樗木(ちょぼく)の遺言と爺怪説

愛国的好奇高齢者の遺言と違和感をエッセイ風に・・・

○○の秋(J-122)

1000年の昔、清少納言は後世に残る「枕草子」を“春はあけぼの・・”と書き起こした。

数ある文学作品の中でも、これほど知られた書出しはないかもしれない。

しかし、じゃあ夏は?秋は?冬は?と聞かれると、自信をもって答えられる人は案外少

ないのではないだろうか。

聞けば思い出すかもしれないが、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて(早朝)に趣があ

るとこの才女は続けている。

その賛否はともかく、例えば「秋」についてはこんな具合だ。

”秋は夕暮れ、夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて三つ四

つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるがいと小さく見ゆ

るは、いとをかし・・・“

その所為でと決めつけるつもりはないが、童謡や唱歌に歌われる「秋」は、次のごとく

夕暮れ時の場面が多い。

# 夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われてみたのはいつの日か

# 秋の夕日に照る山紅葉 濃いも薄いも数ある中で

# 夕空晴れて秋風吹き 月影落ちて鈴虫鳴く

私の秋のイメージも、やはり鄙びた山里の夕暮れどきである。

ほぼ刈り取られた田んぼの向こうに少し紅葉した山があり、近くに見える農家の傍の柿

の実に夕日がさしているといった風景だ。そこにお寺の鐘の音が聞こえてくれば、まさ

正岡子規の“柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺” がぴったりはまるような情景なのだ

が、ここでふと気になったのは「秋」という漢字の成り立ちである。

「禾」は稲の象形であることは知っている。それに「火」を並べてどうして「秋」の意

味になるのだろうか。

調べてみると、「秋」の元の漢字は「禾」の下に「火」を書いてそれを辺とし、その右

に「亀」の字を並べたものであったらしい。その成り立ちは少々ややこしいが古代中国

の占いに起源がある。

当時は亀の腹甲を乾燥させて薄く加工したものに穴をあけ、そこに桜などを燃やした熱

い木片を差し込んで生じたひび割れの状態で吉兆や方角を占うといういわゆる「亀卜」

の風習があった。その亀を捕獲するのが秋季で、また穀物を収穫する時期でもあったた

め「禾」を加えたのだという。

ちなみに、春は「くさかんむり」+「屯」+日で、日を浴びて草がむらがり生えるさ

ま、夏は冠やお面を付けた人が踊る夏祭りの姿、冬は糸の結び目の最後の部分を表して

おり、秋に比べれば断然分かり易い。

季節には、それぞれその季節を代表するような「○○の」(春・夏・秋・冬)と言った

言葉があるが、秋は、・食欲の・スポーツの・行楽の・読書の・実りの・芸術のと言っ

たように、その言い回しが圧倒的に多いように思う。

余計なお世話だが、ついでに、注意を要する慣用句を二つ付け加えておこう。

その一つは、時候の挨拶などにも使われる「天高く馬肥ゆる秋」という言葉である。

この言葉の由来は次のようなことらしい。

前漢の時代、趙充国という将軍が匈奴姜族が連合して漢を攻めようとしていることを

見抜き、「馬が肥える秋」には必ず事変が起きると警告した。この故事を、初唐の詩人

杜審言(杜甫の祖父)が詩の一節に次のごとく引用した。

“雲浄くして妖星落ち 秋高くして塞馬肥ゆ”

塞馬とは匈奴の馬のことであり、元々の意味は、その馬が肥える秋には彼らが攻め入っ

てくるぞという警告であったものが、“天高く馬肥ゆる秋”に変化するとともに”いい季節

になりました“へと変化したのである。だから、時候の挨拶に”天高く馬肥ゆる秋“を使う

ことはまあ許されるとしても、なまじ元の言葉を知っているからと”秋高くして塞馬肥

ゆる・・“とやると笑われる。

もう一つは、”危急存亡の秋“という言葉だ。

この言葉の由来は、「三国志」にある。

三国志の主役とも言うべき諸葛亮孔明は、劉備玄徳の後を継いだ劉禅に対し、今こそ先

帝の志を受け継ぎ魏を討つ時だとして「出師の表」を上奏した。

危急存亡の秋」はその冒頭の部分にある。

 “臣亮もうす

 先帝いまだ半ばならずして中道に崩ソせり。今天下は三分し、益州は疲弊す。

 これ誠に危急存亡の秋なり。“

というもので、二流政治家などが使いそうな言葉なのだが、この「秋」は{あき}では

なく(とき)と読む。「秋」には「大事な時」という意味もあるのである。

だから「危急存亡の時」と書いたり、「危急存亡のあき」と読んだりすると笑われる。

 

はたして、いま”危急存亡の秋”を迎えているのは、ウクライナかロシアか・・・私には

これら二国よりも韓国のように見えるのだが、実は案外この日本なのかもしれない。

いずれにせよ、何かと物思いにふけることが多くなるのが「秋」でもある。

                       2022.10.6

 

 

 

「秋」は何かにつけあれこれ考えさせられる季節でもある。

 

日本の少子化と世界の人口問題(Y-42)

諸悪の根源は少子化にあり、これさえ解決すれば年金も経済もすべてがうまくいくと主

張する人たちがいる。そして、その解決策は”多子化“であると当然のごとくに言う。

さらに、「子供1人につき1000万円の支援金を出すくらいの政策が必要だ」などと無責

任な提言をしたりもする。まるでマラソンの報奨金制度に倣えと言っているような話だ

が、そううまくはいきそうにない。というより、なんだか方向が間違っているような気

がするのである。

彼らが主張するように、日本は再び“産めよ増やせよ”の時代に戻るべきなのだろうか?

それをどこまでも続けるのが正解でないことは確かだが、果たして日本人口の適正値は

一体どのあたりにあるのだろうか。

少し遡って、日本人口の推移を辿ってみることにしよう。

 

日本人口の推移

日本の人口は概ね次のように推移している。

  1192(鎌倉幕府成立)     757万人(推定)

  1868(明治維新)     3,330

  1945(終戦時)      7,199

  2004(平成16)     1億2,784  (人口のピーク)

  2022(現在値)     1億2,475  (9.1概算値)

  2050(推定値         9,515

  2100(推定中間値)      4,771 (3,770~6,407)

 

この表の通り、鎌倉時代の初め757万人程度であった日本の人口は、812年後の平成16年

には約16.9倍の1億2784万人にまで増加したということになる。

それも、鎌倉から明治に至るまでは676年をかけて3.4倍という穏やかな上昇であった

が、明治以降の増加率は136年で3.8倍という激しさだ。

この急激な人口増に日本は悩まされることになり、政府は国民に対し海外移民を奨励す

る政策を続けた。それが戦争の遠因になったという指摘もある。

フランスの人口学者ブートゥールは、“戦争の唯一の原因は人口問題である”とまで言

い、WWⅡの原因の一つとして1924年アメリカが突然移民の受け入れをストップした

ことを挙げている。また日下公人は「戦争が嫌いな人のための戦争学」の中で、若者の

比率が高い国が戦争を起こしやすく、昭和15年の時点で15歳から25歳の若者比率が15%

以上の国を調べてみるとそれはドイツとイタリアと日本であったと述べている。

 

近未来の人口予想と対策

元に戻って将来の人口予想であるが、2100年の人口予想の中間値が約4800万人となって

いる。わずか100年足らずで1/2以下にまで急減するという予想は衝撃的だが、ありと

あらゆる予想の中で、近未来の人口予想ほど外れないものはない。だから人口減少はも

はや避けられないと覚悟すべきだとしても、もう少し緩やかでないと深刻な影響が出る

だろうと心配になるのは当然だ。だから、思い切った子育て支援に踏み切ろうというわ

けだが、そう簡単に事は運ばない。端的に言えば、もはや”手遅れ“なのである。

日本の人口ピラミッドは、ピラミッドには程遠く松茸みたいな形になっていて、出産適

齢期の層が萎んでいる。だから少々出生率を上げても、層が厚い高齢者の死亡数に追い

つかず、なかなか人口増に結び付かない。勿論、超高齢社会状態は改善されるだろう

が、望ましい人口ピラミッド状になるには数10年以上を要するだろう。

ではどうしようもないのかと言えば、ないことはない。それは、米欧のような移民の受

け入れである。

例えば、スエーデンの合計特殊出生率(女性一人が一生で出産する子供の平均数)は日

本よりやや大きい1.6程度で、人口置換水準(人口の増減なし)の2.08よも低い。

だから本来なら人口は減少していくはずだが、移民の受け入れによって徐々に人口は増

えている。

かといって、日本が無制限に移民を受け入れることには賛成できないが、かつて国策に

より海外移住をした日本人の子孫や海外の日本企業で働いている人たち、あるいは留学

生などを優遇して受け入れるということならさほど抵抗はないかもしれない。

そして、根拠のない感覚的な数値ではあるが、7000万人程度の日本人が、適度にばらけ

てこの列島に住むといったところが理想形ではないだろうか。

ただし、移民受け入れ策は新たな問題を生む可能性があり、根本的な少子化対策にもな

らない。遠い将来にわたって、日本が日本であるためには、なんとか出生率を人口置換

水準の2.08付近まで上昇させる対策が必要だ。

しかし、ヨーロッパの国々が軒並み出生率を下げているように、子育て支援社会福祉

だけで出生率を上昇させることは出来ない。かつて“Japan as No.1”と言われた時代を思

い出し、終身雇用や企業内教育制度などの見直し、あるいは道州制または地方分権の拡

大など、新旧織り交ぜた対策が必要である。世は“多様性の尊重”と口では言いながら、

画一的な方向に向かっている。それが日本を弱体化させてきた一因かもしれないのだ。

なんとかして”世界標準に振り回される”状態から”日本標準を世界標準にする状態”に出

来ないものだろうか。

以上、あれこれ悩ましい日本の少子化問題であるが、これを人口問題という言葉に言い

換えた途端、それはグローバルな問題にすり替わる。そして、実はこれこそが人類とい

うより地球にとっての最大の難問なのである。

 

世界人口の推移

人類の歴史でみればほんの僅か2000年前、世界の総人口は2~3億人であったと推定さ

れている。そこから1960年かけて約10倍の30億に達したはよいが、そこからの増加率は

すさまじく、12,3年毎に10億人ずつ増加して、今年11月15日あたりで80億人に達する

見込みだ。今現在も1分毎に156人、1日22万人のペースで増え続けている。将に人口爆

発である。日本の悩みとは逆に、世界の課題は人口抑制なのである。

 

地球上の生物は、“絶妙”ともいうべき食物連鎖のバランスが維持されることにより生か

されている。食物連鎖の上位にある生き物は下位にある生き物より個体数は少なく、そ

の頂点に存在するライオン、鷲、クジラなどの個体数は極端に少ない。それが自然界の

摂理である。

その摂理に逆らう生き物、それが人類だ。今地球上で年々増殖を続ける大型生物は人類

と人類が作り出した家畜、それに一部のペットに限られている。それを可能にしたの

は、人類が農業や畜産業を発展させてきたからである。しかし、そうした営みが一方で

地球の絶妙なバランスを破壊してきたことも事実だ。このまま人口増を続ければ、やが

て先進国の家畜と後発国の人間が穀物などの食料を奪い合う事態になりかねない。見方

によれば、それはすでに始まっているのかもしれない。

今も人口爆発に近い状態が続いている原因は、アフリカなどの出生率が高すぎることに

あるが、世界各国の出生率をかいつまんで表記すると次の通りである。

           世界の合計特殊出生率

 1.ニジェール   6.74      104. メキシコ    2.08

 2.ソマリア    5.89      128. フランス    1.83

 3.コンゴ     5.72      141. 中国      1.70

 4.マリ      5.69      145.スエーデン    1.66

 5.チャド     5.55              146. アメリカ       1.64

 6.アンゴラ    5.37      165.ドイツ      1.53 

 7.ナイジェリア  5.25      185.   日本       1.34

 8.ブルンジ    5.24      193.  イタリア      1.24

 9.ガンビア    5.09      198.   台湾        0.99

10.ブルキナファソ 5.03      201.   韓国        0.84

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 世界平均:2.39         人口置換水準値:2.08

 

・この表の通り、上位10傑はすべてアフリカの国々で、出生率5.0以上と極めて高い水準

にある。その多くは慢性的な飢餓と貧困に悩まされており、政治も不安定な状況だ。

しかし、栄養失調の子供に栄養剤を送るといった人道的支援は根本解決にはならず、

ユニセフの活動も逆効果を生んでいる可能性がある。

・人口の増減がなくなる出生率2.08程度の国は104位のメキシコで、先進国は概ねそれ

以下のレベルにある。

・この表にはないがインドは2.18で置換水準に近付きつつあり、中国は既に1.70と減少

局面に入っている。

・最下位韓国の0.84という数値は、”絶滅危惧種的水準”とでもいうべき民族的危機状態

にある。

 

個々に見れば、それぞれに事情が異なるが、世界平均が2.39を示しているとおり地球全

体の人口はまだ増加を続け、100億人突破も目前に迫っているというのが現在の状況で

ある。はたして、このような状態を持続することが可能なのだろうか。

今もてはやされているSDGsは”持続可能“を売りにしているわけだが、その17の目標の

中に「人口抑制」という項目はない。というより、目標のほとんどはむしろ人口増を促

しかねない項目ばかりに見える。

SDGsは2015年の国連総会で満場一致で採択された2030年までの行動指針である。

持続可能な世界を築くための17の目標と169のターゲットが示されているわけだが、最

も重要視しているテーマは「あらゆる貧困と欠乏からの解放」であり、人道的な意味合

いが強い。満場一致で採択されたのはそのためであり、また強制力を伴っていないから

でもある。もそも民主主義における“満場一致”は“無効”に終わることが多い。悪く言え

ば、痛みを伴わない”絵空事”にすぎないからだ。残念ながら、今回もこれといった成果

は期待できそうにない。

世界のリーダーは勇気を出して”人口抑制”を口にすべき時なのである。

                       2022.09.25

  

国葬について考えてみた(J-121)

まさか“検討士”の汚名を雪がんとした訳でもあるまいが、岸田総理にしては珍しい即断

即決が、自ら泥沼に足を踏み入れたような事態を招いている。

他でもない、安倍元総理の国葬問題である。

それも、総理が決意発表した直後は賛成派が多かったのに、今や反対派が圧倒的多数になっているのだ。

この変化をもたらした背景には、議論の中心が国葬の是非から政府与党と旧統一教会

の関係、言い換えれば安倍元総理が国葬に値するかどうかに移行してきたからである。

その方向に誘導してきたのはメディアと野党の協同作戦だと言ってもいいだろう。

で、おまえはどっちだ?と聞かれれば、私は”賛成“と答える。

その理由は、“今更中止は出来ない”というその一点にある。

案内状をちらつかせながら“国会を無視した決め方に反対だから欠席する”と、ここぞと

ばかりにアピールする野党議員もいるが、今更どうしろというのか。

今の日本の状況を外国側から観察すれば、“日本人を洗脳するのはさほど難しくない”と

侮られるかもしれない。本当は、日本人は“染まる”のではなく、少し味付けをして“吸収

する”という本能があるので、そうたやすくは洗脳されないのだが、そういうイメージ

を持たれることがまずいのである。何かとちょっかいを出される遠因になるからだ。

総理が世界に約束したからには、もはや他の選択肢はないではないか。

とは言え、今後もこのままでいいとは思われない。

何が問題なのか、とりあえずここまでの経緯を振り返ってみよう。

 

安倍元総理が非業の最期を遂げたのは7月8日であった。事件は衝撃とともにまたたくま

に伝播し、その死を悼む声が世界に充満した。自民党本部は献花に訪れる市民であふれ

かえり、アメリカではホワイトハウスに半旗が掲げられ、オーストラリアでは公共施設

が日の丸を模した赤と白でライトアップされた。

そのような雰囲気の中で、岸田総理は7.14の記者会見で安倍総理の功績について語ると

ともに、次のごとく国葬を行う決意を述べた。

“安倍元総理は外国首脳を含む国際社会から極めて高い評価を受けており、また民主主

義の根幹たる選挙が行われている中、突然の蛮行により逝去されたものであり、国の内

外から幅広い哀悼・追悼の意が寄せられている。こうした点を勘案しこの秋に「国葬

義」の形式で安倍元総理の葬儀を行うことといたします。国葬義を執り行うことで、安

倍元総理を追悼するとともに我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くと

いう決意を示してまいります。合わせて、活力にあふれた日本を受け継ぎ未来を切り開

いていくという気持ちを世界に示していきたいと考えています。“

これは、7月22日の閣議決定に先駆けた、いわば勇み足ともとれる即断である。

国葬となればその費用は全額国の負担となり、当然ながらその根拠が求められる。

その根拠として挙げられたのは、2001年施行の内閣府設置法4条32項で、

“国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること”という条文だ。

しかしそこには国葬に至る条件・手続きに関する記述はない。つまりこの法律は国葬

実施する場合は内閣がその事務を所掌すると定めているに過ぎないとも読める。

いやそうではない、”国の儀式には①天皇の国事行為として行う儀式と②閣議決定で国

の儀式に位置付けられた儀式の2種類があり②の具体例として故吉田元首相の国葬義が

あると補足説明をした文書(内閣府設置法コンメンタール)がある”と内部文書を持ち

出した人もある。それは、この法律の施行前に政府の中央省庁等改革推進本部事務局内

閣班が作成したものだ。しかしその効力については意見が分かれるところだ。

 

そもそも国葬とはどういうものであろうか。

明治のころは個別の勅令に拠っていたが、大正15年以降は「国葬法」に基づいて実施さ

れた。対象者のほとんどは皇族又は華族で、例外的に東郷平八郎山本五十六などの功

労者が含まれた。戦後国葬法は廃止されたので、基本的には皇室典範25条に規定された

大喪の礼」のみが法的に根拠のある国葬なのだが、唯一の例外が1967年(s.42)の吉

田茂元総理の国葬である。これは吉田茂を恩師として仰ぐ当時の首相佐藤栄作の強い意

向に基づき行われたものだ。この時は、1951年(s.26)に行われた貞明皇太后(大正天

皇妃)の「大喪儀」(準国葬扱い)が閣議決定により執行されたことを根拠とされた。

しかし、その翌年さらにはその翌年と、国葬の基準を設けるべきではないかという意見

が野党議員からあがり、与党側もいずれ検討を要する課題であるとしていたが、1977年

に当時の総務長官が“吉田元総理の時は内閣の決定で行っているので今後もそれでよい

との見解を示し、今日に至っている。実は佐藤元総理が亡くなったときもノーベル平和

賞受賞の功績なども考慮されて国葬の動きもあったのだが、内閣法制局が「三権の了承

が必要」との見解を示したため断念した経緯があるらしい。

いずれにせよ国葬をめぐっては複雑な経緯がある。

岸田総理はそれらを考慮しなかったのだろうか。

吉田茂国葬に際しては、死去から国葬義までわずか11日の期間しかない。その間に佐

藤元総理はフルパワーを発揮して野党の内諾を得ている。おそらく相当前から“吉田さ

んは国葬にする”と決心していたのだろう。

岸田総理はどうか。単に事件直後の雰囲気に乗っただけで、もしかすると低迷する支持

率の改善につながると考えただけではないのか。いつまでたっても国民を納得させる説

明ができないのはそもそも動機が不純だからではないのか。要するに、佐藤元総理とは

覚悟が違うのである。

一方、国葬に関するルール作りがなおざりにされてきた責任の一端は野党側にもある。

おそらく彼らにその自覚はない。

世界には様々な国葬の形態がある。最も多いのは当然国家元首ということになるが、次

は著しい功績のあった人、国家の危機を救った人、国宝のような人と言ったところだ。

少々異質なところはフランスで、2020年にはムハンマドの風刺画を生徒に見せたことへ

の報復として殺害されたサミュエル・パティという中学教師が国葬にされている。

少々ひねくれた見方かも知れないが、そもそも葬儀という儀式は故人のためというより

はその儀式を催す人のためにあるのが常だ。先ほどの例で言えば佐藤元首相は、恩人で

ある吉田元総理に“最高の恩返し”をして自分を納得させたかったのであろうし、岸田総

理の場合は支持率アップにつなげたかったというわけだ。

基本的に、故人は亡きあとも我々に影響を及ぼすことができるが、その逆は不可能なの

である。

ここまで書けばわかっていただけたと思うのだが、“国葬は「大喪の礼」のみでよい”

が私の本心だ。

その理由は次の通り極めて単純なものである。

・明確なルールがない

・ルールを作っても曖昧な表現にならざるを得ず、結局は時の内閣の思惑で決まる。

・そもそも葬儀と宗教色は切り離せないもの。宗教色の排除は本人無視の証拠。

・葬儀は既に終わっている。やるとすれば追悼式か”お別れ会“のようなものになる。

 

ときあたかも、エリザベス女王が逝去され、近々(9.19)国葬が行われる。幸か不幸

か、我々は英国の国葬と日本のもう一つの国葬大喪の礼以外の)を比較しながら考え

る機会を得たということになる。そしておそらく、私たちは日本のもう一つの国葬がい

かに“味気ない”ものであるかを知ることになるだろう。

議論はそこからで良い。

そして私が望む決着は、日本の国葬は「大喪の礼」のみとし、もう一つの国葬は、内閣

主催の追悼式あたりに格下げすることだ。その費用の全額または一部を国が負担するこ

ともルール化すれば問題はない。

岸田総理は国葬義に当たり“国民に弔意は求めない”という。

そんな国葬国葬と認めるほど私の頭は柔らかくない。

                        2022.9.16

教訓には賞味期限がある(Y-42)

 

9月5日、静岡県認定こども園で3歳の女児が、約4時間も送迎バスの中に置き去りにさ

れ、熱射病で死亡するという事故が発生した。女児は衣服を脱ぎ水筒は空になっていと

聞けば、その痛ましさは限りなく怒りさえこみあげてくる。

家内の第一声は「去年もあったばかりなのにどういうこと」であったが、毎日新聞の社

説も「教訓何故生かせなかった」となっている。その教訓とは、昨年7月31日に起きた

福岡県の保育園で5歳の男児が死亡した同種の事故を指している。しかし、実はその前

にも2007年に北九州市の無認可保育園で同じような事故が起きているのである。

永岡文科相は6日の会見で、“このような事案が再度起きてしまったことは極めて遺憾、

一体あの通知は何だったのかという風にも思う。再発防止に向け内閣、厚生労働省と連

携して様々な機会に注意喚起を行い、送迎バスにおける子供の安全確保に努めてまいり

たい”と今後の方針(?)を述べた。

大臣が言う”あの通知“とは福岡県の事故後に出されたもので、次のような内容だ。

・送迎バスを運行する場合は、運転を担当する職員の他に子供の対応ができる職員が同

 乗するのが望ましい。

・子供の乗車時及び降車時に座席や人数の確認を実施し、その内容を職員の間で共有す      

 ること。

大臣はこの通知をほぼ守っていたこども園で今回の事故が発生したことに対し、再度通

知を出して様々な機会に注意喚起をすることで改善を図ろうということらしい。

だとすれば、“無能”としか言いようがなく、失望するほかない。

 

「マッハの恐怖」など、ヒューマンエラーに関する著作で知られる柳田邦男は、「航空

事故」(中公新書)のなかで、“機械やシステムの欠陥や弱点を人間の注意やマニュア

ルによって補おうとすると必ず破綻するという「公理」がある”と述べ、英国の著名な

学者一家の一員であるオルダス・ハックスレイは、“歴史から得られる最大の教訓は、

人類が歴史から得られる教訓を少しも役立てなかったことである”と皮肉たっぷりに語

っている。二人の言葉は、いささかオーバーな表現にも見えるが、ヒューマンエラーの

克服がいかに難問であるかを強調したものだ。

われわれ人間は、自分の経験でさえその教訓を生かしきれないのが常だ。ましてや、

他人の経験から得られる教訓など、1年やそこらですっかり忘れてしまうことを今回の

事故は物語っている。

“教訓”には賞味期限があるのである。

だから永岡大臣はその賞味期限が切れないうちに、プロジェクトチームを作るなりし

て、実効性のある対策を講じると言わねばならない。賞味期限は思いのほか短い、急が

ねばならないのである。そして、その主体は、厚労省ではなくて国交省であるはずだ。

なぜなら、問題は保育園の送迎バスに限った問題ではないからだ。

 

アメリカでは、子供を放置して車を離れただけで”虐待”と見なされる。

にもかかわらず、ワシントンポストのレポートによると、1998年以降の15年間で、682

人の子供が高温の車内でなくなり、その54%が置き忘れであるという。この現象を脳

科学者のデビット・ダイアモンド博士が、「赤ちゃん忘れ症候群」(Forgotten baby

Syndrome )と名付けた。同種の事故は世界中で起きているのである。だが、それらの

すべてを保護者の無責任や愛情の欠如に結び付けることは大きな間違いだ。日本でも、

出勤途中で子供を保育所に預ける予定の父親がそれを忘れ、勤務先の駐車場で1歳の女

児が死亡するといった事故が起きている。その父親廃止は医師である。

ヒューマンエラーを犯す人物には欠陥があると考えるのは間違いだ。人はミスを犯すも

のであり、ヒューマンエラーは”人間の証明“でもあるとかんがえるべきなのだ。

 

日常生活の中で、最も身近にヒューマンエラーに接するものと言えば交通事故である。

時代的に見れば、車の普及とともに交通事故も増加の一途をたどり、ひところは「交通

戦争」という言葉がしばしば使われた時代もあった。交通ルールや規制の強化に顕著な

効果は見られず、それは長らく社会問題の一つであった。それが車自体と環境の両面に

わたるハード面の安全対策が進んだことで、近年著しく改善されている。近い将来、追

突事故やアクセル/ブレーキの踏み間違いと言った事故はほぼなくなる可能性がある。

赤ちゃん忘れ症候群への対処も技術的にはそれほどの難問とは思われない。要は覚悟の

問題だ。現に北米日産は、子どもを置き忘れないための安全装備を4ドアモデルの全車

に標準装備すると発表した。EUでは幼児の送迎車両に置き忘れ防止のために最後尾に設

置されたスイッチを押さないとキーが抜けないといった対策も取られている。

日本でも、浜松市のフルティフル合同会社が子供の置き忘れ防止に役立つ無料のアプリ

を提供しており、8月末からバスモードの試験運用を始めているそうだ。

永岡大臣はこれらの事情をご存じないのであろう。というより、社会全体が、

”犯人捜し“と”責任者に対する追及“に熱中するメディアに毒されている。

やがてはその”方角違い“に気づき、より効果的な対策がとられるに違いないとは思う。

しかしながら、実はそれでもヒューマンエラーの問題は完全解決に至らないということ

も理解しておかねばならない。新たな安全対策が、それまでになかった思いがけない

ヒューマンエラーを生むこともあるからである。

そもそも安全というものは存在しない。安全には実体がないのである。

存在するのは危険であり、極言すれば、許容内にある「危険」のことを我々は「安全」

と呼んでいる。

だから「安全」を手に入れるためには、「危険」を見極め危険と闘い続けなければなら

ない。そして「安全」が長く続けば続くほど、危険に対する感度は鈍くなって行く。

皮肉なことに「安全の継続」が「安全の敵」にもなることもある。

あらゆる教訓には「賞味期限」があることを忘れてはならない。

                       2022.09.12

 

から得られる教訓には賞味期限があることを忘れてはならない。

 

 

 

MVP 気になる行方(J-120)

8月の終わり、大谷が所属するエンゼルスは、ホームに東部地区首位を独走する人気の

ヤンキースを迎え、今シーズン最後の3連戦に臨んだ。

しかし、チームは既にポストシーズンへの望みを完全に絶たれており、果たして観客が

足を運んでくれるかどうかということになると、はなはだ心細い状況にあった。

ところがふたを開けてみれば、連日満員の大盛況となったのである。

その理由は他でもない、MVPの有力候補アーロン・ジャッジと大谷翔平の直接対決に注

目が集まったからだ。そして、残念ながら、投手大谷対ジャッジの対決は実現しなかっ

たが、ゲームは観客が期待した通りの展開となった。

第1戦は、両者がホームランを放ち大いに沸いたが、大谷の2ランがジャッジのソロに

勝る形で、エンゼルスが4-3で勝利した。そして第2戦は、ジャッジの3ランが効い

て7-4でヤンキースが雪辱した。

ここまではともに4安打であったが、内容的にはジャッジの2ホーマー4打点が明らかに

勝っていた。

ところが第3戦、大谷は見事にその立場をひっくり返した。2点リードされた6回裏、

ランナー2人を置いての第30号逆転3ランである。しかも相手は、奪三振王の剛腕コール

投手だ。

この一発は、あまりにも強烈だった。

それは、ジャッジがややリードとみられるMVPレースにも少なからぬ影響を与えたに相

違なく、もしかするとヤ・軍はその後遺症が出るかもしれないと思わせるほどの衝撃弾

であった。

この3連戦で相対的に評価を挙げたのは大谷の方で、ますます混とんとしてきたMVPの

行方であるが、どうやらその状態は最後まで続きそうである。

先ずジャッジの成績を見てみよう。

今シーズンのボールは“飛ばない”といわれる中で、彼は既に54本のホームランを量産

し、2位以下に20本以上の差をつける圧倒的なパフォーマンスを発揮している。

ナ・リーグのトップに対しても17本の開きがあり、ア・リーグの最多記録61本も射程

圏内にある。3冠王は難しいが、打者部門のほとんどの項目で1位の座にあり、普通なら

文句なしのMVPであろう。また、もともとMVPは、成績よりも勝利貢献度が重視さ

れることから、優勝チームから選出されるべきだという意見も根強い。ヤンキースが優

勝すれば、それはジャッジにとって大きなアドヴァンテージとなるだろう。さらには、

MVPは打者部門から選出されてきた経緯があり、大谷の投手成績が軽視される可能性

がある。

昨シーズン、大谷は満票でMVPに選出されたが、それは最後までホームラン王を争いな

がら申告敬遠に泣かされたことへの同情や、大谷の二刀流がMLBのルールを変更させ

た(投手を降板しても打者として継続できる)ことへの敬意があったからであろう。

しかしその一方で、大谷自身がインタヴューに答えた“誰もやらなかっただけで、普通

の数字かも知れないし・・”というコメントに同調するグループも一定数存在する。

大谷は投手としても打者としてもチーム内トップの成績を上げており、勝利貢献度は極

めて高い。しかしチームが弱すぎてそれがアドヴァンテージにならないのである。

では、ジャッジを上回る票を獲得するためには何が必要であろうか。

そのために絶対に必要な条件は、規定投球回数規定打席数をクリアすることだ。

打席数についてはすでに達成しており、現在打率は .269で25位、打点は85で4位、

本塁打は32本で2位となっている。私が重視するOPS長打率+出塁率)は .898で

3位である。いずれもジャッジに劣るが立派な成績である。

問題は投球回数の方だ。こちらは規定ぎりぎりの状態が続いており成績表には名前が載

ったり消えたりを繰り返している。しかし、前回のアストロズ戦で8回1失点と好投し、

何とかなりそうなところに漕ぎつけた。実は規定投球回数の達成は、現代野球では厳し

すぎる条件(試合数と同じで162回)で、これを達成する投手は20人程度しかいない。

しかし、昨年達成できなかった大谷がこれをクリアすれば、投手大谷の”非凡さ“がはっ

きりと浮かび上がってくる。防御率2.58は現在5位、奪三振率は堂々の1位でK/BB(三

振/四球)5.48は5位。その上にいるのはサイヤング賞候補の超一流投手だけである。

二人の成績を比較した時、もしMVPが日本語として一般的に使われる「最優秀選手賞」

の意味であるならば、軍配はおそらく大谷に上がる。しかし、MVPにふさわしい日本語

訳は、やはり「最高殊勲選手賞」なのだ。大谷にとっては、そこが悩ましいところだ。

この後大谷は、アストロズマリナーズ、ツインズ、レンジャーズの4戦かそれにアス

レチックスを加えた5戦に登板して規定回数をクリアするはずである。とくに苦手とし

ている相手もなく、防御率や勝利数などの指標もさらに伸びていくに違いない。

いずれにせよ今シーズンのMVPは予想しがたく、最後まで分からない状況が続くに違い

ない。そればかりか、決定した後も議論が収束しないかもしれない。

というのも、そもそも二刀流をどう評価すべきかその評価尺度がないのである。

「すごい」という日本語を広め、MLBのルールを変えた男・大谷翔平は、近い将来

大谷翔平賞”を新設させることになるのかもしれない。

                       2022.09.06

 

 

あずきバーが呼び覚ました記憶(Y-41)

 

あずきバー」という名の氷菓がある。

1973年に井村屋が売り出して以来人気は衰えず、国民的商品とも言われるほどの存在感

を保ち続けている。固いのが特徴なので、「やわらか~い!」という誉め言葉しか知ら

ないような今どきの若者には不人気かもしれないが、年配者には受けがいい。

つい最近のこと、少々歯を気にしながらこの氷菓を一口噛んだとき、その独特のあずき

の風味が突然古い記憶を呼び覚ました。

それは小学生の頃の学校給食の場面で、おそらく昭和27年ごろの出来事だ。

たしか水曜日のメニューの中に「ミルクぜんざい」というのがあって、中には苦手な子

もいたが、私は“おかわり希望”の列に並ぶほど好きだった。その場面がありありと蘇っ

たのである。

当時一般家庭に冷蔵庫はなく、冷たい牛乳を飲む習慣はなかった。この「ミルクぜんざ

い」のミルクも元はスキムミルク、つまり脱脂粉乳で水に溶いて温めたものだ。それに

あずきと砂糖を加えたものが「ミルクぜんざい」というわけだ。

味は“生ぬるく甘く”、今時の子供なら「うえっ」と顔をしかめそうな代物だった。

さて、その脱脂粉乳の出所はといえば国内産であろうはずがない、やはりアメリカから

やってきたものであった。

それから70年の時は流れて2015年4月、当時の安倍総理が米議会で「“filibuster”(長い演

説による議事妨害)をするつもりはないが・・・」と断りながら長い演説をした。

その中で、戦後の食糧支援などに関して”ミルク、暖かいセーターそして何と2,036頭の

ヤギまで送られてきた“と感謝の言葉を述べる部分があった。

それらの支援物資は「ラ・ラ物資」と呼ばれていたが、「ラ・ラ」とは「Licensed

Agencies for Relief in Asia (アジア救済公認団体)」のことで、皇后陛下が昭和24年に

お詠みになった一首にも次のごとくその名が残されている。

  “ラ・ラのしな つまれたるみてとつくにの あつきこころに涙こぼしつ”

まさに涙が出るほど有難かった支援に対し、感謝の意を伝える親善大使を送ることにな

り、その代表を選抜するために開かれたのが「ミス日本コンテスト」の始まりである。

第1号に選ばれたのが、のちの大女優山本富士子であった。昭和25年のことである。

しかしこのストーリーは、実は”表の美談”であって、その裏には知られざる感動の物語

が埋もれたままとなっているのである。

そのことを書き残したのは、ノンフィクション作家の上坂冬子氏だ。

彼女は元はトヨタの社員であったが、倹約してアパートを建て、やがてそれを4階建て

のビルに発展させてテナントを入れ、自らは最上階に住んで執筆活動をつづけた。

食うためでなく自由に書くためにそうしたのである。

だから、細川護熙首相の“日本が侵略戦争を行った”という発言に対しては、“何と粗雑に

して迂闊な発言であろうか”と痛烈に批判し、また2004年には本籍地を国後島に移すと

いう実に痛快な言論と行動を展開した。惜しくも2009年に78歳で亡くなるのだが、その

彼女が2008年文芸春秋の季刊夏号「日本人へ」(私が伝え残したいこと)に「ラ・ラ物

資の生みの親、浅野七之助さんのこと」という一文を寄稿している。

亡くなる半年前の文芸春秋の企画に際し、おそらく山ほどあるネタの中から彼女が選ん

だ題材なので、それなりの強い思いが込められているとみるべきだろう。

上坂氏が初めて浅野氏に会ったのは、昭和天皇在位60年記念式典に浅野氏が招かれ来日

した時であったという。しかしこの時すでに91歳になっていた浅野氏は、疲労困憊の様

子でとても取材できる状態ではなく、上坂氏は別途渡米して話を聞いたらしい。

そこまでしたのなら、彼女の著作のどこかにこの話が載っていそうだが、私の調べでは

確認できていない。

浅野氏の経歴などは盛岡市のホームページやウィキペディアなどでも見ることができる

が、詳しい記述はないので、結局は上坂氏の短い寄稿文に頼ってまとめてみると次のよ

うなことになる。

浅野氏は明治27年盛岡市に生まれ、同郷の政友会総裁原敬の書生となる。23歳の時、東

京毎夕新聞特派員として渡米し1924年からは朝日新聞通信員として勤務するが、戦時中

日系人キャンプに強制収容される。戦争が終結しサンフランシスコに戻ると、当時の

法律によりアメリカ国籍を取得できなかった日本人の中には住居を乗っ取られた人たち

もいるという更なる”理不尽“が待っていた。そこで浅野氏は日本人の帰化権獲得の運動

を起こすべく、手掛かりとして昭和21年に日本語新聞「日米時事」を発刊する。同時に

故国の窮状を知り、「日本難民救済会」を設立して紙上で日本へ救援物資を送ることを

呼びかる。これが先に述べたLARAに発展するのである。当時アメリカの慈善活動は

「American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad」(海外事業篤志アメリ

カ協議会)が担っていたが、その対象地域はヨーロッパのみであった。未だ反日感情

残る中、日本向けの救済活動には抵抗もあったようだが、浅野氏の元へはアメリカのみ

ならず、ブラジル、メキシコ、アルゼンチンなどに住む“さほど豊かでない”日本人から

の救援物資が次々に贈られてきた。

昭和21年末、ラ・ラの第1船は、アメリカの軍用缶詰10万ドル分と日本難民救済会から

の3万ドル分の救援物資を積んで横浜港に入港した。

つまり救援物資には、とつくに(異国)の篤き心と、とつくに住む日本人の熱き心の両

者が詰まっていたのである。しかし後者については何故か肝心の日本人に正しく伝わっ

ていない。浅野氏は、”発起人である自分にはそのことを伝える義務がある”と最後まで

そのことを気にしながら平成5年98歳で亡くなったという。

浅野氏は1987年にサンフランシスコ市から表彰され、事実は確かめてないがその日5月

16日は「浅野七之助デー」としてメモリーされているという話もある。

この物語は健全なるPatriotism の問題であり、教科書にあってもよさそうなエピソード

である。Patriotism は、「愛国心」と同義であるが、日本では”愛国心=Nationalism”の

イメージが強い。そしてNationalismは国粋主義に結び付く。

朝日新聞が、この誇るべき元社員のエピソードに敢えて無関心な態度をとっているのは

おそらくそのためだ。

上坂氏は寄稿文の最後を“浅野七郎氏の創刊した「日米時事」は、いまも氏が人生の大

半を過ごしたサンフランシスコで刊行を続けている”という言葉で結んでいる。

しかし残念なことに、「日米時事」は、氏が亡くなった数か月後の2009年9月に廃刊と

なっている。

この物語のように、光が当たらないまま放置されている戦中・戦後談はいくらでもあ

る。そしてそれらを知る度に”戦後はまだ終わっていない”ことを痛感する。

                        2022.09.05

 

                   

統一教会とメディア(J-119 )

長らく世の耳目を集めてきた問題と言えばコロナとウクライナであるが、この7月から

は「旧統一教会」がそれに加わっている。とくにTVの世界では、ニュースもワイドショ

ーもこの“3本建て”が定番となっている。いずれも出口が見えないものの、コロナは感染

者数から死者数へ、「統一教会」は被害よりも「政治家との関係」へと、時とともにそ

の焦点は移動している。それはある意味当然なのかもしれないが、「統一教会」に関し

ては当初から気になって仕方がない部分が私にはある。

それが何かと言えば、この宗教法人とメディアの双方に感じられる同質の”匂い“のよう

なものだ。そしてそれは、決してメディアが報じないところでもある。

その匂いとは何か、それはどこから来るのか、この際少し掘り下げてみたいと思う。

 

統一教会」とは、文鮮明という人物が1954年韓国に創設した「世界基督教統一神霊協

会」という宗教団体の略称である。日本へは1959年から布教を始め1964年に宗教法人と

して認可されている。

そこに至るまでの文鮮明の半生はまことに波乱万丈である。生まれたのは1920年、つま

り日本統治下における現在の北朝鮮だ。大東亜戦争の最中には日本の専門学校で学び

1943年に帰郷するが、「抗日独立運動」にかかわっていたという容疑で逮捕される。

その後、金百文が立てた「イスラエル修道会」に入り強い影響を受ける(この時代に

師の執筆中の原稿を盗んだという説もある)。1945年からこの「原理」に基づいた布教

活動を始めるが、キリスト教主流派などから迫害されソ連軍占領下の平壌に移る。とこ

ろがここでも南朝鮮のスパイであるとされ収容所送りとなる。するとそこに救いの主が

訪れる。1950年に勃発した朝鮮戦争だ。彼は国連軍に解放されて釜山で港湾労働者とし

て働き始める。そのかたわら1952年に「原理原本」を完成させ、翌年にはソウルに拠点

を移してついに「統一教会」を創立する。それが1954年、自らをイエス・キリストの再

臨と宣言する34歳の教祖の誕生である。

その後1960年には、生涯の伴侶にしてよき協力者となる当時17歳の韓鶴子と結婚を果た

す。彼自身は41歳にして3度目の結婚であるが(関係した女性は多すぎて詳細不明)、

鶴子との相性はよく14人の子供をもうけている。

1972年にはアメリカに総本部を移して布教活動を世界に展開してゆく。その活動を強力

に後押ししたのは、反共産主義思想の展開と資金調達の成功である。

1968年には「国際勝共連合」を設立して韓国の朴政権や日米の保守政治家との結び付き

を深め、1974年には「世界平和教授アカデミー」を設立する。そして、75年の「世界日

報」、82年の「ワシントンタイムズ」発刊へと言論界にも足を踏み入れてゆく。それら

の活動に必要な莫大な資金のほとんどは日本から調達したとみられているが、問題はそ

の方法である。

1980年代、教会は姓名判断や家系図鑑定と絡めた印鑑や壺などの商品販売を始める。

いわゆる「霊感商法」である。やがてその悪名が世に知れ渡りうまくいかなくなると、

次はターゲットに狙いを定め徹底的に搾り取る作戦に切り替える。その被害者の一人が

安倍元総理を殺害した若者の母親というわけだが、協会は信者たちに対し、“かつて日

本(人)は韓国(人)に対して消すことのできない悪事を働いているのでその償いをし

続けなければならない”という教義の“刷り込み”を行っているのだという。

さて、日本(人)だけに通じるそれらのアイデアは誰が考えたのであろうか。

私はそのアイデアは日本人のスタッフから生まれたものに違いないと思う。そして、

そのスタッフはおそらく、”日本(人)は贖罪すべきだ”と信じているのである。

 

統一教会が盛んにあくどい資金集めをやっていた1980年代、日本はバブル経済に浮かれ

ていた時代であったが、いわゆる歴史問題がクローズアップされた時代でもあった。

・1982年、「第1次教科書問題」が発生した。6月26日の朝刊で、新聞各社が“教科書検

定で「侵略」が「進出」に書き換えられた”と一斉に報じたのが発端だ。7月26日には中

国政府が抗議する事態に発展する騒ぎとなるのだが、よく調べるとその事実はなく、

記者クラブが手分けして調べた作業におけるカン違い、つまり誤報であった(ある記者

が意図的に行ったという説も有力である)。

・1985.8.6 朝日新聞が「靖国批判」を報じた。1978年にいわゆるA級戦犯が合祀され

ていたことを知り、疑問を提示したのである。これによって中国政府が初めて靖国を非

難し、騒ぎは大きくなって中曽根首相は翌年から公式参拝を止めた。数年おきに実施さ

れていた天皇陛下の親拝は1975.11.21以降実施されていない。

終戦直後、靖国は存続か解体かで揺れ動いていた。わずか1年余りで憲法を制定させた

GHQ靖国の解体に踏み切れなかったのは、カトリック神父などの進言の影響もあり賛

否が分かれていたからだ。しかし、存続の決め手となったのは、もたもたしているうち

GHQの軸足が「日本の非軍事化」から「共産主義に対抗する同盟国」へと変化した事

情があったものと思われる。アメリカにとっての真の敵が誰であるかを理解した瞬間と

も言えるだろう。

戦後靖国は国の管理下にはなく神社本庁にも属していない。だから何事も、違法性がな

ければ“靖国の勝手”であり、そうでなくても内政問題である。

しかし、このままでは国に殉じた英霊たちに申し訳が立たないことも事実だ。

やはり天皇陛下の親拝があってこその靖国であることを思えば、その環境が整備される

ことが国民の願いではないだろうか。

・1983年に吉田清治が「私の戦争犯罪」で“慰安婦狩り”を著わしてから、その真偽をめ

ぐる論争が激しくなっていた慰安婦問題であるが、1991.8.11に元慰安婦が名乗り出た

とて朝日新聞がスクープした。植村隆記者の署名入りである。

タイトルは“元朝鮮人従軍慰安婦戦後半世紀重い口を開く”でその記事の前文には“「女子

挺身隊」の名で戦場に連行され・・・”と書かれている。

さらに朝日は、1992.1.11の一面トップで「慰安所軍関与示す資料」が発見されたと報

じ、それが事情がよくわからないまま5日後に訪韓した宮沢首相が8回も謝罪するという

失態を演じるもととなった。

その資料は、普通に読めばわかるのだが、実は騙して募集するような悪質な業者の取り

締まりを強化せよという軍の指示であり、関与は関与でも真逆の事実を証明する試料で

あった。

吉田清治の証言は後に本人が作り話であることを自白し、植村記者の記事にも明らかな

誤謬が見られるにもかかわらず、朝日が一連の記事の誤りを認めたのは2014.8.5であ

り、このときに謝罪はしていない。謝罪はその後の非難を受けて、福島原発事故の際の

誤報(作業員が命令に違反して撤退した)に対する謝罪会見時に合わせて付け加えただ

けである。その態度は、”自分たちの報道姿勢は正しい”と言わんばかりである。

 

かくのごとく、いわゆる歴史問題は真実とはかけ離れたところで論争が続いている。

しかもここに上げた例が示すように、その多くは”日本発“といってもよい。

Comfort womenに変えて、初めてsex slave という言葉を使ったのも日本人の戸塚悦朗

弁護士だ。

 

門田隆将は「新聞という病」のなかで、問題のトリガーとなった一連の報道を「ご注進

ジャーナリズム」と呼び、”彼らに「自分たちが日本を貶めている」という意識は全く

ない”と驚いている。おそらくその通りなのであろう。

だからややこしいのである。

やっていることは反日でも、心は愛国なのかもしれないのだ。

 

統一教会をよく知る人たちは「信者の皆さんは“いい人”が多い」と口をそろえる。

彼らは韓・中に対する贖罪こそが第一に為すべきことであると信じ、あたかも免罪符を

得るが如くに教会のいかがわしい商品を買い献金を続けている・・・おそらく。

 

こうして掘り下げてみると、私が統一教会とメディアの双方から感じる同じ匂いの正体

は、どうやらこの韓・中に対する「贖罪」意識のようだ。そしてそのもとはと言えば遠

く遡った戦後の数年間GHQに支配されていた時代に受けた“刷り込み”にあると考えられ

る。それが東京裁判史観だと言われれば、否定はしない。この呪縛から脱却するのは容

易なことではないが、重要な鍵の一つが「憲法改正」であることは間違いない。

言うだけ番長“”検討士“のニックネームを付けられた岸田総理への期待感は萎むばかり

である。

                       2022.08.25