いわば「鎮魂の祈り」からスタートしたとも言えるわけです。

靖国神社を定義すれば、「勅命により創建された東京招魂社が、明治12年に「靖国

社」と改称された旧別格官幣社」ということになろうかと思いますが、実は神社への昇

格には大きな意味があると考えられます。そこには、

“ 慰霊を受ける御霊が崇められる神へと変身する”

という、いわば主客の逆転があるからです。

また、「別格官幣社」とはどういうものでしょうか。

次回は神社の種類と格付けについて記述したいと思います。

                         2023.10.7

 

靖国神社について(Y-56)

はじめに

先月半ばにこんな夢を見ました。

自分はまだ現役で、仕事を終えて家に帰ると5,6人の若者が私を待ち構えていました。

訳を聞くと、“「靖国神社」について意見を聞きたい”というのです。彼らの中では、意

見が分かれてまとまらないので教えてほしいというわけです。

「まあ上がれ」と言って、随分長い話し合いをしたような気がしますが、具体的な内容

はあまり思い出せません。ただ、しばしば返答に窮したことだけが重々しい感覚として

残りました。その後2,3日、なんだかモヤモヤした気分でしたが、スッキリさせるため

には、やはりきちんと自分の頭を整理するしかありません。そこで、いろいろと調べな

おしているうちに2週間が過ぎてしまいました。長い物語になりそうですが、なんとか

自分だけでもスッキリさせたいと願いながら話を進めてゆきたいと思います。

<神社と神道

靖国神社の話に入る前に、まず神社とは何かについて考えてみましょう。

広辞苑には、神社とは “神道の神を祀るところ” とあります。

また、神社庁のホームページには、「日本人の暮らしの中から生まれた神々への信仰が

祭りという形となって表現され、その祭祀の場所として神社が作られ、6世紀に伝来し

た仏教に対する日本固有の信仰を神道と表現するようになった」といった趣旨の説明が

あります。

神道には経典や戒律がありません。”唱えことば“もありません。”他の神を信じてはなら

ない”という戒律もありません。そこが一神教と根本的に異なっているために、外国か

ら誤解されやすい一因となっていると思われます。

かつて、小渕総理の急死を受けてその後を継いだ森喜朗首相が、“日本は神の国”と発言

してメディアなどから糾弾されたことが在りました。(於「神道政治連盟国会議員懇談

会」2000.5.15) 問題とされた発言は、一部が切り取られたものであり、全体を読め

ば、元総理は、「信教の自由とはどの神も仏も大事にしようということ、排他主義を止

め命の大切さを子供たちに教えなければならない」という趣旨の発言であったことが分

かります。それを国粋主義者と決めつけるのは、”誤解”ではなくて”イデオロギー”とい

うべきかもしれません。だから両者には、冷静な議論はおろか分かりあおうとする努力

さえも生まれないのです。その根底には、”世界の神は共通ではない“という問題が横た

わっています。

<Godと神とカミ>

“世界の神は別物”という問題について、

“Godを日本語では「神」と訳しカミと発音する。これが間違いかも知れない”

という言葉で切り出した東工大橋爪大三郎名誉教授はこのように続けます。

“Godは一神教の神のこと。世界で一つしかないものだから英語の習慣で大文字で書く。

小文字でgodと書くと、あっちこっちにいる多神教の神という意味になってしまう。

漢字で書くと中国語の「神」の意味になる。精神、神経という場合は、人間の精神現象

という意味、神のような存在も表すが、決してランクの高い存在ではない。いちばんラ

ンクの高いものは天とか上帝とか呼ぶことになっている。

日本古来の「カミ」は、ひとことで言えば自然現象を人格化したもの。古事記・日本書

紀に登場するカミや神社に祀られるカミはむろんのこと、太陽や月や風や雨や海や大き

な木や岩や動植物も人間も並外れたものはみなカミである。“

この考え方は、江戸中期の国学者本居宣長の説に基づいています。本居宣長は、「古事

記伝」のなかでこう述べています。

“凡て迦微(カミ)とは古御典等(いにしえのふみども)に見えたる天地の諸の神たち

を始めて、其を祀れる社に座す御霊をも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐ

ひ海山など、其与(そのほか)何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(か

しこ)き物を迦微とは云なり。優れたるとは、尊きこと、功(いさお)しきことなどの

優れたるのみを云に非ず、悪しきもの奇しきものなどもよにすぐれて可畏きをば神と云

なり。”

要するに、本居宣長は”並外れたものはみなカミである“であると定義したのです。

将に八百万の神で、愛知県には男根をまつる神社もあります。また、疫病神や貧乏神と

いった災いをなすカミもあり、それらを総称する禍津日神(まがつひのかみ)という言

葉もあります。しかし、ここで一つ大切なことを付け加えなければなりません。

それは、海、山、鳥獣、木草といったものは、それ自体がカミではないということで

す。カミに神像はありません。神社には依り代(よりしろ)すなわちカミが宿る物(場

所)が安置されますが、そこにカミが常駐しているわけではないのです。カミは目に見

えるものではなく、“宿るもの”なのです。

それは、誰もが知る「千の風になって」という歌のイメージに似ているかもしれませ

ん。この歌は、元電通社員で芥川賞作家の新井満が、友人の妻の死をきっかけに作詞作

曲したもので、実は元歌があります。つまり訳詞したものです。後に南風椎はえ

い)という作詞家が私の訳詞をパクったものだと主張して話題にもなりましたが、それ

にもかかわらず多くの人に支持されたのは、日本人の心に響くものがあったということ

でしょう。

ちなみに元歌のさわり部分は、

  Do not stand at my grave and weep

     I am not there; I do not sleep

     I am a thousand winds that blow

というもので、その作者は不詳(ボルティモアの主婦 Mary Frye 説が有力)とされて

います。彼女が信ずる宗教が何かは分かりませんが、そこには死者の霊魂が残る、ある

いは残っていてほしいという共通の宗教観があるような気がします。

一方、旧約聖書にある「ノアの方舟」の神話は、私たちには何となく違和感があるかと

思います。

神(主)は堕落した人間を滅ぼすと決め、正しく生きているノアに方舟をつくるよう命

じます。ノアが命ぜられた寸法どおりの方舟を完成させ、妻と三人の息子夫婦とすべて

の動物のつがいを乗せると大洪水が起き、地上の生き物は全て滅んでしまいます。ノア

一家とひとつがいの生き物たちだけが生き延びるわけです。この神話は、一神教におけ

というよりる唯一絶対の神(God)と人間の関係を良く表しています。

「God」は自分を信じ、約束(戒律)を守るもののみを救うのです。というより、自分

を信じない者、戒律に背く者は殺してしまうのです。

 

日本の神道は江戸後期の平田篤胤のいわゆる「平田神道」と呼ばれる思想によってかな

り大きな変化を遂げます。本居宣長の弟子を自称する彼は、次のように唱えました。

「人間は死ぬと仏になるわけでも黄泉に行くわけでもない、霊となる。とりわけ国事に

殉じた人々の霊は、穢れのない英霊となって、後続する世代の人々を護っている。」

誰もが霊になるということは、仮に仏式の葬儀を行ったとしてもそれとは無関係に神道

式の慰霊の儀式を行うことができるということになります。明治政府はこの平田神道

採用し、明治2年に東京九段に「招魂社」が設けられ、それが後に靖国神社へと発展し

てゆきます。                       (続く)

                            2023.10.02